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まちのスケールと、そこにおける私たちのふるまい

これまでも何度か言っているように、僕自身としては、このメディアを地方礼賛のスタンスでやっているわけではない。
であれば、なぜ地方の暮らしを記録するのかと問われるなら、地方の暮らしを扱い、それを記録するということの意味は自分の中にしっかりとあって、その一つには、私たちがどういう器に入れられたときに、どういうふるまいをするのか、つまり、私たちの暮らしを規定している構造を知りたいという欲求があるのだ。

今回記録したのは、真鶴のタカハシさんという20代男性の暮らしだ。

真鶴は神奈川県の西部に位置する、真鶴半島とその周辺からなる人口1万人にも満たない小さな町だ。長さ約7キロメートル、幅約1キロメートルという大きさで、歩いて一周するのにもそれほど時間を要さないだろう。そのような町で、タカハシさんは1年程は暮らした。(私たちの記事に協力してくれた後、タカハシさんは真鶴を離れることになった。)

この小さな町での彼の暮らしは、これまでの暮らしとは少し変わったものになった。具体的には、道ですれ違う人と挨拶をするようになり、町の店に行けばその店主は顔見知りであるという状況が日常になっていったのだ。
真鶴という小さな町のスケール感が、こういった暮らしを形作るのだろう。

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ところで、”小さな町”と書いたのだけれど、私たちにとって暮らす町(あるいは街)が大きいか、小さいかというのは、相対的だと思うのだ。では、何と相対化されるかといえば、それはやはりその人の生まれ育った環境だろう。

僕自身、出身地の函館の大きさと比べて、東京やその他の街の大きさを測っているところがある。(特に、函館は陸の孤島のような感じだから街の大きさという概念が形成されやすいというのもあるかもしれないが。)

タカハシさんは、静岡市の出身で市街地での暮らしをバックグラウンドに持っている。そんな彼から語られる真鶴が、とても"小さな町"に感じられた。
週末に行く小田原の街のスケール感もそう見るとまた違ったように見えてくる。彼自身もそこに良くも悪くもこれまでとのギャップを感じているから、このような場面で彼はシャッターを切ったのだろうか。

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そんなタカハシさんが、これからの暮らしの舞台にするのは東京だという。東京という街のスケールにおいて、今度彼がどう暮らすのか機会があれば聞いてみたい。

タカハシさんの暮らしは、こちら


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