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023 『妻への包丁』【ショート小説】

包丁研いでいる音だと気が付くのに、随分時間がかかった。
太陽はかなり高く昇っている。長いこと寝ていたようだ。

「起きた?おはよう。ごはん食べる?」

上半身を起こす。輪郭のぼやけた妻の顔が見えた。

「ああ、頼むよ。子供たちは?」
「外で遊んでるわ。昨日はクタクタだったでしょ」
「朝早い呼び出しだったからな。その割には成果なし」

あくびまじりに返事をする。立ちあがるとヒンヤリした床の感触がし、一気に目覚めた。

「待って、今用意するから」

食事は魚と貝のグリルだった。ほのかに香草の匂いもする。
用意を終えると、妻は再び包丁を研ぎだした。

「なあ」
「あ、魚焦げてた?火加減の調節苦手なのよね」

おいしかったよ、そうじゃなくて、と包丁を指さした。
「包丁、新しいのに変えないの?」
「まだ使えるわよ」
「小さいから不便じゃないか?新しいのに替えれば……」

妻は少し膨れながら
「いいの。そりゃ包丁なんて外に出ればゴロゴロ転がっているわ。でも大きすぎたり、小さすぎたり。手になじむものはそうそう見つからないわ」
「そんなものかな」
「そんなものなの」
妻は視線を包丁に向け、作業にもどる。
いつ私があげたものだろう、妻の毛皮の上着がすっと目に入った。だいぶ毛がボロボロだ。ずっと我慢して着ていたのか。ありがたさと申し訳なさで心がきゅうっとなった。
なに真に受けているんだ。妻に包丁をプレゼントしよう。

外がざわついている。そろそろ仕事のようだ。

「じゃあ、行ってくるよ」

妻は研磨に使っていた鹿の骨を藁の上に置いて微笑んだ。
「いってらっしゃい」

外に出ると男たちが一斉に駆け出していた。
「いたぞー!」「川の下流だー!」あとを追い、走り出す。

石はどこのがいいだろうか。トンガリ峠で黒曜石を探してから帰ろう。いや、その前にマンモスがとれたら、なめして妻に毛皮をあげるほうが先かもしれない。私が中心になって倒さなければ。

石槍を持つ手に力が入った。

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