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幼稚園と娘


あなたの子は、あなたの子ではなく、
大いなる生命(いのち)の希求(あこがれ)の息子であり、娘である。
あなたを経て現れてきても、あなたから生まれたのではない。
あなたとともにいても、あなたに属するものではない。
あなたの愛を与えることはできても、
あなたの考えを与えることはできない。
子どもは自らの考えを持つのだから。
その身体(からだ)を住まわすことはあっても、
その魂(こころ)までも住まわすことはできない。
子どもの魂は、あなたが夢にも訪れることのできない、
明日の館に住んでいるのだから。
子どもらのようになろうと努めるのはいいとしても、
子どもらをあなたのようにしようとしてはならない。
生は後ろには歩まず、昨日を待つことはないのだから。

  ――カリール・ジブラン『預言者(プロフェット)』より


▼▼▼自宅で仕事▼▼▼

僕は毎日、家で仕事をしている。
FVIは事務所を持ってないので、
コロナ前からずっとこういう働き方をしている。
コロナになって変わったのは、
オフラインでの会合が減ったから、
より家にいる時間が長くなったことぐらいだろうか。

僕は基本的に人混みが苦手なので、
満員電車に乗らなくても良いということは、
本当にありがたいことだと思っている。
僕は幸運に恵まれている。

もし地獄という場所があったなら、
その罰のひとつは、
どこにも行き着かない満員電車に乗り続ける、
というものだと思う。
しかも、各駅に止まる。
止まった駅には電車の中よりも多い人々が、
その電車に乗るのを待っている。
乗っている全員が憂鬱そうな顔をして、
互いが互いを迷惑だと感じている。
しかも外はじっとり雨が降っていて、
隣の人の折りたたみ傘についた雨が、
太ももからしみこんでくる。
シャカシャカイヤホン男が前にいて、
後方の女性は明らかに僕のことを痴漢かなんかだと思っている。
アメリカの警察に銃を突きつけられたわけでもないのに、
「Hands Up(手を上に)」している。
その状態で鼻水が垂れてくるが、
四肢を拘束状態にあるから、
ハンカチにアクセスなどできない。
ドアが開く。
一回吐き出された人々が、
もう一度さらに増えて吸い込まれてくる。
誰かの舌打ちが聞こえる。
シャカシャカがもう一人増える。

考えるだけで発狂しそうになる。

絶対に、絶対に、地獄は嫌だ。

善行に励もう。

あ間違えた。

今のはクリスチャンじゃないバージョン。

イエスを信じよう。

てなわけで人混みが苦手なので、
毎日家で仕事ができるというのは、
僕にとっては至極都合が良い。
しかも「さみしい」とかもまったくないんですよね。
あと、通勤がなくてリズムがつかめない、とかも。
僕も社会人になって最初の8年は通勤していましたから、
最初はとても苦労した。
仕事のスイッチを入れるのも切るのもできず、
「やるぞ」と思って気がついたら漫画を読破していたり、
本当は休まないといけないのに休日にも仕事のモードで過ごすから、
まったく心身が休まらなかったりした。

オンオフを自在に操れる、
「フリーランススイッチ」を手に入れるのに、
だいたい6年ぐらいの年月を要した。
そのなかの2年間は適応障害で鬱を患った。
それぐらいには苦労したが、
苦労した甲斐があった。

今は完全に「自分のものにした」という感覚がある。

オフィスに行こうなんて二度と思わないぐらい、
生産性は高くなったし、何より楽しくて仕方ない。
詰め込み教育から自由に考える主体的な教育にシフトすると、
最初は学力、下がると思うんですよね。
でもそこを我慢して続けると、
後者が前者をブチ抜いて、
その差は永遠に埋まらない、
っていうポイントがあると思うのです。
そんな感じ。
伝わるかどうか分からないけど。

内発的動機でやっている人に、
「やらされてる人」は、
永遠に勝てないということです。

今の僕が主体的・内発的な働き方で、
かつての僕は詰め込み教育・義務的働き方だった、
ということです。
あくまで傾向の話し。
今だって「やりたくないなー」という仕事はあるに決まってるし、
かつてだって「楽しくて仕方ない」という瞬間はあった。
ただ、どちらがメインのエンジンか、みたいな話しとして。


▼▼▼自動車を持ってない▼▼▼


フリーランスの話しがしたいんじゃない。
その話しはまたいつかもっと詳しくする。
約束はできないが。

僕は家で働いている。

朝は僕の仕事のプライムタイムなので、
妻が送っていってくれているのだが、
午後にオンラインのセッションとか、
都内でのミーティングとか、
そういった予定がないときはなるべく、
長女を幼稚園に迎えに行く。

