【ICT担当奮闘日記】#7 ICT担当しながら解ってきた明代法制史(専門的な話は殆どしません)

どんどん変わる社会とICTの利用規定

クラウドサービスの取り扱いとか、データの管理とか、AIの利用方法とか、教育現場ではその辺りのルールがころころ変わります。変わるというか、新しくルールが追加されるというか、検討しても検討しても社会の方が速く変化して、追いつかないというのが現状だとも思いますが…。

法律とかだったら全部暗記しないでも問題はありません。法令集とかがありますし、なんなら困ったら管理職やベテランの教員に聞いたら分かるわけです。が、こういうベテランが太刀打ちできないのが新しいことで、ころころ変わりだすと誰も追いつけなくなります。

当然ですが、ICT担当にそれを尋ねる人が一定数いるわけです。で、もちろん答えようするわけですが…

結論、無理。

把握できません。いつの段階のどの規定を適応していいのか、整理が追いつきません。なんというか整理されたものが欲しい。どこまで更新したのかもわからない。もうパニックです。毎回毎回調べていますが、毎回新しい発見をします。

なんだそりゃ。

そんな日々を送る中で一つ思ったことがあります。
「革去」だ。「革去」してほしい。そう思います。「革去」とは何かって、そう思いますよね。

突然の中国法制史

わたし、東洋史、特に明代の法制史、社会史を研究していた(る)んですけど、博士論文では明代の中頃、15〜16世紀に整備される『問刑条例』という法典の成立過程から社会の変化を考えるということを行っていました。(そういえば公開されてました。読みたければご笑覧ください。)

で、『問刑条例』という法典はなぜ整備されたかというと、明朝成立当初に作られた基本法典『明律』では対応できないほど社会が変化したからです。

では、『問刑条例』が出来る前は『明律』で対応できていたかというとそうではなく、色んな場面で特別な判断を下して運用していました。この特別な判断は言ってみたら判例みたいなもので、「例」とか「事例」とか言います。ちなみに、これを複数並べたものを「条例」と言います。現代日本の条例もこいつが由来です。

ところがこの「例」は、社会の変化に合わせてどんどん作られていきます。多くなってくると「例」が重複することもあり、同じ状況でもある時は罪となり、ある時は罪とならないというようなことも出てきます。そうした混乱を防ぐために『問刑条例』以前は「革去」が行われていました。「革去」とは、皇帝の代替わりに「例」を全て無効化することです。(詳しくは以下の訳註の解説をご覧ください。拙いながら説明しています。)


混乱を防ぐために行われた「革去」。まぁそういう風習なんだなと特に何も考えず理解していましたが、よくよく考えれば不合理な気もします。せっかく作った規定をご破算にしちゃうなんて。なんでこんなことをするのでしょう。

明代中国と現代社会

これ、多分当時の官僚たちは、日々変わる変化についていけてなかったんだと思います。まさに、今自分がICT担当として、ICT関連の規定を把握しきれないでいるように。

そうすると『問刑条例』の編纂過程が途端にリアリティを感じられるようになってきました。いや、執筆中からその感覚持っておけよという気もしますが、当時はそんなもんなんだろうと特に何も考えられていなかったのです。

しかし、今の立場を通して自分の博論のテーマに対して、より深い理解が可能になったことは、何というか因果のようなものを感じます。なんだから歴史家としての喜びでしょうか?そんなものを少し感じます。

というわけで歴史に学んで、法典を編纂するか、全てをご破算にするか、どうにかしてほしいのが現状です。いや、校内に関しては自分がしなきゃいけないのか?やれやれです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?