見出し画像

真っ黒なわたし

私は子供の頃、毎年夏にキャンプだけ一緒に行く家族ぐるみの友人がいた。
親同士がもともと友人で、その息子同士もキャンプを通して仲良くなっていた。

子供たちは、私が一番年上、その4つ下に私の弟と向こうの長男が同い年、さらに2つ下に向こうの次男と、年は若干離れているが4人で川を泳いだり、森を散策したり無我夢中で遊んでいた。

しかし、ある日向こうの家族が東北に引っ越すことになり、その年以降恒例の夏のキャンプはパタリと途絶えてしまった。

それから1.2年後だったかのお正月、その家族から年賀状が届いた。
年賀状には「こっちは雪がすごいよ。今度こっちにも遊びにきてね」という一言と向こうの兄弟二人作の、私たち兄弟二人の似顔絵が色鉛筆で描かれていた。

微笑ましく眺めていたその似顔絵だが、肌を濃い茶色でみっちり塗られていたのが唯一気になった。密かにあまり似てないなと思っていた原因はそれだろう。

私も弟も色白でもないが色黒ではない。しかし理由は考えればわかった。
私たち兄弟が彼らに会うときは決まって夏のキャンプ、それも真夏、最も日焼けしているタイミングである。彼らはこんがりした私たちとしか遊んでいないのだ。
このインパクトのある絵がとても印象に残っている。

春秋冬のデータが抜け、夏のデータだけで構築された私たちは、デフォルトで色が黒いかのように刷り込まれていた。

見えていないたくさんの前提、常に変化する可能性のある時間軸があることを忘れて、ある瞬間のみを切り取ってイメージを決めつけてしまう問題は、日々ニュースなどで耳目に触れる。
少年時代に真っ黒に描かれたわたしの絵をたまに思い出して、前提と切り取ったタイミングはどこなのか、比較的意識するようなっている。

かなり色黒ではあったものの、ぼくのなつやすみ2の島の兄貴のような、アウトドアで現実のわたしより全体的に頼りになる感じに描かれていたことは、少し嬉しかったのも思い出である。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?