19歳の“初期衝動”が“ビジネス”に変わるまでVol.05
〜前回までのあらすじ〜
2002年、当時19歳だった僕は、彼女のノンちゃんと一緒にブランド“banal chic bizarre”を立ち上げる。全国に取引先を拡大していきつつも工場生産に失敗し、一時通帳の残高は65円に。そこから奇跡的にV字回復をしたと思った矢先、今度はメインの取り扱い店舗であったCANNABISから取引終了を告げられてしまう。
2003年11月
不慣れな工場生産での大損失を乗り越えて、来シーズンの展示会に向けて準備をしていた2003年の秋。
来期のサンプルもほとんどが出揃い、それは前回の反省がかなり活かされた内容になっていた。
工場生産で作製したサンプルもかなりレベルアップし、素材のセレクトも前回の失敗を糧に、それぞれのアイテムにあった素材選びを心掛けていた。
もう謎のお産パンツをジャージ素材で作るなんて愚行は絶対にあってはならないのだ。
そして、そこに以前から評価してもらっていたリメイクアイテムも織り交ぜることで、なかなか自信のあるラインアップを作る事が出来ていた。
しかし、世の中の流れは僕たちにもう一度チャンスを与えてくれるほどゆっくりと流れてはいなかった。
ある日、CANNABISから話があると呼び出しがかかり、僕は久しぶりにディレクターのMさんと話をする事になった。
椅子に座った瞬間、Mさんは口を開いた。
「来期は扱わないことにしたから」
普通の人なら言いにくい話だと思うが、そこはさすが百戦錬磨のMさん。
椅子に座った瞬間、スパッと一言で要件を片付けた。
工場生産のアイテムの消化が悪かったのは間違いなかったので、僕もこの戦力外通告はある程度は覚悟していた。
むしろ今まで置いてもらっていた感謝が大きかったので、割とすんなり受け入れる事が出来た。
“沢山夢見させてくれて、ありがとうございました”という気持ちで帰宅したのだが、数時間後には“この先どうしよう?”という不安の方が大きくなっていた。
都内に取り扱い店舗が無い状態は避けたかったが、展示会が間近に迫っている中で今からどう営業したら良いかもわからず、展示会を迎える事になった。
このシーズンは前回の展示会で隣のブースだった方に誘ってもらい、渋谷にある銀杏荘という古い建物の中で展示会を開催した。
元々旅館みたいな施設だったのか、玄関があり、そこで靴を脱いで館内に入るというバイヤーが絶対に嫌がるであろう仕様。
更に僕たちの使用していた大広間は畳の部屋だったので、妙に和のテイストが混じってくるという絶妙な空間の中で展示会を行っていた。
他にもレディースブランド、メンズブランド合わせて10ブランドくらい出ていて、出展者の中で年齢が圧倒的に若かったので、皆に色々良くして頂いた事を覚えている。
余談だが、隣の部屋ではあのJOHN LAWRENCE SULLIVANがDUCK AND COVERというブランドと一緒に展示会を開催していた。
当時、このDUCK AND COVERがメンズに大人気で沢山のセレクトショップで取り扱われていて、ストリート色の強いウェアを展開していた。
JOHN LAWRENCE SULLIVANは、綺麗なテーラードジャケットがズラーッと揃っていて、
とても格好良かったのを覚えている。
さて、自分たちのブランド“banal chic bizarre”はというと、既存店からの評価も良く、新規の店も数店舗決まっていた。
高評価を頂けた既存店の中には京都のセレクトショップ“device”があった。
当時、deviceはRAF SIMONSやJEREMY SCOTTなどを取り扱っており、「京都と言えばdevice」と皆が言うほど有名なセレクトショップだった。
そのdeviceのバイヤーNさんから展示会で思わぬ誘いを受ける事になった。
Nさんはbanalの全サンプルを見終わると、
「deviceが東京に進出するのですが、そこでもbanal chic bizarreを扱わせてもらえませんか?」
と、まさかのラブコールを戴けたのである。
都内の取引先でどうすれば良いかわからない状態から一転、再び理想的な店舗と出会う事が出来たのは奇跡としか言いようがない。
もはや戦略とかではなく、ただただ運が良いだけでギリギリ上手くいってるのは読者の方々にはモロバレだが、僕たちは今回もなんとかなってしまった。
その時のコレクションがこちら。
