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写真史の稀書・奇書・寄所(7)ー『開明奇談写真之仇討』滑稽堂版

 本書『開明奇談写真之仇討』は、写真史研究の泰斗・小沢健志さんによれば日本で最初の写真を題材にした小説だという。

 奥付に「五明楼玉輔 口演」とあるように、もともとは落語の演目として成立したようだ。「聴き比べ落語名作選」のサイトの解題によると、明治19年に玉輔によって全40段が20回にわたって口演されたとあるが、国立国会図書館の蔵書検索システム「NDL online」によれば滑稽堂版は明治16〜17年刊とされているから、実際には3年くらい遡れるということだろうか。(*NDL onlineでは『開明奇談写真廼仇討』となっている。)ただ、この落語と小説はまったく関係ないとする説もある。

 けれど、同サイトにはもうひとつ重要な情報がある。それは、「戦後にGHQからの指令によって自粛した20の演題のひとつで「写真の仇討ち」「恨みの写真」「指切り」「写真の指傷」などの別題があります」とのことだ。たしかに、僕はこの演目は「写真の仇討ち」として知っていて、内容も若干異なってはいるけれど、まったく関係ないとするにはすこし偶然がかさなりすぎているように思う。

 かんたんに、ふたつのあらすじを紹介しよう。まずは落語のほう。

 主人公の男は、誓いをかわしたはずの新橋の芸者に、じつは情夫がいることを知る。怒り心頭の男は女を殺して自分も自殺するつもりだという。これをきいた男の叔父が、晋の予譲の故事を語り聞かせ、これと同じことをして気をしずめるように諌める。男は叔父のいうとおりに女の写真を小刀で刺して復讐をする。と、写真から血が流れる。念が通じたとびっくりする叔父に、男は「あたくしが指を切ったのでございます」というオチでおわる。(*予譲の故事では服を切りつけて仇討ちとする)

 つづいて、『開明奇談写真之仇討』。

 神田の町医者・松木彦三郎とそこにとついだお絹のあいだにうまれた彦之丞が、17歳の時に勝海舟の遣米使節に同行して、西洋医術を学ぶ。そんななか、彦三郎はいろいろあって別の家の娘お蔦と深い中になる。お蔦を囲った彦三郎が家を留守にしがちになると、その腹いせでお絹は松木家の下男・伝次と関係をもってしまう。そして実は人殺しの過去のある伝次、お絹と共謀して彦三郎を毒殺する。その後、お絹と伝次も身の危険を悟って上野国桐生へ身を隠す。二人はその後も後ろ暗い過去に苦しめられ、彦三郎の7回忌法要をおこなうが、その夜にお絹は春菊にあたって死んでしまう。

 同じ頃、彦之丞も帰国の途につき、その船中で舞妓の小糸と知り合う。小糸も幼い頃にいろいろとあり、会ったことのない腹違いの兄がいるのだと聞かされ、その写真を見せられる。すると、なんとびっくり、その兄の写真は、かつて自分がアメリカから両親に送ったものではないか。帰国後、彦之丞は小糸が父とお蔦のあいだにできた子供であることをつきとめる。そこで小糸を探す旅にでた彦之丞は、たまたま泊まった旅館で按摩を頼む。そこに現れた施術師は、なんとかつて父の右腕で、伝次の毒殺計画をたまたま聞いてしまった源庵だった。彦之丞にすべてを話せとつめよられ、源庵は懺悔のつもりですべてをうちあける。

 しかも、彦之丞がこの旅の前に治療し、一緒に写真を撮った男こそが伝次であることが、これまた、たまたま彼が持っていた写真から発覚(伝次は与市と改名している)。そしてこれまたもやたまたま、与市こと伝次もいま同じ旅館に泊まっていることがわかる。すぐに伝次を呼んで問い詰めるが、シラを切られる。しかし、源庵も出てきて、隠し通せなくなった伝次、罪を認めて仇をとれという。

 だが、時すでに明治の世、仇討ちは禁止されている。そこで、彦之丞は晋の予譲の故事にならって伝次の写真を小刀で刺し、仇討ちとする。ところが、これで改心したかに見えた伝次が彦之丞の寝込みをピストルで襲う。しかし失敗し、伝次は自殺。彦之丞は小糸を身請けして松木家へ帰るのであった。

 『開明奇談写真之仇討』はかなり人気を博したようで、書籍として少なくとも7バージョンは出ていることが確認できるし、雑誌『アサヒカメラ』でも昭和2年から4年にかけて連載されている。

 国会図書館には6つのバージョンがあり、いずれもインターネットで閲覧・ダウンロード可能だ。ひとまず、この6つの版を比較してみたいとおもう。

 最初に出た滑稽堂版は20段ずつにわけた前編/後編の2冊本で、あとから出た5つの版は一冊本である。どれも内容は同じだが、滑稽堂版以降は組版と挿絵の入り方もそれぞれにちがう。また、表紙は3パターンあり、滑稽堂版(明治16〜17)(下の写真の左)をのぞけば、誾花堂版(明治19年)・日吉堂(明治19年10月版)・赤松市太郎版(明治21年)のバージョン(下の写真まんなか)と日吉堂(明治19年11月版)・聚栄堂版(明治20)の2バーション(下の写真の右)にわけられる。(*日吉堂は2バージョン出ているので、便宜的に出版月で呼んでいる)

左:滑稽堂版の表紙 中:誾花堂・日吉堂(明治19年10月版)・赤松市太郎版の表紙 右:日吉堂(明治19年11月版)・聚栄堂版の表紙(*中・右は国会図書館蔵。以下、モノクロの図版は同)

