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ゼンとアク(森の童話;4400文字)

 旅の途中、若者は大きな森にさしかかりました。あざやかに色付き始めた広葉樹と、緑を保ったまま秋を迎えた針葉樹とが混じり合う、なんだか奇妙な森でした。
 その森を抜けると、恋人の住む村があるはずでした。

「おおい、そこの若いお方!」
 大木の根方ねかたで休んでいると、旅の商人らしい太った男が、遠くから血相を変えて呼びかけました。
「あんた、何も知らんのか? そんな所にいると、えらい事になるぞ。こっちへ来なさい!」
「なんでしょうか?」
 彼が歩み寄ると、旅の商人は小声で囁きました。
「覚えておくんだ。この森は善悪ぜんあくの森といって、他の木々に混じって、《ゼン》という名の、い事をする者を肥やしにして大きくなる木と、《アク》と呼ばれる、悪い行為を栄養にして成長する木とがある。ほれ、あんたの坐っていた木は幹が高く真っ直ぐ伸びているだろう? あれが《ゼン》の木だ。あぶない所だったな。あそこであんたが何かい事をすれば、たちまち根っこに養分を取られて土になってしまうんだ」
「へえ、知らなかったな。じゃ、《アク》ってのは?」
「ほら、向こうに見える、くねった幹と枝に毒々しいオレンジ色の葉をいっぱい付けた木 ── あれが《アク》の木だ」
「ふうん」
「人間の行いというのはたいてい、い事と悪事とのどちらかに分類されるものだ。そして、《ゼン》《アク》も地中に根を張り巡らせておる。いつ根が地面に飛び出して来んとも限らん。私ら旅の者はどちらの木にも近づかんよう注意せねばならぬ」
「おじさんは栄養良さそうだからな」
「し、失礼な! あんたは何も知らんようだから、道連れになってやろうか?」
「別にどっちでもいいよ。なりたきゃどうぞ」
「まったく! 近頃の若いモンは礼儀も感謝も知らんな!」

 商人は腹を立てながらも、彼を先導するように、ぴったり付いて歩きました。そして、時々振り返っては、
「ほれ! 《アク》の木がある!」
「あれは《ゼン》だ! 気をつけろ!」
 などと彼の耳元で叫ぶのでした。
「うるさいなあ、もう。おじさん、そもそもい事って、一体どういう事なんだい?」
「そんな事も知らんのか? 他人のためになる事をするのがい事だ。貧しい人にお金をやったり、困っている人を助けたりする事だ」
「へえ。じゃ、おじさん、そういう事をいつもしてるの?」
「うっ‥‥、そりゃ、その‥‥」
「 ── してないみたいだね。じゃ、《ゼン》を怖がる事なんか、何もないじゃないか」
「いや、その、‥‥私は基本的にはい人間だ。だから、いつい事をせんとも限らんのだ」
「へえ。じゃ、悪い事ってのは?」
「た、例えば、人の物を盗んだり、人を傷つけたりするような事だ」
「そういう事、おじさん、よくしてるの?」
「と、とんでもない! 馬鹿言うな!」
「じゃ、《アク》の木も平気な筈じゃないか」
「へ、屁理屈を言うな! だ、黙って注意しながら歩いてろ!」

 ところが、森が次第に深まりゆくにつれ、《ゼン》の木も《アク》の木も本数が増え、どちらかの木の近くを通らずに森を抜ける事は難しくなってきました。
「こ、これはえらい事になってきた‥‥」

 商人は《ゼン》の木の横を震えながら歩いていて、木の根につまずき転んでしまいました。
「大丈夫かい、おじさん? ほら」
 彼が手を差し出すと、
「やややめろ! やめるんだ!」
 商人は叫びました。
「何わめいてるの? 変な人だなあ」
 彼は商人を助け起こしました。
「うわわわっ!」
 商人はまた叫びましたが、何も起こりません。
「おかしいな。い事をしたのに、お前は無事のままだ」
い事?」彼は首をひねりました。
い事って、今のがかい? 僕はただ、そうしたいからしただけさ。第一、前を歩いてたおじさんを起こさなきゃ、僕が進めないじゃないか」

 《アク》の木のそばにさしかかった時の事です。
「あんた、先に行ってくれんか?」商人が言いました。
「靴ひもが解けたんだ」
「ああいいよ」
 うずくまった商人を見ながら、若者は前に出ました。
「変なの、おじさん。靴ひもなんて解けていないじゃないか」
「うわあっ! 許してくれい!」
 商人はまた、頭を抱え込んで叫びました。
「どうしたの、一体?」
 驚く若者に、商人はそうっと顔を上げました。
「だ、大丈夫だ‥‥? 何にも起こらん‥‥?」
「何怖がってるの、おじさん?」
「いや、その‥‥」商人はバツが悪そうな顔で立ち上がりました。
《アク》の木の近くを歩くのが恐ろしくなっちまってな。それで、あんたに先に歩いてもらえんかと思ってうそ言ったんだ。その、万が一、あんたがやられても、私は逃げられるからな」
「うん。それで?」
「それで、ってお前、腹が立たないのか?」
「別に」
《アク》の木の前でこんな悪い事を考えたんだから、狙われるのは私の方だ、と気が付いたんだが‥‥、何ともなかった」
「そりゃそうさ」若者は肩をすくめた。
「おじさんは怖くなったんだろ? 悪いも何もないよ。自然な事じゃないか」
「そ、そうか?」
 商人は怪訝けげんそうな表情のまま、若者の後について歩き出しました。

