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ミネルヴァのフクロウ


未来は過去にある。
実際、アラビア語にはこんな意味の言葉がある。
「過去のない人間には未来はない」
  ―――ナシーム・ニコラス・タレブ(『反脆弱性』下)



▼▼▼ミネルヴァのフクロウ▼▼▼

「ミネルヴァのフクロウは夕暮れに飛び立つ」
と歴史哲学者ヘーゲルは書いた。

何か大きな事象が起きたとき、
哲学者というのは、
その事象が終わりかけたときにはじめて、
意味のある言葉を発するのだ、と。

僕はこの言葉に強く惹かれる。

なぜか。

僕がミネルヴァのフクロウだからだ。
いや、ヘーゲルのように偉大な哲学者だ、
と言いたいのではない。

僕の思考の遅さが、
とてもミネルヴァのフクロウ的だと言いたいのだ。

僕はちなみに、
今もまだ東日本大震災について考えているし、
福島の原発問題について考えている。
オウム真理教事件についても考え続けているし、
9.11テロとイラク戦争についても、
BSE問題についても現役で考え続けている。

あれは何だったのか、と。

あと、なぜ小学生のとき、
みんなが興奮していることに僕だけが冷めていて、
みんなが感心がないことに僕だけが感動していたのか、
いまだに考え続けている。

あれはいったい、何だったのだろうと。

僕は一回考え始めたら、
尋常じゃなく、しつこく考え続けるのだ。

日本の世間というのはとかく、
熱しやすく冷めやすいので、
東日本大震災とか原発のことなんて、
あのころに頭に血が上って口やかましく騒いでいた人ほど、
今はもう何も発信していないイメージだ。

そうですよね河野太郎さん。

事件が起きると火事場の野次馬のように、
「わーわー騒ぐ人」を、
僕は本能的に避けるようにしている。
この「わーわー騒ぐ人」は、
来年になったら違うことでわーわー騒ぐんだろうな、
という映像が、予知夢のようにはっきり見えるから。

一昨年「コロナの後の世界はこうなる!」って言ってた人は、
今年「ウクライナ戦争で世界はこうなる!」って言ってて、
来年はそのどちらでもなく、
「これからの世界は●●だ!」
って言ってるだろうから。

「●●」の部分が入れ替わるだけで、
彼らが言ってることはバカのひとつ覚えのように同じだ。
「乗り遅れるな!」

でもね。

パタゴニアの創業者、
イヴォン・シュイナードはこう言った。
「流行というのはその定義において時代遅れだ」

「これからの時代は●●だ!
 乗り遅れるな!」
と言ってる人の後をついていってはいけない。
彼らはその定義により時代遅れな存在だから。

本当に時代を牽引する人は、
ぱっと見は変人か浮浪者に見えるものなのだ。
主要メディアがスポットを当てている時点で、
それはすでにその対象が、
本質的には新しくないことの証拠である。

「100日後に死ぬワニ」の騒動で分かったことがある。
「電通に見付かったら、その時点で古い」のだ。
電通はメデューサのように、
見つめたものを石に変える。
それは彼らがあらゆるものを
カネに変えようとするからなのだろうけど。

ちなみに伊集院さんは、
電通に見付かる前の「100日後」を、
ラジオで熱量高く語っていて、
電通に見付かってからは興味を失っていた。
その感じ、めちゃくちゃよく分かる。


▼▼▼すずめの戸締まり▼▼▼


さて。

ミネルヴァのフクロウである。

僕は昨年末に、
新海誠の『すずめの戸締まり』を映画館で観た。

感動した。

何に感動したかというと、
これが言語化しづらい。
映画の本筋とはあまり関係ないところに感動したからだ。

僕はRADWIMPSの主題歌にでも、
主人公のすずめの恋愛の成就にでもなく、
新海誠という人の「執念」に感動したのだ。

皆さんもご存じのとおり、
新海誠は『君の名は』の大ヒットで、
日本アニメシーンを代表するヒットメーカーになった。

2016年公開の『君の名は』は、
実は同年公開の『シン・ゴジラ』と同じ映画だ、
と僕は思った。
誰もそんなこと思ってなかっただろうけど。

両方とも、ある問いに対して、
クリエイターが5年間考え抜いたことの、
「暫定的なアンサー」だったからだ。
その問いとは、
1.東日本大震災とは何だったのか
2.福島の原発事故とは何だったのか