長女の幼稚園は我が家から
自転車でだいたい10~15分ぐらいの距離にある。
途中、東伏見駅前に図書館の出張所があり、
少し早く家を出て、
そこで本を返したり借りたりすることもあるし、
同じく駅前のUFJのATMで陣内義塾の売り上げを入金したり、
通帳記入したりすることもある。

幼稚園に着くと、
所在なく長女を待つ。
長女は先生に「さようなら」と言う。
僕も先生に「いつもありがとうございます、さようなら」と言う。
手をつないで自転車まで歩く。
長女を自転車の子供用シートに乗せる。
10分かけてまた家に帰る。

それだけのルーティーンに、
往復といろいろ併せてだいたい30分ぐらい。
まぁ、仕事の気分転換にもなるし、
そんなに面倒でもない。
あと、妻に感謝されるし。
これは一番うれしい。
僕は妻にモテたくて生きてるので。

我が家は自動車を所有していない。
東京で車を所有するにはけっこうお金がかかる。
それだけの可処分所得が我が家にはないので、
自動車は欲しくても持てない。
あと、先日書いた「効用」の点からも、
東京で車を所有する効用は田舎で車を所有する効用に劣る。

どういうことか。

東京って、駐車場が少なくて、しかも高い。
駐車場がないという理由で車では行けない場所もたくさんある。
つまり、「自動車を持ったことによる便利さ」が、
ほどんどどの場所にも無料の駐車スペースがある
(なければそのへんの道ばたに駐める)田舎よりも少ないのだ。

田舎で自動車があることの便利さが100だとすると、
東京で自動車があることの便利さは70ぐらい。
さらに、田舎を運転する楽しさが100だとすると、
東京を運転する楽しさは体感で20ぐらい。
-20のときや-100のときもある。
つまり渋滞がえげつなくて、
信号が多くて、自動車が多くて、通行人も多いので、
自動車を運転する喜びが少ない。
渋滞もすごい。
たいした距離でなくても、
ドアトゥードアで1時間ぐらい余裕持って家を出ないと、
渋滞で間に合わずアウト、ってこともしばしばある。
あと、景色を楽しめない。
というか、景色が「汚い」。
海も、空も、森も、川も、山も、
流れる自然も見られない。
季節の風も感じられない。
窓を開けると排気ガスが流れ込んでくる。
電柱に次ぐ電柱、店舗に次ぐ店舗、
一方通行に次ぐ一方通行。

「便利さ」と「楽しさ」を乗数にすると、
田舎だと100×100=10,000
東京だと70×20=1400
つまり効用では5分の1以下だ。

なのに、田舎よりも東京のほうが、
特に高額な駐車場代によって、
維持費が高い。

つまり、より高いお金を払って、
より少ない満足を得る。

耐えられない。

住宅にもまったく同じことが言えるのだが、
人生で二度もそんな悔しい思いをしたくない。
だから自動車を持たない。

と、経済的な理由で自動車を持てない東京住みは、
自分の中で車を持てない無念さを合理化している。
イソップ童話の「酸っぱいブドウの話し」に出てくる狐のように。


▼▼▼電動アシスト付き自転車▼▼▼


その代わり我が家には自転車が二台ある。
電動アシスト付き自転車が2台。
僕のやつと、妻のやつ。
妻のには前と後ろに子供用シートがついている。
最初から子どもを載せることを前提にデザインされた、
タイヤが小さく重心が低いタイプのやつ。
東京では頻繁に見かけるので、
「あぁ、あれね」って人も多いだろう。
あのタイプって、コイン式駐輪場のラックに入れるのが、
めちゃくちゃ大変なんだよね。

僕の自転車は子どもが産まれる前、
かれこれ10年近く前に買ったやつだから、
もともと子供用シートは着いてなかった。
長女が幼稚園に行くようになり、
僕も迎えにいったりすることが増え、
そのときに妻が自転車を使いたいってなると困る。
次女が生まれるとさらにそういうシーンが増えた。

そこで、僕の自転車に、
ハンドルのところに取り付けるタイプの、
小さな子供用シートを取り付けた。
あと、子どもがいると買い物の量が増えるから、
僕が業務スーパーなどでたくさん買い込めるように、
後ろに追加の荷台もつけていた。


