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「信用がある」から起きる逆転劇

将棋の第71期王座戦は、9月27日の第3局、藤井聡太竜王名人の大逆転勝利で2-1のスコアとなり、最短で2週間後の10月11日(水)で決まるわけですが、その話題ではなく ── 。

実は、藤井さんが王座戦の挑戦者に決まるまでの本戦トーナメント(シード+予選勝ち抜きの計16人による挑戦者決定戦)はいずれも厳しい戦いでしたが、中でも1度、彼にとって絶体絶命のピンチがありました。
それは村田顕弘六段との準々決勝で、藤井さんは『ほぼ必敗』の窮地に追い込まれました。
しかし、そこで藤井さんは銀をタダで捨てるあやしい勝負手を放ち、村田六段が対応を間違え、大逆転しました。ここで藤井さんが敗れていれば、8冠制覇の可能性はさらに1年後に延びたはずです。

9月27日の王座戦第3局もそうだったのですが、相手が藤井さんのような強敵だと、
(……この人がそんな単純な手を指すはずがない)
(……この手は罠じゃないだろうか)
(……普通の対応では失敗するのではないか)
などと迷ったり深読みし過ぎて、かまわず攻めればいいところで守ったり、石橋をたたき過ぎて頑丈な橋を壊してしまうことがあるようです。

このような場合、将棋の世界では、
『強い棋士は《信用がある》から』
と表現します。

全盛期の羽生九段に対してもよく使われた表現で、羽生さんの指したなんでもない手に対して、相手が疑心暗鬼になって対応を間違えたり、間違えはしなくとも貴重な持ち時間を使い果たして先に1分将棋に追い込まれたりした時に、
『羽生さんは信用がありますからね』
というように使われたようです。

これはおそらく、将棋以外の世界では見られない現象なのではないでしょうか?

例えば、強豪と対戦した柔道の選手が、相手の技を極度に警戒してほとんど組み合うことなく、判定で敗れる、というようなケースとは相当異なります。
マラソンで絶対王者に勝つため、序盤から飛ばしに飛ばして結局スタミナ切れになってしまった、というのはどうでしょうか? ── 少し近いかな。

プロ野球界にはその昔、
『王ボール』
『長嶋ボール』
という判定があり、ぎりぎりのコースを攻めた投球を王・長嶋が見逃した場合には、審判が、
「ボール!」
とコールした、と言われています。
これはまったく似て非なるものであり、名選手に《信用がある》事例に見えてしかし、その実は、審判がリスクを避けて権威におもねていただけのことです。

村田顕弘六段は9月27日の王座戦第3局で解説者を務め、その中で、藤井さんとの準々決勝に触れ、
「今も局面が夢に出てくる」
と漏らしました。あの大逆転は悔やんでも悔やみきれなかったことでしょう。

将棋AIならば、相手がいかなる強豪であろうとも、その《信用》に左右されることなどないはずです。

対戦相手の《信用》のために心が大きく揺れ動く ── それこそがまさに、
『人間どうしの勝負』
であり、そんな人間ドラマのある世界が、私は好きです。

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