「おじさん、元気出せよ。顔色が悪いぜ。ほら、食べるかい?」
 若者が麻袋から干し肉を取り出すと、商人は両手を広げ、おびえた顔で後退りしました。
「よ、よせ! ほれ、そこに《ゼン》の木があるぞ! い事をするなって何度も言っただろう?」
い事?」若者は頭をひねりました。
「僕はい行為も悪い行為もしてないよ。僕のしている事はどちらでもない、誰かのために何かをするわけじゃないんだ。誰かにい事をしてあげようなんて、思ってやしない。誰かに意地悪をしようとも思ってやしない。自分にこころよい事をしているだけなんだ」
 再び歩き出した若者の後を、慎重な足取りで商人が続きました。やがて、濃密だった森は少しずつ樹影を減らし、それと共に、《ゼン》の木も《アク》の木もまばらになってきました。

「ふう。ここまで来ればひと安心だ」森のはずれ近くまで来た時に、商人は深い息をつきました。
「もう、どちらの木のそばを通らなくても森の外に出られる」
 彼は安心したのか、口の滑りがよくなって来ました。
「最初は随分心配したが、どうやら無事に来れたな」
 若者は黙って歩を進めました。彼の心は森の向こうの村に住む、恋人のもとに飛んでいたのです。
「おい、若いの。お前も私という道連れがいて助かっただろう? 私が親切に声をかけてやらなけりゃ、うっかりした事で《ゼン》《アク》に捕まって、今頃は肥やしにされていたかもしれん。少しは感謝してもらわんとな」
 なおも黙って歩いている若者に、商人はいらついてきました。
「おい、何とか言ったらどうだ? お前は私の親切に対して、ありがとうも言えんのか?」
 若者は突然振り返りました。
「何で感謝なんかしなくちゃならないのさ? おじさんは好きでそうしたんだろ?」
「何い?」商人の顔色が変わりました。
「何ちゅう言い草だ! 私は何も知らんお前を可哀相に思って ── あのままじゃ化け物の木に喰われるばかりのお前を助けてやろうと思って ── 声をかけてやったんじゃないか!」
 その時、商人の背後に聳え立つ巨大な栗の木の傍らにある、人の背丈ほどの高さの木が、その垂直に伸びた幹をぴくりとふるわせました。
「いいか、若いの。大人の感謝の仕方を教えてやろう。金だよ、金。感謝は金で表わすもんだ。お前も幾らか持ってるんだろ?」
 商人の顔が暗く輝いてきました。
「ほれ、どうした? 何黙ってるんだ? 感謝しやすいようにしてやろうか?」
 商人は背負った荷物の中から何か取り出しました。それは先の尖ったナイフでした。木漏れ日を浴び、刃先が怪しく光りました。
 その時、大きな栗の幹にまとわりつくように細身を這わせた木が、オレンジ色の葉を揺らせました。
「ほれ、どうした? 金を出さんか? どうした、そんな顔をして? 驚いたのか? ははは、世の中に悪人はいない、なんてたやすく信じちゃいかん、ちゅう事さ。世間は悪人だらけなんだよ」
 若者は、栗の根本近くの土が2箇所、盛り上がるのを見ました。
「ほら、どうした? 命が惜しくないのか?」
 2つの盛り上がりは、音も立てずに商人の方に延びて来ました。

「つまり」若者は静かに言いました。
「おじさんは、僕を助ける ── という善行を施し、その後で今度は僕を脅す ── という悪行を為しているわけだね」
「はっははは、その通り」
 商人はナイフを振りかざし、高らかに笑った ── その直後、彼の顔は凍り付き、首をすくめて辺りを見回しました。

 しかし、時既に遅く、彼の足元の地面から二本の根が飛び出し、その右足と左足にしっかり食い込みました。
「う、うわわわわあ!」
 商人は目玉が飛び出るほどに見開いて、泣き叫ぶような声を上げました。その間にも、二本の根は彼の足に深く食い込みながら身体を這い上がっていきます。商人は手にしたナイフを振り回して根を排除しようとしますが、自分の足に傷をつけるばかりです。
 栗の木の傍らの《ゼン》の木が真っ直ぐな幹を少しだけ上に伸ばしたようでした。また、栗の幹に絡み付いている《アク》の木の葉は、毒々しいまでに鮮やかなオレンジ色をひときわ増したのがわかりました。
「た、助けてくれ!」既に腹にまで根を巻き付かせた商人は悲壮な声で若者に訴えました。
「困っている人間を助けない奴は悪行を為しているのと同じだぞ!」
 若者は、やれやれ、とため息をつきました。
「俺を助けないと、お前も《アク》の木にやられるんだぞ!」
 根は商人の胸にまで達しました。
「でも、おじさんの理屈だと、人を助けたら善行をしたということになって、今度は《ゼン》に捕まる、というわけだね?」若者は腕組みしながら言いました。
「僕がおじさんを助けないのは、単に助けたくないからさ。それ以外の何物でもないんだ」
 《ゼン》の根は商人の両腕を後ろ手に縛るように絡み付き、そして、《アク》の根はその口から身体の中に侵入して行きました。彼の手からナイフが落ち、叫び声はぷっつりと止みました。商人の身体は目に見えてしぼんでいき、《ゼン》の木はまた少し背丈を伸ばし、《アク》の葉の色はより一層濃さを増しました。

「じゃあね」
 一旦、商人に背を向けて歩き出した若者は、もう一度振り返って言いました。
「人間の行い自体が善か悪のどちらかに分類されるわけじゃないよ。善とか悪というのは、そう判断する人の心の中にあるんだ」

 しかし、あれほど肥えていた身体を、みるみる皺だらけに縮ませていく商人の耳には、もはや何も聞こえてはいないようでした。


〈初出:2021年3月9日〉

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