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再掲「未来の校則は《自律の歴史書》」+他の記事を読んで思ったことなど

「コート着用は認めない」という「ブラック校則」のニュースから、会社内ルールに言及し、「規則は合理的でなければ」という松井宏彰さんの記事(↓)を読みました。

私もまったく同感です。
以前、「みらいの校則」という記事募集に応じたことがあり、その中でいくつかの投稿記事を読みましたが、ひとつ、気になった記事がありました。

それは若い中学教師の体験談で、生徒集会か何かで校則に関する議論があり、普段から校則を守らないヤンチャ女子が、こんな校則(例に挙げられたのは、「靴下はくるぶしまで隠れなければならない」だったと思う)必要ない、と言い張り、先生自身も内心(そんなのどうでもいい)と思っており対応に困っていた。
そんな中、リーダー的優等生の男子生徒が、
「確かにそんなルールは必要ないかもしれない。でも、君のようにそもそもルールがあっても守らない人間がそんなこと主張しても議論にならない」
と言い、その場の一同(教師も生徒も)みな、そうだそうだ、と優等生に賛同し、そこで議論は終わった。

1年以上経っているので、正確ではないかもしれませんが、ほぼ……

私がとても気になったのは、この先生が男子生徒(きっと学級委員とか生徒会長とか、そんなキャラでしょう)の発言、およびその発言で納得して議論を終えた一同、その両方を肯定的に捉えていることでした。
(私もオトナですから、面倒を回避できた安堵感は理解できなくもないですが……)

noteでは、記事に対して反対意見は書かない、という暗黙のルールがあるようで、私も基本的には従っていますが(「提案」はします)、この時だけは「肯定・共感」なしコメントを書いてしまいました。

・規則は、作った側がその合理的理由を説明する責任がある。
・この男子生徒の言に全員賛成で校則に関して議論する、という機会が失われたのはマズい。
・例えば、靴下には素足を保護する役目があり、くるぶしまで覆うのは、安全のためではないか?(少なくともそういった議論になっていいのではないか?)

松井さんの記事にも、「安全第一という合理的理由」から社員の服装を注意する場面が描かれています。

私が勤務していた会社でも、バンカラ風博士研究者が入社し、腰にいつもタオルを下げていたことがありました。
上司がかなり細かい人で、
「みっともないから止めろ」
と注意しても止めない。学生時代からのスタイルでしょう。
すると、別の先輩が、
「タオルがモーターに巻き込まれて大事故につながる可能性がある。タオルに限らず、何かをぶら下げて実験室に立ち入ってはいけない」
と《合理的説明》をしたところ、素直にその習慣を放棄しました。

さて、せっかくなので、私の記事も再掲させていただきます:

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未来の校則は《自律の歴史書》

 制服は一応あるけれど、私服で通学しても「おとがめ」はない、という高校に3年通った。生徒手帳にあったのかどうなのか、「校則」箇所を読んだことのある生徒は身近にいなかった。
 ただ、噂では、校則はひとつだけ存在し、「下駄通学禁止」だとのこと。「禁止」と言われるとやりたくなるのは人の常で、ある日、裸足に下駄で通学した。
 いつものように遅刻して既に1時間目が始まっていたこともあり、油の塗られた木製の廊下を歩く私の足音は、とてつもなく大きく響き渡り、何事かと教室から顔を出す先生や生徒もいた。
(なるほど、これは禁止するはずだ)
 と合点がいった。

《実際に禁止事項を実施することにより、禁止の意味がわかる》

 結局その日、誰にも咎められはしなかったが、けっこう恥ずかしい思いをして、下駄通学は1日限りとなった。


 長女は、制服着用義務のある高校に進学した。
 好きな私服で通学する方がよかろう、と言ったら、
「制服の方がいいじゃん。朝、今日は何を着て行こうかって悩まなくてすむし」
 と取り合わない。
「そこをアタマ使って悩むのがいいんじゃねーか」
 と言ったが、水掛け論だった。
(まあ、《楽》な方に人は流れる)
 たぶん、制服着用は、学校側も管理がしやすいし、生徒も頭を悩ませなくていい、《楽》なシステムなのだ。業者と学校が癒着して、(なぜか)高価な制服を買わせて双方利益を得ている、などと邪推してはいけない。


 次女は私と同じ高校に入学した。
 親戚のおばさんが、
「いいわねえ、お父さんと同じ、自由な高校で」
 と社交辞令で言ったら、
「私は、父を《反面教師》として生きています」
 と真顔で応じた。
 30年前の自分を見るようだった。遺伝とは恐ろしい。
 同時に、前世代を否定するとは、なかなか頼もしいヤツ、とも思ったが、よくよく考えれば、彼女が否定したのは前の世代ではなく、私ひとりだ。


 校則はルールであり、生徒の《心》と《体》と《行動》を《拘束》し、《律する》ものである。

《校則は拘束だ》 うーむ、座布団1枚、かな?

 とにかく、その《拘束》が、ひとりひとりの生徒の《人生》にとって、プラスになるものでなくてはならない。
 《人生》が多様なんだから、プラスに作用する《拘束条件》も当然、多様だろう。
 実際、私服通学が許されていた私の高校時代も、半数近くの生徒は制服で通学していたし、気分や天気によって制服⇔私服スイッチする者もいた。前者は、私の長女のように、《楽でいいじゃん》派だったのかもしれないし、家庭環境など、それ以外の理由があったのかもしれない。

 だから、《拘束ルール》はひとりひとり、自分で決めるのがいい。《自律》であーる。ここで自分の人生を考え、頭を使って考えるのは、とても重要なことだ。

 オジサン・オバサン社会でも、自分に「禁酒」の掟を課す人もいれば、「ビール大瓶1本だけ」と決めている人もいる。「必ず終電に間に合うよう店を出る」と胸を張る人もいる。

 壁に「禁酒」と張り紙するように、各々の《ご法度事項》を紙に書いて、学校の壁に張り出すといいかもしれない。他の生徒の《ご法度/個人校則》を読んで、いろいろ《気付き》があるだろう。
 《ご法度破り》には、先生からではなく、他の生徒から、
「お前、《個人校則》、破ってるじゃねーか」
 と指摘されることになる。

《これが、未来の校則だ》

 もちろん、途中で考えが変わった場合は《改定》すれば良い。ただし、以前書いた紙の上に、どう変えたかわかるようにする。── いわゆる《二本線訂正》というヤツだ。
 それによって、自分自身の(高校ならば)3年間の《自律の歴史》がわかる

 そして、卒業時には、卒業証書と共に、校長なり担任教師から、この《自律の歴史書》を渡されるのだ。

 うん、この《歴史書》は貴重なものになるはずだ ── 卒業証書よりも、はるかに。

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