 それぞれの挿絵の数を比べると、滑稽堂版が口絵3・挿絵16(前編口絵3・挿絵7、後編挿絵6)、誾花堂版が口絵1・挿絵3。次の日吉堂版は、口絵1・挿絵4なのだが、11月版には物語にはあまり関係のないカットがいちばん最初のページにプラスして入っている。次の聚栄堂版が口絵1・挿絵4。最後は赤松市太郎版で、口絵1・挿絵2。

 滑稽堂版がだんぜん挿絵がおおく、これをコンプリート版とすると、日吉堂版2つと聚栄堂版はそのうちの4点、いずれもおなじ挿絵が入っていて、誾花堂版はこれらに入っていなかった3点が入っている(赤松版には法則性はなく挿絵が2点)。ところが問題は口絵だ。すべての版には登場人物紹介の口絵が入っている。どれもおなじかと思いきや、誾花同版と赤松版は似ているが、よく見ると滑稽堂版から引き継がれているものとはことなる(下右の写真)。

左:滑稽堂・日吉堂・聚栄堂版の口絵 右・誾花堂・赤松市太郎版の口絵

 さて、つぎの挿絵の作者に注目していこう。浮世絵フリークのひとは落款をみてピンときているかもしれないが、月岡芳年によるものが含まれているのだ(!)

 けれども、それが明記されているのは滑稽堂版のみ。それも、「大蘇芳年  題画」と記されているのだが、実際には芳年と門人の山田年貞と稲野年恒の3人で手分けされたものらしい(稲野については現段階で根拠がよくわからないのでもう少し調べて見る必要がある)。挿絵は弟子たちによるものとみえ、芳年は滑稽堂版の表紙と、誾花堂・赤松版以外の口絵を描いている(滑稽堂版にはほかにはない特別な口絵3点はいっていて、すくなくともそのうちの一点も芳年。下の写真参照)。

滑稽堂版だけに確認された口絵3点。すくなくともまんなかは芳年画

 そもそも、なぜ芳年画などという(すくなくともいまとなっては)稀書がうまれたのかというと、滑稽堂を称した秋山武右衛門は浮世絵の版元であり、明治10年代なかばから20年代なかばにかけて芳年の浮世絵を多数出版していて、なんと、その最初が芳年の代表作にもかぞえられる《藤原保昌月下弄笛図》(下の写真)なのだ。少しだけ深入りすると、この作品は三枚つづきで、左下に書かれているように、前年の明治15年の第一回内国絵画共進会に出品された肉筆画《保昌保輔図》を版画化したもである。

月岡芳年《藤原保昌月下弄笛図》明治16年(東京国立博物館蔵 colbaseより)

 滑稽堂版の出版年が明治16〜17年とされていることから、秋山武右衛門と芳年が関係を築いてまもなく手がけられた挿絵ということになる。明治浮世絵界の大物に挿絵を描かせるのだから、滑稽堂としても満を持しての出版だったのだろうし、その源になる落語も評価の高い作品だったとかんがえていいのだろう。

 その一方で、ここまで整理した情報からわかるのは、誾花堂版と赤松市太郎版は芳年画の口絵・挿絵を使っておらず、挿絵の数も日吉堂版、聚栄堂版よりも少ない。おそらく、芳年の挿絵(版木)を使うのはいわゆるライセンス料がかなり高く、そのために廉価版が登場したのではないだろうか。各版の出版の時系列から想像してみると、滑稽堂版の売れ行きがよかったので誾花堂が廉価版を作成→日吉堂が芳年の口絵を使った滑稽堂と誾花堂の中間のランクのバージョンを制作→聚栄堂が約一年後にその再版のような形で日吉堂と同じバージョンを制作→まだ売れるので赤松堂がいちばんランクの低い(組版がかなりぎゅうぎゅうで、挿絵も少ない)バージョンを作成というところだろうか。

 僕はかれこれ15年ちかくこの本を探し続けているのだが、その成果たるや、滑稽堂版の前編を昨年ようやく手に入れたのみである。本の形態については諸説あるが、広い意味での版本とはいえ、挿絵は木版なので部数もそうそう多くはないだろう。(*狭義には版本は木版で印刷された本。活字はおそらく活版)

 ここでオチをつけると、僕が入手したのはいままで説明してきたどの版でもない(笑)。というのは、滑稽堂版の口絵がないバージョンなのである。これをどう位置づけるのかは、この本自体がすべての版をあわせても稀書の部類に入るので比べるもの一苦労だが、おそらくは国会図書館の滑稽堂版を初版豪華版、僕の持っているのが普及版といったところだろうか。つまり、誾花堂版がでる前後に滑稽堂から再版があったか、初版と同時に普及版が出たかだろうと想像する。

 どうせなら初版豪華版を手に入れたいとまではいわないにしても、いちどは現物をみてみたい。それより、物語のクライマックスにあたる、写真を小刀で刺すシーンの挿絵は滑稽堂版の後編にしか入っていない(年貞画)ので、こちらを手に入れたいものだ。

クライマックスの彦之丞が「写真の仇討ち」を果たすシーンの挿絵(年貞画)

 すこしちがうのかもしれないが、僕はこれを読んでなんとなく三島由紀夫の鹿鳴館をおもいうかべた。どちらも結局、人間関係のもつれの末、最後にはピストルで人が死ぬ。では、法にのっとった彦之丞の律儀さとはなんだったのだろう。結局、伝次の写真を刺すことは、目の前の伝次その人を殺すのと同義だったのではないだろうか。自殺を待たずとも、伝次は写真を刺された時点でもう死んでいたということなのかもしれない。

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