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第45回読書会レポート:追悼 大江健三郎『われらの時代』感想・レビュー

(レポートの性質上ネタバレを含みます)

今回は3月3日に逝去された大江健三郎氏を悼み、『われらの時代』を課題本にしました。

キャンセル待ちの上に、定員オーバーの11名と大盛況で、この上ない追悼読書会となりました。

その内初参加の方は4名と、大江健三郎氏の影響力を垣間見ました。


なぜ『われらの時代』にしたのか? 選書の理由

2023年上半期、当会では明治文学を順に追っていきました。
今日の日本の閉塞感について、明治まで遡れば何かヒントがつかめるのでは? となんとなくそう思ったからです。

明治期~戦前を俯瞰して見えてきたもの、それは文明開化の興りにより文学表現も試行錯誤され、最終的には耽美派による「あるがままの美しさ」がもてはやされていく潮流でした。
ただしそれは商業主義も相まって、男性視点での”美しさ”でした。

戦後になると男性視点の表現のドギツさに拍車がかかっていきます。

昭和31年(1955年)「もはや戦後ではない」と高らかに宣言された年に、大江より二学年上の石原慎太郎が『太陽の季節』で芥川賞を昭和生まれとして初めて受賞します。倫理性を欠いた内容は社会に大きく影響を与えました。

大江はその2年後、大学在学中の昭和33年(1958年)に短編小説『飼育』で芥川賞を当時最年少23歳で受賞。

『われらの時代』はさらにその1年後の昭和34年(1959年)に中央公論社より書き下ろし出版された長編小説になります。

復興を成し遂げ高度経済成長へ突入していく昭和30年代。そんな背景を背負った日本で、文壇は何を訴えたかったのでしょうか? 何を問題提起したかったのか? ドギツさの正体とは?

正直苦手だった大江健三郎でしたが、敢えて彼の若い頃の、まだ敗戦の空気を引きずっている作品を取り上げ、あの時代に一体なにがあったのか? 
そこから現代を生きるヒントを得てみようと考えたのが選書の理由です。


参加者の皆さんのご感想

・文章がかっこいい
・今読んでも良い!
・八木沢との関係がいい!
・読みにくい
・なぜこんなに性的表現をするのか?
・時代性
・幼稚
・戦後
・連帯
・靖男=靖国
・ヒステリック
・バッドエンド
・ハッピーエンド
・メリーバッドエンド
・実によく計算された作品
・計画的

「東大生とはいえ、23歳男子なんてこんな感じよ!」同世代の子を持つ親御さんの言葉に和む

主人公の南靖男はフランス文学を専攻する学生で、頼子という40歳過ぎの中年女性と同棲していました。
頼子は外国人を相手にする娼婦であり、頼子が客を取るときには靖男は家を出ていくという、そんな生活を送っていました。

靖男と頼子が肉体関係に明け暮れる様子など、とにかく男性の体の反応をこれでもかと描写し続けるのですが、「一体私は何を読まされているのだろう……」と途中から思考が停止してしまう程でした。

この本を課題本にした私が言うのもなんですが、読了した参加者の皆さんは本当にすごいです!

読書会で同じ年頃の男の子がいる方が「この年頃の男子なんてこんなものよ」と軽やかに言ってのけ、なるほどなと妙に納得しました。
母親目線からの核心をついたご意見で場の空気が変わり、文豪とはいえまだ青臭さの残る大江健三郎が目に浮かび微笑ましくさえ思えました。

むしろ、体の反応をここまで言語化できる才能や、美しい日本語でさらさらと綴られている文章にいやらしさが無いのがすごい文学だなぁと、最後は一気に前のめりで読んでしまいました。

無意識のうちに蝕まれていく男性性。その得も言われぬ恐怖に抗う若者

また、この参加者さんのお父様と大江は同い年だったとのことで、小学校1年生から5年生まで太平洋戦争下で過ごした世代だった、と指摘されました。

開戦と敗戦を小学生で迎えた世代、、、。
すべてが一変し、使っていた教科書を墨で塗りつぶした世代。。。
それは幼心に汚辱にまみれた出来事だったに違いありません。

「敗戦国日本」という混乱と恥辱は心の澱となって沈殿しながら成長し、招集される年齢に達するも、とっくに戦争は終わっているという世代。

肉体の完成と共にやり場のないエネルギーの発露を求める様を、これでもかとグロテスクな表現で放出させているのは、かつての軍国少年たちの深い傷を世間へ投げ付けているかのようです。

無意識下に堆積された傷の言語化に挑戦することで、癒やしを得ようと四苦八苦している様子が伺えます。

心と肉体の成長のアンバランスさは思春期特有のものですが、さらにこの世代は「敗戦」を背負っているわけです。

生を生み出すことができる身体を持ちながらも、生に対する生々しい嫌悪を抱えきれずにいる、そうした危うさを孕んだまま、靖男はどこへ向かわされるのでしょうか。

男性版:反出生主義

11月の課題本では、川上未映子氏の『乳と卵』を取り上げ、女性版:反出生主義という読み方に着地しましたが、『われらの時代』は男性版:反出生主義という読み方ができるのではないでしょうか。

反出生主義とは、「自分は生まれてこないほうがよかった(誕生の否定)」と「人間は生まれない方が良いので生まない方がよい(出産の否定)」について考える思想です。

戦争に負け「日本を守れなかった」という絶望は、男性としての無能感、無価値感に極限まで追い込み、男性版:反出生主義へと向かわせるのは容易なことでしょう。

頼子とも別れ、弟にも先立たれ、係累のいなくなった靖男はクライマックスでお茶の水の橋から電車を見下ろしたときに、ぎくっとしてとあることに気づきます。

日本人の若者として生きつづける希望をまったくもっていない。そしておれにとって可能な唯一の勇気のある行為、英雄的な行動は自殺だ。

(新潮文庫P274)

そうやって陸橋から飛び込もうと己をけしかけるのですが、しかし靖男は行動できませんでした。
そして次の一文に収斂されます。

偏在する自殺の機会に見張られながらおれたちは生きてゆくのだ、これがおれたちの時代だ

(新潮文庫P275)

こうして自殺する気概すら奪われている”おれたち”を晒す靖男。
存在することを許すでもなく愛でるでもなく、ただただそうした存在であることを読者へ投げつけて終わります。

三島由紀夫との比較で見えたもの~反出生主義の逆説的な着地~

自殺をしない大江との対比として挙がるのは、ちょうど10歳年上だった三島由紀夫ではないでしょうか。
三島は勤労動員されるなど、戦争をもっと直接的に体験しています。

三島が割腹自殺という行動に移せたのは、「自殺の機会に見張られている」なんていうレベルではなく、もっと直接的に戦争に関わり、そこから生還してしまったという事実に対し、純真な葛藤や懺悔に近いものが突き動かしたものと言えるでしょう。

同じ戦争経験者でも生まれた年代が10年違うだけで対照的な選択をするのが印象的です。

戦争が終結し、日本人としてどう生きるかを模索した結果、行動には移さない、いや、”移せない”「われらの時代」を素直に真正直に曝け出し、反出生主義を逆説的に着地させた大江。

これは当時の人々はもちろんのこと、いつまでも日本人の心に一石を投じ続けるのではないでしょうか。

だから生きるんだ、と。

改めてご冥福をお祈りいたします。


(2023年11月12日日曜日開催)


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