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不登校日記 vol.6 新学年とこれから

充電がすぐに切れてしまう

4月になって、3年生になった長男。
すでに3ヶ月がたち、2週間に1回行くか行かないかのような状態が相変わらず続いている。

始業式は頑張って行ったのだけど、放課後に友だちと公園で遊んで帰ってきた時には疲れ切っていた。

スマホでいうと、彼の充電は、学校行けなくなった頃は空っぽ状態で、2ヶ月ほど休んで3%くらいにはなってたんだけど、コンセントから引っこ抜いて使い出したらものの数分で電源が落ちてしまう、きっとそんな状態が続いているのだ。

長男の充電が、せめて8割くらいになるまでは、休ませることを厭わず、楽しいことを増やしながら見守っていきたい。

勉強のこと

不登校の親が不安なこと第1位はやはり勉強なのではないだろうか。

推測だけど。

不登校が始まった頃、ネットで通信教育の情報を見漁ったり、市の運営する適応指導教室(この響きは少し好きになれないけど)の通級を検討していた。
通信教育は、お試ししてみたけど、いまいちのめりこむ様子はなく、一つに決めかねて結局まだ使っていない。
家で九九を練習するくらい。

適応指導教室は空きがないそうだ。

わたし自身、誘われた仕事をやってみたものの、全く適応できなくて(わたしこそ適応指導教室が必要だ)、でも辞められなくて、心がどんより曇っている。

そんな状態でなかなか子どもと勉強のことで冷静に向き合うのは難しい。

そんな中、わたしの父が、実家で長男を預かると言い出して、3日前から合宿中。父と母に家庭教師をしてもらっているらしい。

このことはまた別の記事で書こうと思う。

社会との繋がり

学校に行かないと、社会性が育たないんじゃないか、って心配する人もいるだろう。わたし自身を振り返ってみると、相手の気持ちを思いやらずに、正論をぶつけてみたり、大人びた考え方で同級生を見下していたり、正義感を振りかざして人を傷つけてしまうような、今思えば社会性がない子どもだった。先生には気に入られているけど、同級生には煙たがられる、いわゆる学級委員タイプだった。学校に行ったからと言ってなかなか社会性が育つとは限らないようだ。

そんな自己中心的な人間関係を続けていたわたしは、いじめのようなものや、わたしが悪意ないままに傷つけた相手からの激しい拒絶を受けた。痛い目を見て、どうやら自分は社会性がないらしい、と気づいたあと、わたしはほとんどの人間に対して、無難に、笑顔で、配慮をし、自分の意見は5割ほど控えめにしながら社会生活を送る大人になった。

トラブルが減った分、誰の印象にも残らないような人間だな、と我ながら虚無感に襲われている。自分の大切にしたいものを守ることより、波風立てないことのほうが重要になっていたわたしは、いつしか自分の大切なものすら見失ってしまった。そうして、自分の価値が見いだせなくなってしまったのだと思う。

親ができなかったことを子にさせようとするのは、酷であるとか、子どもを親の所有物のように扱う行為だと言われることがあるが、それでも、子どもたちには、自分の大好きなものを自信を持って追究して表現できる人間になってほしいし、相手をむやみに傷つけないように意見を伝える術を、身につけてほしいと考えている。そうすることが、結果的に誰にも遠慮せず好きなことやものを突き詰められる気がするし、応援してくれる人だってきっと出てくるだろうと思うからだ。

長男の場合は、周囲に過剰適応する性質があると考えている。

親がNOと答えそうな意見は言わない。
先生が困るようなことは言わない。
友だちが楽しそうなら、自分は楽しくなくても笑う。

それを彼は、息をするようにやっている。
本人には過剰適応している自覚はないから、感情と思考がミスマッチしたり、わたしや友だちに対して理不尽かつ極端に相手に腹が立ったり、体に不調をきたすんだと思う。

自覚して、アウトプットして、フィードバックする。

その訓練は、雑音が多い小学校低学年の教室では、精神的に成熟した人間が介入しないとかなり困難だと思う。

長男のように敏感な人間は、安心できる場所に身をおいてスモールステップで社会とのつながりを作っていくことが、きっと大切だと考えているから、親としてそういう場を作ってきたつもりだし、これからも作っていきたい。

家族以外の人の手も借りながら。

親はどれほどのことができるのだろう

社会とのつながり、につながるのだけど。

子どもには親の知らない顔があって、気づかないうちに成長しているものなんだ、と感じる。

長男は園児の頃、お遊戯会でお遊戯しない、先生におはようもさようならも言わない、何考えてるかわかりにくい、そんな感じだった。

わたしはそれが耐えられなくて、先生の挨拶を無視しようものなら、鬼の形相で怒鳴りつけたものだ。長男の気持ちも考えずに。(そう、わたしも画一的な教育の影響なのか、保育園の先生に、「ちゃんとしつけしない親だ」とか思われたら嫌だななんて人目ばかりを気にして、長男の子育てではたくさん失敗をした。)

わたしの中にそんな記憶がまだありありと残っているから、長男がわたしのいないところで外の人と応対している様子を想像すると、少し頼りない。

けれど、先日近所のおばちゃんが教えてくれた。

長男が弟と妹を連れて、おばちゃんちに遊びに行ったとき、弟が少しふざけていてバランスを崩して、玄関の植木鉢を倒してしまったらしい。

その時、長男は弟の代わりに、「おばちゃんごめんなさい」と謝ったんだそうだ。

長男に弟がなにかしでかしたら代わりに謝りなさいなんて、教えてないし、むしろ、「弟妹の面倒はあんまり見ない子だな」ぐらいに考えていた。わたし、小学校3年生の時に、妹の代わりに誰かに謝ったりできたかな。
妹のことなんて、ほったらかしていた気がする。

長男は親の知らないところで、すごく成長している。彼の力を信じて、わたしたちは自分がまっとうに生きる姿を見せる以外に、大してできることはないのかもしれない、と改めて思う。

子育てのやり方をどうこう悩む前に、まずは親自身が、自分の人生を自分で選び、自分で決め、自分で歩いていく。

子どもたちが行きたい方向に可能性を広げる努力を怠らなければ、きっと道は見えてくるんだろうな、改めてそんなことを思いつつ、今回はこのへんで。

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