▼▼▼子どもとの時間▼▼▼


長女は去年の9月で5歳になった。
身長も体重もぐんぐん大きくなる。
今の体重は15キロを超えていて、
僕のハンドルにつけるタイプの重量制限を超えている。

というわけで、
先週、僕の自転車の後ろに、
6歳まで乗れるタイプの座席を新たに取り付けた。
荷台は取り外した。
OGKのこの座席は、
荷台にもなるよってタイプのやつなので都合が良い。

その座席に乗せて、
長女と10分間自転車に乗る。
一週間に3回行けることもあるが、
一週間に1回のことも、
忙しくて1回も行けないこともある。
鬱のときはもちろん行けない。

とにかく、
午後にリモートなどの仕事が入ってなければ、
長女を自転車に載せて家まで戻る。
10分間で一気に帰ってくることもあれば、
長女が「今日は歩きたい」というので、
40分かけて歩いてくることもある。

娘は何かをしゃべったり、
自分で創った歌を歌ったり、
何もしゃべらずぼーっとしていたりする。
僕も基本、しつこく質問したりはしない。
ぼーっとしているときは、
一緒にぼーっとする。
無言で自転車をこぐ。

その時間が僕はわりと嫌いではない。

仕事の「フロー」を大切にする人間なので、
午後の仕事がいちど中断するのは、
デメリットといえばデメリットだが、
そもそも何のために仕事をしているのかと考えれば、
デメリットであるはずがない。

家族と幸せな時間を過ごすこと以上に大切なことがあるだろうか。

去年Twitterかなんかでバズった漫画が、
ネットに取り上げられていた。

お父さんが幼稚園児の子どもを公園に連れて行く。
子育て中の方はご存じだと思うが、
今の休日の公園はお父さんのほうがお母さんより多い。
隣でブランコに同じぐらいの年代の子どもを載せたお父さんと会話が始まる。
隣のお父さんがブランコに載せているのは年の離れた息子で、
上には中学生の息子がいるんですよ、みたいな話しになる。

そのお父さんがつぶやく。
「今だけなんですよね。」
新米のほうのお父さんが言う。
「そうですよね。
 こうして遊んであげられるのなんて」
「違いますよ。
 こうして遊んでもらえるのが今だけなんです。
 中学になったら、
 もう俺とは遊んでくれなくなるんです」

本当にそうだよね。

僕と妻が子育てのバイブルにしている本が何冊かある。
妻が見つけて僕に勧めるやつもあるし、
僕が見つけて妻に勧めるやつもある。
妻は幼稚園教諭なので良書をたくさん知っている。
そんな中のひとつが、佐々木正美先生の本だ。

佐々木先生は、子育てについて深い智恵を授けてくれる。
『子どもの心の育て方』は名著だ。

子どもは遊ぶことで成長する。
最も大切なのは子どもが遊び合うこと。
勉強に失敗した「授業の落ちこぼれ」より、
遊び合うことに失敗した「休み時間の落ちこぼれ」のほうが、
将来苦しむことになる、と佐々木先生は言う。
勤勉性は後からでも全然獲得できる。
しかし、遊びの中で「他者を信頼する」ことを学べなかった人は、
自分をも信頼できない。
他者を信頼できない人に、自信のある人はいない。
他者を信頼できる人が、本当の自信を獲得できる。
そして他者への信頼は「遊び合い」で育つ。
親が投資すべきは塾ではなく公園だ。
「自分の子どもだけが健全に育つ」なんてあり得ない。
子どもは「群」で育つのだから。

佐々木先生が強調するもう一つは、
子どもに子どもらしくあることを許す家庭であれ、
ということだ。
家で駄々っ子のほうが外ではよい子で、
家でよい子は外で嘘ついたりする、
と佐々木先生は言う。
前者は家が安全地帯だが、
後者は家が安全ではない。
だから外で誠実に生きられない。

子どものときって、
子どもは「お母さん、お母さん」という。
「お父さん、お父さん」と。
30分に一度、いや30秒に一度。
まったくこちらをフリーにしてくれない。
発狂しそうになる。

これは親が試されているのだと思う。

そのときに親が応答せずに無視すると、
10年後、立場は逆転する。
親が話したくて仕方なくて、
いくらティーンエイジャーのその子に呼びかけても、
その子は何も語ってくれず、
何も反応しないだろう。
無視した親は、
10年後、無視される親になるのだ。

今、僕は試されているのだと思う。

10年後、その試験の結果が出る。
だから、自転車にOGKのシートを取り付け、
今日も幼稚園に行く。
この時間は当たり前じゃない。
「遊んでもらえる」のは今だけなのだから。

終わり。


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参考文献および資料
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・『子育ての大誤解』ジュディス・リッチ・ハリス
・『子どもの心の育て方』佐々木正美



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