見出し画像

窓から入り込んだ、まっくろくろすけ

夫に先立たれたある女性は、その家で亡くなった夫に話しかけながら生活を送っていた。その場にいないはずの夫ではあるけれど、彼女のなかに、あるいは、その家のなかに夫はいて、夫に話しかけることが彼女にとって癒しになっていた。
やがて、彼女の元にも病が訪れ、彼女は家から離れた病院に入院することになった。入院してしばらくして、彼女はこう言った。「病院には夫は付いてきてくれなかった」

たしかこんな話しだった。いつ見聞きしたかも忘れてしまったが、なぜだかその話しが僕のなかに残っている。

アピチャッポン・ウィーラセタクンの『ブンミおじさんの森』で描かれた森と都市との対比は、前述の事柄と少なからず重なるところがあるだろう。

「ブンミおじさん」は、森の家で暮らす。そこには、亡くなって幽霊になった妻や、精霊になってしまった息子が現れ、彼らとの会話が当然成立するという前提のなかで、リアルとアンリアルが交差しながらストーリーが展開する。

https://eiga-pop.com/files/image/1572/image_1572_i5eaa47c22ebba.webp
https://eiga-pop.com/files/image/1572/image_1572_i5eaa47d5219c7.webp

一方、ブンミオジさんの義理の妹(ジェン)は、都市生活者である。この映画の終盤ではじめて描かれる都市の部屋(これはホテルの一室なのだが)は、個人の記憶が積層する場所ではなく、あるサイズとテクスチャーを持った、がらんどうの空間である。ホテルであるから、そこで過ごす人は入れ替わり続ける。そこに宿泊者ひとりひとりのアイデンティティは認められない。
そして、あたりまえのように、その部屋のアイデンティティも認められていない。同じ間取りであれば、他の部屋との区別はなく、部屋の入り口に書いてある番号によって識別されるのみである。
部屋は、明るく無機質で、暗く怪しいブンミおじさんの住む森の家と比べると、いかにも対比的である。当然ながら、幽霊や精霊はそこには現れない。

https://eiga-pop.com/files/image/1572/image_1572_i606d8194a928d.webp

いつだったか母が親戚の誰かと次のようなことを話していた。

長磯ながいその家は、海のすぐ前にあってね。あのじいさんは、ずーっと海を眺めてて。癌になって、入院しなければならなくなったんだけど、行きたくないっていって、みんな困って。だけど、最後には入院することになって。そしたら、入院してすぐに死んでしまって。そのまま海眺めてた方が良かったんじゃなかったのかね。

記憶の堆積した場所は、がらんどうの空間に飲み込まれていく。
日本では、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』が世界を飲み込もうとするモダニズムに対するリアクションとして、暗さのなかにある美を強調した。だけれど、その防波堤は結局、どの程度役に立ったのだろう。

『ブンミおじさんの森』で、ジェンの部屋を訪れた、彼女の息子トンは僧侶である。僧侶の服を脱ぎ、若者らしい格好に着替えてから、トンは、腹が減ったからセブンイレブンに行こうと言う。日本で生まれたコンビニという空間が増殖し、タイの場所を飲み込むのを目の前に突きつけられているような感じがする。

ジェンは独り身である。若さと美しさを失ったことを憂うジェンは、逞しい青年となった息子トンをたぶん男としてみてしまったのだと思う。そして、タブーへの憧れは、分身を生み出してしまう。
森に暮らすブンミおじさんの願望や想念は、精霊や幽霊を産みだし、それらが彼の人生に介入してくるけれど、都市ではそれは起こらない。明るさが幽霊や精霊の存在を許さないだろう。それゆえ、ジェンは自らを分身させることでしか欲求をみたすことができないのだ。

https://eiga-pop.com/files/image/1572/image_1572_i606d818e74dd1.webp

そういえば、新宿には、女装者が利用できる着替え部屋やロッカールームがあると聞いたことがある。
地方の大学を出て、東京に来た頃、新宿二丁目に行ってみたことがある。何もわからず入ったゲイバーでは、客のサラリーマンの格好をした中年男性が、店の女装をした中年男性の太腿を舐めていた。ゲイバーで働く人は、昼間は別の仕事をしていることが多いと聞いたことがある。だがら、太腿を舐められていた女装をした中年男性は、昼間は別の人格を生きているだろう。
都市において、というか現代において、わたしたちは、自らを分身させ、二重もしくは多重の人格生きることになるのだ。

夜、僕は夕食を食べて、少しすると浴室へ向かう。僕が先に身体を洗い、お風呂に浸かって少しだけゆっくりする。三歳の息子をお風呂に入れなければならないから、妻が息子を連れてくるまでの5分程が、ひとりの時間である。この5分のおかげで、僕は僕であるような気がする。いつからかお風呂は、出来るだけ暗くするようになった。お湯に浸かるというよりは、闇に浸かっているような気がする。浴室はユニットバスだけれど、それでも暗くすると、壁は闇に同化して奥行きを獲得し、それと同時に、僕の身体は安らぎ、イメージが蛇のように動きだす。
息子は、暗いのを怖がる。おばけが来るという。特に強調したわけでもないのに、彼は何をみているのだろう。そういえば、息子だけではなく、ネリ(ボストンテリア)も何もない暗闇に向かって吠えていることがある。

三歳の息子が僕のケータイで撮った写真

ここは東京から少しだけ離れている。周りには、サツキとメイが住んでいたような家がまだ少し残っていて、夜には窓の外から虫の声が聞こえてくる。
うちはマンションで、ブンミおじさんの森の家のように暗く妖しくはないけれど、ジェンのいるホテルのように明るく無機質でもない。
この家で暮らしはじめたのは、僕と妻にとって、「つい4年程前」であるけれど、思えば、息子やネリは世界を認識しはじめた頃からこの部屋にいるのだ。
僕と妻からすれば、僅かな闇であったとしても、彼らにとってみれば、それは記憶を堆積させるのには充分な暗さを保っているのかもしれない。だから、息子やネリには、窓からそっと入り込んだ、まっくろくろすけか何かが見えているのかもしれない。
そして、僕と同じように、サツキとメイのお父さんに、マックロクロスケはみえていない。


この記事が参加している募集

映画が好き

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?