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轟音に流れる川端康成

朝、仕事に向かう時、少し坂を登った先にあるトンネルを潜り抜けなければいけませんが、山が朝日を遮っているので、トンネルを抜けると同時に、眩い光がフロントガラス一面に広がり、冷たい霧の中に佇む街が、金色の粒子に覆われているように見えます。車のマフラーから吐き出される白煙や、厚着で登校する学生たち。なだらかな街の向こうに見える、凪いだ藍色の海などを見ると、枕草子で「冬はつとめて」と呼ばれた理由が、よく分かるような気がします。


そんな時ふと、川端康成の「雪国」が読みたくなり、本棚から再び取り出して読み返しました。香川県は温暖なので、いくらトンネルを超えても雪国、なんてことはありませんが、あの冬の空気に宿った静けさと、この小説の持つ狂気的な静謐さが、どこかで交わったのかもしれません。


小説の神様、志賀直哉は「文体が全てを語っている」と言いましたが、まさにその通りだと思っています。言葉の正しい意味や、専門的な語句を傍に置いても、文の配置の仕方、言葉の並べ方に書き手の全ては現れます。


川端康成の文体ですが、ノーベル文学賞を取ったという知識がなくても、別次元の領域というのがヒリヒリと伝わる文章です。志賀直哉が「洗練」なら、彼は「流麗」と言っていいかもしれません。磨き抜かれた美しい、日本的な情緒を追求した語感に、さらさらと流れるようなリズム感の文体が混ざり合う、日本人にしかたどり着けない境地の、その更に奥にて光輝く、鉱石のような文章です。


また、彼独特の、変態的な女性へのニュアンスも、一癖あるスパイスとして、文章に添えられています。「眠れる美女」「片腕」などはその変態性が爆発したタイプの作品です。ある種の気持ち悪さと、それでいてなお澄んだ美しさが、崩壊するギリギリのところで持ち堪え、奇跡的な調合を果たしている。そういう、矛盾を超えた不可解な美が、彼の小説の醍醐味ではないでしょうか。


そして最近、神戸のジャズ喫茶に「雪国」を持っていき、読んでいた時、この店特有の、轟音で響きわたるスピーカーから、痛々しいほどに澄んだピアノの音が聞こえてきました。すぐに、これはビル・エヴァンスの演奏だと分かりました。「雪国」の持つ透徹とした文体と、ビル・エヴァンスの哀愁を帯びた音が、これまた奇跡的な調合を果たしていました。読書をする時に稀に起こる、小説世界と、現実世界のリンクが、ここでもまた起こった。そんな気がしました。


つくづく本とは、何かの啓示の元に、読まれるべくして読まれるものだ。そう思い、テーブルのコーヒーを一気に啜り、底に残った三日月から立ち上る、豆の残り香をすうっと嗅いで、轟音の中で流れる「雪国」の世界へと戻っていきました。

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