この2つだ。

『君の名は』における「千年に一度の隕石の衝突」は、
明らかに千年に一度の大地震だった東日本大震災の隠喩表現だし、
『シン・ゴジラ』の最後の凍結処理は、
福島原発事故の冷温停止にほかならない。
何ならこれは比喩ですらない。
そもそも元祖のゴジラは太平洋の核のゴミの権化で、
1955年の映画『ゴジラ』は二つの原爆投下、
および東京大空襲を象徴していたと、
かつてのクリエイターたちが自ら吐露している。
庵野秀明は「鎮魂としてのゴジラ」という伝統を、
70年ぶりになぞって、
東日本大震災と原発事故に換骨奪胎したのだ。

さて。

『すずめの戸締まり』で僕は何に感動したのか。
新海誠が「ミネルヴァのフクロウ」だったことに対してだ。
東日本大震災から11年が経ち、
『君の名は』から6年が経った。
それでも新海誠はまだあの震災のことを、
考えるのをやめてなかったんだ、
と思ったときになぜか涙が流れた。

そうだよな。

考え続けるよな。

それでいいんだよな、と。

世間はとかく忘れる。
日本人は「集団健忘症」だから、
コロナが起きると震災のことを覚えていられなくなり、
ウクライナ戦争が起きるとコロナのことを覚えていられなくなる。
そしてこれはもう「予言」しても良いけれど、
2023年に起きる「何かしら驚天動地の出来事」により、
日本人はウクライナ戦争のことも忘却するだろう。

しかし、哲学者は考え続ける。

考えるのをやめない。

そして新海誠が11年間考えて出した「答え」に、
賛同しようが違和感を覚えようが関係ない。
彼が考え抜いた、というところに、
僕は大きな価値を感じるのだ。

『コロナ時代の哲学』という本の中で、
大澤真幸という学者がこういうことを書いている。

〈こういうとき、私たちはいかに困難でも、
まさに感じ、経験していることを
言葉にしようと努めなくてはならない。
仮に完全には成功しなくても、
できる限りの力を使って、言葉にするべきだ。
なぜなら、言葉にしたことだけが
――いや正確には言葉にしようとしたことだけが――、
私たちが今経験していることから得つつあることを、
有意味な変化として私たちの態度のうちに定着させるからだ。

少なくとも、何とか言葉として捉えようと努めたことは、
「うまくは語れなかった」という不充足感と共に残り、
後に概念によって救いとることができる。
逆に、渦中や直後に言葉にしようと努めなかったときには、
それはすっかり忘れられ、結局、
私たちのうちにいかなる有意味な変化をも引き起こさない。

だから、私たちは、今のうちに
――いろいろと語り書きたいときに
「ほんとうに思ったこととそれとはまだ違うな」
という感触を生々しくもてる間に――、
言葉にすべく努める必要がある。〉
(『コロナ時代の哲学』6-7頁)

、、、ミネルヴァのフクロウは夕暮れに飛び立つ。
しかし「日中にうまく語れなかった経験」こそが、
夕暮れの飛翔を可能にするのだ。

僕はだから、
今日も「誰もそんなこともう覚えてねーよ」
という問題について、しつこく考え続ける。

その結果、
僕は当意即妙な受け答えができず、
世間話という「サルの毛づくろい」が苦手になる。
受け答えがオードリーの「ズレ漫才」みたいになる。

若林「日本の軍事予算がさ、、、」
春日「いや、第一原発のデブリの問題はどうなったんだよ!」
若林「それにしても円安はこれからどうなるんでしょうね」
春日「大型防波堤より避難訓練だろ!」

かくして俺こと七三分けピンクベスト春日は、
世間の話題と2テンポぐらいズレていく。
そして「うまく語れなかった」という不充足感が、
いつか、きっと10年後ぐらいに、
「1週遅れのトップランナー」になって、
誰かを益すると信じている。

新海誠の『すずめの戸締まり』を観て、
僕はそんなことを考えた。
きっとこれも、
世間の『すずめの戸締まり』評とは、
ずいぶんズレた感想なのだろうけど。

終わり。


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参考文献および資料
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・『社員をサーフィンに行かせよう』イヴォン・シュイナード
・『コロナ時代の哲学』大澤真幸×國分功一郎
・映画『すずめの戸締まり』新海誠
・『反脆弱性』ナシーム・ニコラス・タレブ


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