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進化(短編小説;2700文字)

 仕事を終えて帰宅すると、ソファの上に海獺ラッコがいた。

 濃密な茶系統の体毛に包まれたそれ・・は、海面に浮かぶように仰向けに横たわり、腹の上に大きな二枚貝をいくつか置き、短い前あしで魚を抱えていた。
 朝、家を出る時にもそれ・・はその場所でその体勢だったが、その時はまだ海獺ラッコではなかった ── ように思う。
(いや……というより)
 思えばそれ・・は、この家に来て以来、ずっとそのソファの上、その体勢で腹の上に置いたあれこれを弄ったり、齧ったりしていたような気がした。
(ある意味、風貌の『海獺ラッコ化』以外は何も変わっていない ── とも言える)
 海獺ラッコは前あしで魚の頭を咥え、絶え間なく口を動かしていた。

「── ただいま」
 海獺ラッコに声をかけた ── ことになる ── この家には今、俺とそれ・・しかいないのだから。
 海獺ラッコはその黒く丸い眼球を一瞬、こちらに動かしたようにも見えたが、あるいは気のせいかもしれない。口の動きに変化はなかった。
「……あれ?」
 よく見ると、海獺ラッコの口の中に徐々に消えていくのは魚ではなく、芋 ── サツマイモのようだった。

 俺はリビングに鞄を置き、ネクタイを緩めた。会社は《クールビズ》を内外にアナウンスしていたが、社長をはじめ、全員が営業といっても言い過ぎではないその組織で、素直に従う者はいなかった。

 風呂は沸いていたので空腹のまま服を脱いだ。
(……海獺ラッコなら本来、居場所はソファよりここのはず)
 湯舟に体を沈めながら思った。
 湯の表面には動物の体毛がいくつも浮き、洗い場にもあちこちに落ちていた ── 俺より先に海獺ラッコが入って毛繕いをしたのだろう。

 風呂から上がると、海獺ラッコは相変わらずソファの上、仰向けに寝そべっていた。
 魚 ── いや芋は既に食べ終わったようで、脇腹のたるみがポケット化した部分から長い石のようなものを取り出した。
 てっきりその石を腹の上の貝に打ち付けるかと思ったが……そうではなかった。

 ── 唐突に、ソファと並行にしつらえた42インチのモニターが点灯し、『週刊こどもニュース』が始まった。

「── いやあ、可愛いですねえ ── 仕草が ── なんとも」
 女性レポーターの甲高い声が聞こえた。
 TV画面では、プールサイドの女性飼育員から魚をもらい、握手やバンザイ、合掌などのポーズを、胸から上を水面から出した海獺ラッコが、── 仕草こそ愛らしいが ── 無表情で披露していた。
「このコは女のコなんです。ここには2頭のラッコがいますが、ふたりとも……ってのは変かな?……女のコなんですよ」
 ひととおり芸を披露した最後に飼育員が投げた魚を追ってプール中央に泳ぎ出したその『女のコ』は、餌を捕えると、仰向けに浮かび、腹の上に小魚を抱え大事そうに食べ始めた。

 こちらのソファでは同じポーズの、けれどかなり大柄な海獺ラッコが、首だけTVの方に傾げ、水族館で飼われている『同胞』をじっと眺めていた。
 その手、いや前あしに握っているのは石ではなく、TVのリモコンだった。腹の上に載せているのも二枚貝ではなく、エアコンと照明のリモコン、それに充電中のスマホだった。
 ── 《進化》前と何も変わっていない。

「── でも今、国内で飼育されているラッコちゃん、3頭しかいないんですって!」
 レポーターが心配そうに語る。
 その横で、館長らしい男性が説明した。
「ラッコって、実は2000年に絶滅危惧種に指定されたんです。その2年前にはアメリカが輸出禁止策を打ち出したので、ラッコを輸入して飼育することができなくなりました」
「そうなんですか!」
「ええ、最盛期の1994年には、全国28館で122頭が飼育されていたんですけどね。ここに来館されるお客さまは、今ではとても貴重になった動物の生態を見ることができるんです」
 プールには、もう1頭の海獺ラッコも現れ、投げ込まれたボールを奪い合ったり、2頭で芸を披露したりして観客の喝采を浴びていた。

(……貴重になった動物の生態、か)
 俺はもう一度、ソファの上を見た。
 海獺ラッコは俺の方に前あしを伸ばした。魚 ── いや、芋を欲しがっているのかもしれない。
(こいつにあんな芸ができるだろうか……)

 翌日、ソファの上で変わらず同じ風貌同じ態勢の海獺ラッコを確認した後、前夜の番組で紹介された水族館に電話してみた。
「海獣担当の責任者につないでください」
 こちらの名を告げ、メスの海獺ラッコを一頭寄贈したいと言うと、責任者は電話の向こうで比喩でなく飛び上がったのがわかるほどの興奮ぶりだった。
「あ、ああああ、ありがとうございます! 3頭目ですね! そちらからご寄贈いただいた2頭、元気に活躍しています! すごい人気です! それでまた新たに1頭! 本当に助かります! この水族館にとって救世主です!」

 搬送方法など、事務的な打ち合わせに入ろうとしたら、向こうの口調が変わった。
「あの……あまりお尋ねしない方がいいのかもしれませんが……何か特別なルートがおありなんでしょうか? 米国はずっと輸出禁止ですが……ひょっとして、ロシアとか?」
「── いえ、違います ── 国内産です」
 相変わらず貝 ── でなく、スマホやリモコンをいじっているソファ上の海獺ラッコを見た。
「── 何か問題があるようでしたら、寄贈を取り止めても……」
「あ、いえ、国内で飼われていたものでしたら、大丈夫です」
 先方はあわててさえぎり、日程調整などの話に移った。

 電話を切り、海獺ラッコに芋を与えた。
 腹の上のTVリモコンに手を伸ばしたら、歯をむいて威嚇してきた。
(……やれやれ)
 チャンネル権を奪われ、好きな番組を見られなくなったのはずいぶん前からだ。

 ── と、また唐突にTVが点き、昨夜とまったく同じ水族館の海獺ラッコショーが始まった。
(……録画して何度も見ているのか……?)
 確かに昨夜、あんな遅くに『週刊こどもニュース』をやってるはずがなかった。

 画面では、2頭のメスの海獺ラッコが戯れていた。
(仲良くやっているようだな……ここでは
 プールに潜ったり、水面で高速回転を披露する前妻前々妻を見て、俺は思った。
(それにしても ──)
 傍らのソファに横たわり、活発に泳ぎ回る前任者たちを凝視する海獺ラッコに目をやった。
(── 今回の《進化》は早かったな。前のふたりはひと月近くかかってゆっくり《変貌》していったのに)

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