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はとがの空間性

佐藤さんは優しい。
佐藤さんが優しい。

この"は"と"が"の使い分けは、どのようになされているか知っているだろうか。

僕の会社の隣の席の女性は、中国から来た方なのだが、日本語をとても上手に話し、建築の専門用語も使いこなす。とても優秀な方だ。
だけど、日本語の微妙なニュアンスについては、なかな難しいところもあるようだ。
そこで、隣の席にいた僕が議事録などの日本語のチェックをお願いされることが多くなった。

彼女の書いた文章を読んでいると、
"は"と"が"などの助詞に違和感のある使い方がされていることが多いのに気が付いた。

そこで、それを彼女に指摘したのだけど、
使い分けのルールはなんですか?
と聞かれて、黙ってしまった。
普段どう使い分けているのか、考えてみると自分自身でもよくわからなかったのだ。

そこで少し調べてみたのが、冒頭の文章である。
一応これに触れておくと、

佐藤さんは社長だ。(名詞文)
佐藤さんはやさしい。(形容詞文)
佐藤さんが来た。(動詞文)

上の例文の"は"と"が"を入れ替えると、

佐藤さんが社長だ。(名詞文)
佐藤さんがやさしい。(形容詞文)
佐藤さんは来た。(動詞文)

こうすると、"他を排除して該当者を特定するような解釈"となる。(下記、引用元)

つまり、
"佐藤さんがやさしい。"
であれば、
佐藤さんは優しいけれど、他の人は優しくないなどのニュアンスを帯びるのだ。 

今まで自分たちは、こんなにも複雑なルールを使いこなしているのかと、不思議な気持ちだったし、
使いこなすことと、知っていることは全く別のことだと言うことに気がついた。

それ以来、彼女と話すとき、彼女の(もしくは自分の)使っている言葉が気にかかるようになった。
特に、空間について話しているとき、彼女はいま本当はどういう空間を思い描いているのだろうと考えると、とても面白いのだ。

たとえば、僕たちが"軒下の空間"という言葉を使ったとすると、彼女と僕の思い描く"軒下の空間"は、たぶんすれ違っている。
そして、それは彼女の日本語のスキルの問題ではなく、言葉の背景にある文化の違いによるものだろう。

建築や空間をつくるための言葉が違うのであれば、最終的に出来上がるものもその影響を受けて、自然と異なってくる。

中国語を母国語とする彼女と、日本語を母国語とするぼくの空間を作る過程で思考するための言葉は違う。
そして、日本の建築家と中国の建築家のつくる建築の空間性は、どこか違うのだ。

そう考えてみると、日々の私たちの使う言葉も少しちがってみえてくる。

空間と言葉との関係は、調べていくととても面白い。特に、日本の空間がどのような言葉で記述され、独自の空間をかたちづくってきたかというのは特に面白い。

下記は、『「しきり」の文化論』という書籍からの引用である。

日本の仕切りはかならずしも、障子や襖のように完全に空間を遮断するものばかりではない。欄間やさがり壁のように、一部だけのものもある。こうした仕切りは視線も遮らない。しかし、そこには仕切がある。
(中略)
「敷居が高い」という言葉は、段差が物理的段差ではなく、意識に関わる暗黙の境界になっていることを意味している。
(中略)
日本の仕切は、相互に気配を感じさせる仕切が多い。その仕切は、日本における人間関係のあり方を反映していた。

つまり、日本の空間のあり方は、私たち日本人の文化=言葉が表出したものとみることもできる。

ひとつ例を挙げるならば、
この書籍の中でも紹介されている関守石という"しきり"は、いかにも日本的な"しきり"である。

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引用元:https://schaft.exblog.jp/23357641/

これは、"茶庭の飛び石や延段の岐路に据えられる、縄で十文字に結んである小石"である。

壁を立てて、シャットアウトするのではなく、
相手の気持ちを慮るようなこの頼りない境界は、日本人の控えめなコミュニケーションの仕方を良くして表している。

ここまできて、僕が導きたい結論は、
"だから、日本の空間、もしくは言葉は素晴らしい"
ということではない。

この日本的な空間のあり方のように、同じく中国的な空間のあり方や、その国や地方にもその独自の空間のあり方がそれぞれにあるはずなのである。
そして、その空間のあり方の背後には、その国や地方の人たちの文化=言葉があるのだ。

このように考えると、旅で訪れた国や地方の、ふとした空間も、その背後にある文化=言葉に思いを馳せれば、きっとまたちがってみえて来るだろう。

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