『神風連資料館』訪問記
仕事で熊本大学工学部(黒髪キャンパス)を訪れた時、会議を終えた後、帰りの便までかなり時間があったので、熊大から徒歩5分ぐらいの場所にある『神風連資料館』に行ってみました。
ここには、明治維新後に肥後藩の士族により結成された『敬神党』が『廃刀令』への反対運動として1876年(明治9年)に起こした『神風連の乱』について、その背景や経過に関わる資料を展示しています。
そこは『櫻山神社』の境内でした。
資料館は普通の民家サイズで、管理人らしき年配の男性がひとり。おそらく……ですが、平日の訪問者はきわめて少ないのだろう、と想像できました。
『神風連の乱』では、1876年10月24日深夜、敬神党がいくつかの隊に分かれ、
① 熊本鎮台司令官・種田政明宅を襲撃・殺害。
② 熊本県令・安岡良亮宅を襲撃・殺害。
③ 熊本城内にあった明治政府の熊本鎮台を襲撃・砲兵営を制圧。
しかし、翌日には政府軍の児玉源太郎以下が駆けつけて反撃し、わずか1日で反乱は鎮められます。反乱軍の多くは討ち死にか自刃、あるいは捕らえられ斬首となりました。
とはいえ、この反乱は、この年の『秋月の乱』や『萩の乱』そして翌年の『西南戦争』に繋がっていくことになります。
教科書的には『不平士族の反乱』とひとことで括られますが、『神風連の乱』は国学・神道教育を重視する勤皇党の思想がそのバックボーンにありました。
資料館の管理人さんにいくつか質問をすると、
「結局、彼らは純粋だったんでしょうね。明治政府の近代化政策に『裏切られた』と感じたようです」
資料の中で目に留まったのがこの錦絵:
この他に、全員で鎮台を襲う図や反撃を受けて参加者が討ち死にしていく場面も錦絵になっているのですが、上記襲撃図では、種田少将が自宅(というか、政府軍の幹部社宅なのでしょう)で愛妾・小勝さん(左端)と寝ているところを襲われています。
小勝さんも負傷しますが、東京の両親に電報を打ちます:
「ダンナワイケナイ ワタシハテキズ」
つまり、旦那である種田少将は命を落とし、自分は手傷を負った、というわけで、本人は必死の思いで連絡したのでしょうが、この電報文は超・有名になります。
仮名垣魯文が、この文面に、
「代わりたいぞえ、国のため」
と続けて『仮名読新聞』に載せたためです。
今も昔もジャーナリズムの力って大きいですね。
さらに、その真似をして、下の句を作る者が次々と現れて流行語になったとのことです。
なんだか、今でいう『リツイート』的です。
川上音二郎などはブームに便乗し、この電報文をそのまま題名にした芝居を上演して大入りだったそうです。
もうひとつ、こんなコーナーもありました:
三島は晩年、『神風連の乱』に関心を持ち、熊本に取材に来ていたとのことです。その取材は、『豊饒の海』第二部『奔馬』に生かされると共に、彼の最後の行動にも影響していると示唆されています。
熊本には三島との関係について、実名小説『三島由紀夫――剣と寒紅』を書いた、福島次郎も住んでいました。
知っていたこと、知らなかったこと、どちらもあり、── 勉強になりました。
でも、この日、この資料館を訪れたのは、私のほかに何人いるのだろうか、とも思いました。