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日々、読書。 #01

『山を歩きながら、あまり刑事上学的な考えごとをするのはいい傾向ではない。そこに在る物、そこに生きている生命に見とれる状態、そこから悦びを紡ぎ出すことこそ巧みにならなければ、山歩きは陰気くさくなる。特にひとりの時は。』

串田孫一著書『山の独奏曲』のなか、「霜柱」の冒頭に書かれたこの一節が、時より頭をかすめることがあった。ぼんやりとその意味を掴むことはできるけれど、それを言葉にしてしまうのは難しい。おそらくそれは、まだ言葉として形を成すことのない”何か”として、頭のなかに居住んでいるのだろう。

どんな物事においても、まだ寝かしておくべき時機というものがある。無理にその箇所へ光を照らしてしまうと、密かに熟していたそれらが台無しになってしまう。きっといまも、言葉となるために発酵をしている段階なのだと思っていた。そうであるならば、時より頭をかすめることがあっても、捉え所のないそれを、捉え所のないままにしておくのが良さそうだ。

山梨に移住してからというもの、八ヶ岳や富士山がいつでも私たちの暮らしを見守るように顔を覗かせ、南アルプスなどの山脈をはじめ、山を意識する機会が増えるようになった。けれどそれは、海を眺めるのと同じように、風景としての表面的な山であった。

山について、親密になるほど山歩きを経験したわけではないが、友人に連れられて何度か緩やかな山道を歩んだことがある。十二月の初め、その日は一段と寒さの厳しい、静かに冬の訪れを予感させる日だった。

防寒用に上着を重ね、イヤーマフと手袋を身に付け、握ったおにぎり二つと温かいお茶をリュックに忍ばせて歩きはじめた。手頃な大きさの枝を見つけては杖のようにして歩き、木々を鳴らす風や、水流の跳ねる音を耳に、険しい坂道では岩に捕まりながら山頂を目指していった。

既に枝葉は枯れ落ちていたけれど、新鮮で、生き物の気配を感じさせるような匂いが満ちている。それと同時に、研ぎ澄まされた孤独の気配もそこにはあった。例えばそれは、岩の手触りひとつをとっても、そこに苔の生命力を見出すこともあれば、その冷たい感触が人里から離れた実感を与えるようにも感じられるからなのだろう。

辿り着いた山頂から見渡す景色は、残念ながら霧に覆われていて、お世辞にも感動とは程遠いものだった。心動かされる景色はなかったのだけど、それまでの歩みと苦労の詰まったおにぎりを頬張り、流し込んだ温かいお茶には格別なおいしさがあった。

丸太で作られたベンチに寝転がり、虫たちも一緒になって曇り空を眺めていた。歩いてきた道のりを思い返しながら、ぼんやりと考えごとをしていた時にふと、唐突に串田さんの言葉を思い出した。そして、その時に初めて実感を伴い、その意味を理解できたような気がしたのだった。ずっと頭の片隅にあったそれは、この瞬間まで発酵を続けていたのだろう。

形而上的な観念に意識を向けるのではなく、山々の生きた自然に目を向ける方が、きっと山歩きは愉しい。それは、例えわずかで短い道のりであったとしても、ゆっくりと時間をかけて歩むべき価値がそこにはたくさん眠っているということなのだ。

何となくそれは、いまを生きる大切な考え方のようにも思う。手仕事においても、草花の芽生えにしても、起きている物事についてきちんと目を向けることの喜び、そしてその愉しさ。そうしたものを、串田さんは山歩きを通して私たちに伝えてくれたのではないだろうか。

彼の著書『山の独奏曲』も同じように、敢えて時間をかけて読み進めるべき価値がたくさん眠っている。道中で石に腰を下ろしてみたり、見知らぬ獣道を歩んでみたり。山に生きる彼の感性や息づかいをゆっくりと味わってみると、豊かというその言葉の輪郭を、私たちにも分け与えてくれるような気がした。



『画文集 山の独奏曲』 / 串田孫一

一九六〇年代のハイキング雑誌『ハイカー』に連載された山のエッセイに、筆者がみずから書き下ろしたイラストを添えて再編集した、見て、読んで楽しい画文集。

原著の持つ雰囲気を大切にし、ワンポイントの色使いが美しいイラストも忠実に復刻。山と日常との狭間を、温かな目で描いた72編のショートエッセイ。詩的な表現もありながら、四季にわたって山の情景がありありと思い出される、細やかな描写や思想は、私たちを山の魅力へと連れて行ってくれます。

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【日々、読書。】
書評の練習です。読んだ本、好きな本を自分の言葉で紹介していきます。
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