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ひとりの音楽家と、ひとりの観客のための家

僕は絶壁に片持ち構造で取り付けられた、長い斜路を歩く。
眼下から届く波のリズムにあわせ、堅木をタップしながら家路につく。
右の頬をさする潮風は少し冷たい。

ゆるやかなカーブを描いた、継ぎ目のない透明の膜が見えてくると、
斜路はそこで直角に折れて、壁をくり抜いて取り付けられた扉で終わる。

原始的な居住空間を思わせる荒い岩肌は、小さな波の鱗が反射する光で小刻みに動いている。そこから光が届かない横穴に入って、冷えた炭酸水と薄玻璃のグラスを手に取り、崖の壁面線が端っこの明るいリビングへ移動する。

寝椅子に腰掛け、炭酸水をグラスに注ぐ。
書きかけのノートを開いて、最後の文字の先にある空白をただ眺めながら、時間がくるのを待った。

私は一様に背が低い草に覆われた、広い斜面を歩く。
さしゃ、さしゃ、と踏みしめる音のリズムを、早くしたり遅くしたりしながら家路につく。
水平線に傾きかけた太陽が左の頬をやさしくなでる。

斜面の頂上あたりに着き、乳白色の膜に開けられた小さな扉を開ける。
壁と天井の境目のない膜は、海に向かって少しずつ透明になり、崖を飛び出して海面近くまで延びている。
棚田のように段々と下っていく床は、周囲を映し込むほど磨かれていて、崖の先端あたりで空と海に溶けていた。

3段目でティーポットに茶葉とお湯を入れて、カップと一緒に盆にのせ、5段目まで下る。ピアノから10メートルほど離して置いたソファに身を沈め、指をあたためた。

太陽が水平線の向こうに吸い込まれ、空が淡いオレンジから深い青のグデーションを描きはじめた。

僕は、寝椅子にからだをあずけ、目を閉じた。
私は、ピアノに向かい、鍵盤にそっと指をかけた。

羊毛のハンマーが弦を叩く音は、大きな曲面で反響して、讃美歌のような神々しさをまとっている。それでいて、ディテールは失われずに、耳元でささやくように鼓膜を振動させる。
まるで波にふれた雪の結晶がほどかれるような音だった。

いつの間にか、波の音が聞こえている。

家を包む透明な膜は、
ある時は風を、
ある時は熱を、
ある時は音を、
自由に室内に取り込むことができる。

しかし、二人は会話すらしたことがないので、同居人がいることを考えるとこの機能は使えなかった。

ただし、週に一度のこの時間だけは、音楽家が自由にこの機能を使うという、暗黙のルールがあった。「暗黙のルール」とは、お互いの表情や態度をおもんぱかって生まれるものなので、実際には、音楽家の気まぐれを観客が何も言わずに受け入れているだけなのだが。

海面が光を画材にしたテクスチャーを失った頃、音は名残を惜しむように少しずつ弱まっていった。
最後の一音を鳴らした指は、残響がなくってようやく鍵盤から離れた。
波の音だけが残った。

僕は、あの人は同じ月を見ているかもしれない、と思って眠りについた。
私は、あの人は同じ星をみているかもしれない、と思って眠りについた。

影をつくらない均質な光で目を覚ます。
外は雨が降っていた。
室内に雨音が響いている。

いつもは無音のはずの室内は、ちょっとしたエラーによって、雨音の子守唄が聞こえる胞衣の内部に変容していた。
二人は思いがけない事象に楽しさを覚えながら身支度をした。

「いつか、家の使い方の話をしてみたいな」
二人はそう思いながら、それぞれの扉を開けて、いつもと変わらぬ一日に歩き出した。


建築・インテリアなど空間デザインに関わる人へ有用な記事を提供できるように努めます。特に小さな組織やそういった組織に飛び込む新社会人の役に立ちたいと思っております。 この活動に共感いただける方にサポートいただけますと、とても嬉しいです。