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リソースがないところで、ソーシャルキャピタルだけでは機能しない。

ソーシャルキャピタル(信頼、つながり、社会参加や互酬性)で地域の豊かさを上げていくという議論の中で、間違っていけないのは、
「金や資源がないからソーシャルキャピタルでなんとかしよう!」
というもの。
誤解されがちだが、
リソースがないところでソーシャルキャピタルだけでは機能しない。
ある一定の経済的な安定があり、リソースがある場所で、
ソーシャルキャピタルも機能する。
これは1990年代の北欧での政策の失敗から学ぶことができる。

また例えばだが、
アメリカの、
公立学校、私立名門校、カトリック系の学校で、
成績を比べてみると、
カトリック系の学校
私立名門校
公立学校
の順番の成績となったようだ。
(ソーシャルキャピタル以外の因子を合わせた場合に)

これが意味するところは、
カトリック系の学校は「共同体的」ソーシャルキャピタル(これは詳しい記述はないが、親同士含めて「共に生きる」という感覚が強いのだろうと思う)があり、そこは私立名門校(お金が注ぎ込まれているがソーシャルキャピタルは低い)よりも子供の成績に好影響を与えたという結果が出た。

一方で一般的に公立学校よりも私立名門校の方が高かったことは、ソーシャルキャピタルだけでは機能せず、ある一定の水準までリソースが整っている必要があるということでもある。

人々の幸福度でもそうだが、世帯収入700万円〜1000万円ぐらいまでは幸福度や健康度も上がっていくが、それ以上は収入が増えても幸福度の変化はあまりないとされている。
(ただ、これは今の社会制度の中でなわけで、
社会制度が変われば金額は変わるはずだ。)

ベーシックな部分は経済性はとても大切だが、
ある一定の域値を超えると経済性(お金を入れる)では伸びなくなるので、
他の要因を掛け合わせていく必要がある。その時にソーシャルキャピタルが有効に機能するのだろう。

裏を返せば、ある一定を超えるお金を入れないと
ソーシャルキャピタルは機能しないということでもある。



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