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失われてしまうという、あたりまえのこと_2022.01.03

仕事や子育てに追い立てられる日々のなかで、年末年始のこの時期がひとつの休憩地点となる。

妻の実家に行って近況を話したり、古い友人からの年賀状をもらったりと、普段の忙しい日々のなかではなかなか思いを巡らせられない事象に、やっと立ち止まって触れられる。

そういったいくつかあるトピックスのなかで、妻のおばあちゃんが施設に入ったということが僕のなかで大きい。結婚の報告に行ったとき以来、このおばあちゃんとはなぜか気が合う感じがあり、よく可愛がってくれていたのだけれど、認知症が進み、僕のことももうわからないという。
幸い、自分にひ孫がいることはなんとかわかっているようで、よく息子の写真をみていると聞いた。

おばあちゃんのことだけではなく、この時期はSNSでも知り合いの大きな報告を目にすることが多い。めでたい報告もあれば、悲しい報告もある。

こういう機会に出会うと、僕が普段、自分や家族の日常が永遠に続くことを前提として日々を過ごしていたということに気付せられる。そして次に、それは永遠に続くことはなく、そのうちに失われてしまうという、あたりまえのことに気付くのだ。

それは、過去に僕を襲った不安障害であるかもしれないし、あるいは他の病であるかも知れないし、または死であるかもしれない。

そう思うからこそ日々を大切にしようと思うのだけれど、それはたぶんまた忙しさのなかに溶けていくのだろう。
それでも、この時期に僕のなかに落ちる暗さは、日々のなかに差し込む明るさの背景になってくれる。

僕にとってこの年末年始とは、そんなことを考える時間であった。

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