前シーズンのアイテムと比べてもらえれば格段に良くなっている事がわかるセットアップ。
厚地のメルトンを使用して、肩幅を極端に詰めたショート丈のPコートと、袴のシルエットを参考にしたワイドパンツを作った。
ちなみにこのイケてないロケーションだが、先ほど紹介した銀杏荘ではなく、当時住んでいた下北沢の自宅にて撮影したもの。
モデルは当時ノンちゃんの大学のクラスメイトだったアユリに無理言って撮影させてもらった。
ちなみにノンちゃんはブランドをやりながら、文化女子大学(現文化学園大学)に通っていた。
お隣の文化服装学院とは食堂などが一緒の為、昼食をとっていたらbanalを着ている生徒に出くわす事も多々あったらしいが、見て見ぬフリをしていたそう。
このシーズンからドットボタンが頻繁に登場する事になる。
ボタンやハトメを打つ打ち機を手に入れた事で、とにかく打ちたくて仕方がないのがサンプルに反映されている。
トレンチコートはユーズドリメイク。
袖を大胆にカットして丈の長さの調整をドットボタンで出来るようにした2WAYアイテム。
スカートはノンちゃんお手製。
ダブルガーゼで作ったスカートをベージュの染料で後染めしている。
このシャツは、当時ウチのパターンを一部引いてくれていた地元の後輩のアイデアで作ったもの。
この当時まだ学生だったが、後にエスモードを首席で卒業するほどのエリートだった。
彼がパタンナーとして加わってくれた事で、前シーズンに上手くいかなかったフィーリングの部分を修正出来たのは大きな収穫だった。
今まで手刷りしかやってこなかったので、初のプリント工場との取り組みとなったTシャツ。
普段出来ない事をやりたかったので、発泡プリントでロゴを立体的に。
BIGサイズのTシャツと、それをカットオフしてショート丈にした2サイズ展開。
このサイズ感は今でもずっと続けてます。
タイダイのスカートは実はスウェットパーカー。
染色やドットボタンなどを駆使し、自分の手で完結出来るものを積極的に作っていた。
ショート丈のライダースジャケットは、ファスナーが2重に配してあり、ちょっと変わった構造。
どの服も肩幅がめちゃくちゃタイトだった。
これをメンズが好んで着ていたという、ちょっと変わった時代。
写真だとわかりにくいが、服の半分から下が全てリブになっているロングパーカー。
何故か一色展開で、黒以外作っていない謎のアイテム。
でもそこそこ売れた。
今見るとなんとも不気味なプリントだが、この当時、顔のプリントやコミカルなイラストのアイテムが比較的流行。
火付け役は、Bernhard Willhelm。
我々の作ったこのオバQみたいなプリントのアイテムもかなりの数売れた。
カジュアルなテーラードも肩幅はギュンギュンに小さめ。
インナーのTシャツは僕が鉄ヤスリで血だらけになりながら作ったもの。
このTシャツも3桁の枚数売れたのだが、微妙なクラッシュ加減を工場に任せられなかった為、作った分だけ血だらけになるのはこの時まだ知る由もなかった。
顔料で迷彩柄のようにコーティングしたフランス軍のミリタリージャケット。
これもトレンチコート同様、ドットボタンで丈を変えられる仕様。
インナーのパーカーはドットボタンでつまんでシルエットを立体的にしたもの。
このパーカーもかなりの数売る事ができた。
そして、この頃(20歳)の僕。
原宿を歩いていて雑誌“TUNE”に撮ってもらった時の写真。
天然パーマが酷くてこれで地毛。笑
当時の写真が見当たらなく残念だが、deviceはとてもユニークな店内で、古い日本家屋をリノベーションして、トイレや風呂場もそのまま使っていたのだが、リノベーションする感覚は当時珍しかったのでとても面白かった。
取り扱いブランドは、バッティングの都合もあったと思うが京都とは異なり、国内ブランドで構成されていた。
HISUI、DRESSCAMP、potto、YOSHIKO CREATION parisなど他ではあまり取り扱いが無いブランドがdeviceからどんどん有名になっていき、気がつけば東京で一番ホットなショップになっていた。
僕たちbanal chic bizarreもしっかりその波に乗っていた。
いや、ちゃっかり乗っかっていた。
一時存続の危機に立たされた僕たちはここから2シーズン、破竹の勢いで上へと登り詰めていく事になる。
続く
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