「#本物に触れてほしい」の重みーコロナショックから写真文化を考える

 好きなものはあとにとっておくタイプかどうか・・・僕はあとにとっておくタイプである。けれど、それで損もする。コロナショックも例外ではない。楽しみにとっておいた東京都美術館のヴィルヘルム・ハマースホイ展が、会期終了を待つことなく閉幕してしまったのだ。

 以降、ほとんどすべての美術館が休館(もしくは実質的に移動制限で行かれない)。さらに緊急事態宣言が発出されたことで、こんどは設営がすんでいるのに1日もひらかれずに会期をまっとうする展覧会まで出てきてしまった。

 うそかまことか、やむをえず休館しているのに、美術館スタッフがさぼっていてけしからんというクレームが美術館に入ったというニュースまで流れてきた。だが、けっしてそうでないと言いたい。指揮者が公演のあいだ人前でタクトを振るだけが仕事でないように、学芸員の仕事は激務だし、展覧会をひとつ作り上げるのには長い時間がかかっている。企画展や特別展といわれるものは、おそくとも3年前には企画として承認されている。とうぜん、立案する担当学芸員はその前から企画を上げるための予備調査をしているし、それが事業計画として決定したあとも、展覧会というかたちになるまでに、気の遠くなるような調査・研究、作品を他館から借りる場合はその交渉などを日々おこなっている。

 そして、館そのものの運営にも目を配らなくてはいけない。コロナショックの最中では収入は絶たれているので、その対応もある。海外の状況に目を向けると、MoMAことニューヨーク近代美術館は人員削減を始めているらしいし、運営費用を捻出するために同館オンラインストアで貴重本の販売を始めている(たとえば、そのなかにはウィリアム・エグルストンの67年の展覧会のカタログ兼写真集も含まれている)。

 この1週間ばかり、ニュースを見ていると「コロナウイルスの影響で」「コロナショックで」といういいかたから「コロナ禍」という言い方が増えたように感じるのは気のせいだろうか。でも、まさに美術界においても「コロナ禍」なのだ。

 そのなかで、すこしでも明るい、前向きな写真・美術関係のトピックをみつけて書き継いできたのがこの連載だけれども、また明るい話題に触れた。少しトピックとしては古くなってしまうが、メトロポリタン美術館が、同館所蔵作品でパブリック・ドメインになっている作品40万点超の作品を、「あつまれ どうぶつの森」に連携・提供できるシステムを公表したのだ。メトロポリタン美術館は3月末には7月までの閉館を早々に決めていて、やはり経営は苦しいだろうに、なんとたのしいニュースだろうか。

 世界中の美術館は、Google mapなどで館内を散策できるようにしたり、開会できない展覧会の紹介動画を公開したりとステイ・ホームを積極的に応援している。あるいは、ツイッターでは世界中の美術館学芸員が自館の不気味な収蔵品を紹介する「#CURATORBATTLE」などの愉快な企画も盛り上がっている。

 こんなときだからこそのスピンオフ的な盛り上がりはたしかに目新しさがあるし、おもしろい。でも、美術館の願いは、はやく多くの人にまた美術館に足をはこんでもらい、作品を見てもらうことにほかならない。

 考えてみればあたりまえだけども、それでも心にささった言葉がある。

 緊急事態宣言が発出された翌日の4月8日に東京都写真美術館がツイッターに投稿した記事(写真美術館もまた、設営したものの開幕できず、会期を終えようとしている展覧会をかかえる美術館の一つである)に添えられていた「#本物に触れてほしい」というハッシュタグだ。

 「東京都写真美術館別冊ニュース ニャイズ」は同館の内情をコミカルに伝える漫画として人気だが、今日配信された最新号は、この「本物に触れてほしい」を切実に伝える内容だ(下のリンク)。

 じつは、僕自身はこのニャイズ最新号で紹介されている写真美術館の〈日本初期写真史 関東編〉展をすごく心待ちにしていた。この展覧会の展示解説動画をみればわかるのが、ここにはわたしたち日本人の歴史を写真というメディアでひもとく展覧会といえる。「配信で展覧会が見られることでわざわざ美術館まで行く必要なくね?となってしまう!!」というニャイズの中のセリフは、たしかにそう思う人もいるのかもしれない。じゃあわざわざ美術館に行く意味とは? というのを僕なりにことばにしてみたい。

〈日本初期写真史関東編〉の展示解説動画

 たとえば、2本目の展示解説動画で紹介されている、ハーヴェイ・マークスが1851年に撮影した日本人の写真。これらは、日本人がはじめて写された写真として知られている。所蔵館は川崎市市民ミュージアム。昨年の台風でおおくの収蔵作品が水害の被害を受けたというニュースは記憶に新しいだろう。

 その次の3本目で紹介されているのは鵜飼玉川という日本で最初の写真師によって撮影された写真。1861(文久元)年撮影だ。まだ大政奉還まで6年以上あり、まげを結って刀をさした人々が普通に市中を闊歩している時代に撮られたものだ。

 こんなぐあいに、モノとしての作品はひとつひとつがいろいろな物語をもっている。それはもちろんダ・ヴィンチだろうが光琳だろうが同じことだが、「本物に触れる」というのは、その作者が実際に触って、作ったものなんだということをあらためて考えると、モノにはすごい重みがある。それは、ヴァルター・ベンヤミンが『複製技術時代の芸術作品』のなかで論じた有名な概念「アウラ」にもつながるものである。

 「アウラ」とはなんなのかを考えると、ふしぎといつも思い出すことがある。「フランダースの犬」だ。この物語が書かれたのは19世紀。写真はもうあった。もし仮に、ネロ少年があのルーベンスの祭壇画を複製した写真を見たことがあったら、あんなに祭壇画を見たがっただろうか。僕はそれでもネロが見たいと思っただろうと感じてならない。ネロはかの美しいルーベンスを見て、そのショックで絶命したのではないかとさえ思いたくなってしまう。「本物に触れる」とは、そういうことではないのかと。

 大学院のとき、指導の先生に「ある作品を見て、あとのことなど考えずいますぐその作品の展示ケースを叩き破って作品を盗みたいという衝動」と、「大好物の大トロの握りを目の前で嫌いなやつに食べられてしまったとしても、それはすでにオレがもぬけの殻になるくらい見尽くしたもので、お前が食っているのはその残滓だと言えるくらいの眼」をもてと散々いわれた。へんな話だと思われるかもしれないが、それはとりもなおさず本物に触れろということだったのである。

 だいぶ脱線したけれど、「#本物に触れてほしい」は、世界中の美術館スタッフの願いなのだ。はやく、本物に触れることの歓びを実感できる世界が戻ってきてほしいと締めくくるのはあまりに月並みだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?