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2Q23

戦争が終わると、誰もが一切を急いで忘れようとするが、
病気にも似たようなことが起きる。
苦しみは僕たちを普段であればぼやけて見えない真実に触れさせ、
物事の優先順位を見直させ、
現在という時間が本来の大きさを取り戻した、
そんな印象さえ与えるのに、病気が治ったとたん、
そうした天啓はたちまち煙と化してしまうものだ。
   ――――パオロ・ジョルダーノ(『コロナ時代の僕ら』より)


▼▼▼非日常→日常?▼▼▼

コロナは感染症法の五類移行になり、
日本でもようやく、「コロナは終わった」
というムードが漂う。

もちろん新型コロナウイルスという病気自体がなくなったわけではなく、
いろんな条件がそろえば危険な病気でもあるわけなので、
感染症対策は必要だ。

でも、マスク必須、自粛、行動制限などといった、
「非日常」は去ったと言ってさしつかえないだろう。
非日常が去り、日常が戻ってきた。

、、、

、、、

、、、

ここで僕は立ち止まる。
本当に、日常は、戻ってきたのだろうかと。

僕たちは3年間、
非日常という日常を生きた。
テレビでタレントが口に透明なシールドを付けて喋るのを、
スタジアムの客席にマスクした観客が一個とばして座って何かを観戦し、
声も出さずに静かに拍手しているのを、
アベノマスクという、
小学生のときに給食当番で付けて以来の小さな布マスクと再会し、
しかもそれに膨大な国家予算が割かれ、
その多くは無駄にされていた顛末を、
10年後に映像で見た時、
きっと「非日常」だと実感することだろう。

僕たちは非日常を生きた。

僕たちが生きたのは非日常だ。

でも、戻ってきたのは果たして本当に日常なのだろうか。


▼▼▼正常性バイアス▼▼▼

普段新聞読んだりする人は覚えているだろうが、
コロナの初期に「正常性バイアス」という言葉がよく言われた。
人間は異常事態に際し、平静を保つために、
「これは異常ではない」と思いたがる脳のバイアスのことだ。
東日本大震災のときの大川小学校の悲劇は正常性バイアスで起きた。
コロナ発生当初、ときのアメリカ大統領含め、
「コロナはただの風邪」と言う根強く人がいたのは、
正常性バイアスのなせるわざだ。

しかしながらイタリアやニューヨークの医療崩壊の衝撃を見、
身近な人がコロナで入院して生死の境をさまよい、
場合によっては亡くなった知人がいる方もいて、
僕たちの多くはは正常性バイアスを乗り越え、
「今は異常だ、緊急だ」という事実を受け入れた。

それから3年が経ち、
「異常が正常」という状態に慣れた。

養老孟司さんが書いていたが、
戦時中、東京の町にB29から焼夷弾が降り注ぐなか、
毎回毎回、サイレンの合図で防空壕に逃げるのにだんだん飽きてきて、
真面目に避難する人々を横目に、
「当たるも八卦、当たらぬも八卦」とかいって、
豪快に庭で弁当を食べてたおじさんもいたそうだ。

人間はあらゆる事象に「慣れる」のだ。

この3年間で僕たちは異常に慣れた。
しかし、異常に慣れるというのは、
おそらく意識下で大きなストレスを受けるものだ。

だから、その蓄積したストレスが、
マグマのようにたまっていて、
それが「非日常から日常へのシフト」において、
ハレーションを起こすということもあるんじゃないかと思う。

再び戦争の話をすると、
8月15日の玉音放送があり、
8月30日にマッカーサーが上陸し、
GHQ統治下の日本になった。
6年後に主権を回復するまで、日本は主権を奪われた。

「日本は一度も他国に侵略されたことのない誇るべき国」
みたいな言説はだから、
半分正しいのだが半分間違っている。
短いけれど日本はまぎれもなく主権を奪われた期間がある。
あと、日米地位協定とかのことを考えると、
今も完全な主権があるのかどうか疑わしかったりするし。

話を戻そう。

そのGHQ統治下の日本の人々の書いたものや、
当時の記録から見えてくるいろんなものごとがある。

戦争から帰ってきた兵士たちは、
ある者は腕を失い、
ある者は足を失っていた。
目が見えなくなった人々もいた。

しかし、「最後まで母国を守ろうとした国の英雄」
であるはずの傷痍軍人に対し、日本国民の反応は冷淡だった。
元軍人への当たりかきつかったGHQの対応もあいまって、
戦時中にためこんでいた「軍隊憎し」の感情により、
傷痍軍人は十分な補償も受けられず、
再就職も難しく、
道ばたで物乞いをした。
手や足のないその物乞いに、
「あんたたちのせいで戦争中どんだけ苦しかったか!」
と、「一夜にして軍国主義者が民主主義者になった」(by丸山真男)
当時の日本の世間は、なんと、石を投げたのだ。

▼参考記事:現代ビジネス2022.5.22
https://gendai.media/articles/-/95389?imp=0

ちなみにそうやって身寄りのなくなった人々の一部が混乱期に、
現代の広域暴力団(ヤクザ)の一角をなしていった、
いや、そうしなければ生きられなかった、
という事実はあまり知られていない。
その暴力団を今は国家ぐるみで「いじめ」ている。
暴対法は人権剥奪だ。あれは憲法違反だと僕は思う。
「弱い者が夕暮れ、さらに弱い者を叩く」姿は、
いつ見ても、見てられないほど辛い。
(by THE BLUE HEARTS)

さて。

3年間、コロナという非日常を生きた我々は、
無意識下の鬱憤をため込んでいたのではないかと仮定する。
そうすると、戦後の傷痍軍人叩きのような、
反動形成的ハレーションが起こっても何も不思議ではない。
ため込んだ鬱憤の昇華というのはいつも、
非抑圧者を抑圧するという形で行われる。

これは僕の推測なのだが、
先ほどの軍人に石を投げていた人は、
戦時中には「戦争に反対するとはなんたることか!」
と、反戦を主張する者に石を投げていた同じ人なのだと思う。
戦時中は軍部の側に着き、皇国日本万歳!で、
戦後はGHQの側に着き、民主主義日本万歳!なのだ。
つまり彼にはプリンシプル(原理・原則)などなく、
強者の側について弱者を攻撃する、
というその一点において一貫しているのだ。

要するにクズなのだ。

我々はクズに気をつけなければならない。

クズになるぐらいなら舌を噛んで死ぬ、
それぐらいの覚悟をもってクズ化を拒絶せねばならない。


▼▼▼2023→2Q23▼▼▼

さて。

コロナの3年が終わり、
日常が戻ってきたが、
それは本当に我々の知る日常なのか。

マルチバース論でいうと、
宇宙の歴史は分岐し、
コロナがないパターンの2023年と、
コロナがあった2023年では、
やはり違う2023年なのではないか。

村上春樹の小説『1Q84』で、
主人公の天吾はあるはずのない首都高の出口から降りた後、
「何かが少しずつ違う日本」に迷い込んでいた。
その日本では天吾の知る日本より警察が重武装になっており、
月が二つあった。
それ以外はすべて同じだが、
月が二つあることと、
警察が重武装になっていること、
そして何か禍々しいことがこの世界に存在している予感が、
天吾がもといた日本=「1984年」と、
迷い込んだ別の日本=「1Q84」の違いだった。

世界は三軒茶屋の高速道路の非常階段で分岐し、
マルチバースに迷い込んだ。
世界は1984年と、1Q84年に分岐した。
これが『1Q84』という小説の構造的なコンセプトだ。

僕は思う。

コロナは三軒茶屋の非常階段と同じく、
世界を「あり得たかもしれない2023年」と、
僕らが知る、「ほんのちょっと違う2Q23年」とに、
分岐させたのではないか、と。

そして天吾の経験した1Q84年と同じように、
2Q23年には何か禍々しき予感が横たわっている。

僕はそう思うのだ。

それが何なのか、
僕にはまだ判然としない。
しかしネットの世論はますます不寛容になり、
人々はターゲットを決めて私刑に勤しみ、
マスク越しにほくそ笑むように、
表情や言葉の奥で相手は何を考えているか分からない。
多くの人にとってもはや信頼できる「信頼圏」は家族のみとなった。
家族がいるのはむしろラッキーで、
信頼圏には自分とペットとCGアイドルだけ、
という人も増えたことだろう。
肝胆相照らして誰かと連帯することは入手困難な貴重品となった。
国も教師も医師も私企業も、
かつては「まずは信頼し、何かあれば疑う」対象だったものが、
「まずは疑うべきで、例外的に信頼を選ぶこともある」
という対象となった。
社会は確実に「信頼ベース」から「不信ベース」になった。
じっさい親たちはそう子どもに教えている。

「2Q23」では、
僕たちを取り巻く空気は、
「そこはかとなく不穏」だ。
その不穏の正体は、
「信頼の不在」あるいは「信頼の希薄化」と呼べるものだろう。
ハーバーマスなら「公共圏」と呼ぶだろうし、
もっとシンプルに「民主主義の土台」ぐらいに表現しても良い。

いずれにせよ、
「2Q23」にはもう上島竜兵さんも、
安倍晋三さんも、
志村けんさんも、
三遊亭円楽師匠も、
アントニオ猪木もいない。

僕たちがいる世界は、
僕たちがいると思っていた世界とは違うかもしれない。

『1Q84』では、
月が二つある世界で、
天吾と青豆はつながろうとした。
互いに孤独を友だちに生きてきた二人は、
公園の滑り台の上で二つの月を見つめながら、
互いにつながろうと強くお互いを求めた。

裸の魂がつながろうとする。
そうやって僕たちは世界を縫い合わす。
システムへの不信がもたらす荒廃を癒やすのは、
そういったはかなくも地道な努力の積み重ねだ。
それが『1Q84』のメッセージだと僕は読み取った。
ちなみに新刊『街とその不確かな壁』もまた、
同じメッセージとして僕は解釈した。

コロナ後の世界で僕たちは、
裸の魂のふれあいをもう一度求めねばならない、
と強く思う。
大切な人に会いに行こう。
差し支えなければマスクをとって語り合おう。
損得を超えたところに本当のつながりがあることを確認しよう。
そしてこの「不信ベースの社会」に、
「信頼」がまだ力を失っていないことを見せつけよう。
そうしてはじめて「やみくろ」は、
深い地下鉄の奥へと引き取ってくれる。
そこはかとない不穏に、
僕たちはこうして抗う。

「2Q23」の歩き方について、
僕はそんなことを思うのだ。


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参考文献および資料
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*『1Q84』村上春樹
*『街とその不確かな壁』村上春樹
*『公共性の構造転換』ユルゲン・ハーバーマス


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