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“涙が出るほどの「想い」”は否定されてはいけない

涙が出るほどの想いは否定されてはいけない


その想いにたどり着いたストーリーを綴ります。

私が大学院を休学していた時のこと。

コミュニティスペースで「色眼鏡なく見てくれる人との出会い」「斜めの関係性の大人との出会い」をした。つまりそれは、その時点での利害関係やその先の人間関係を深く意識せずに話すことができる人、友達でも先生でも親兄弟でも恋人でもない人。そんな人の存在が私を変えてくれた。

身近な人だと、「これを言ってしまったら、相手はこう思ってしまうんじゃないか」「これを言ってしまったら、相手にこう思われるんじゃないか」という不安感が少なからず存在することによって、自分のありのままの姿をさらけ出せないことがある。たとえ何でも言い合えるくらい親しい相手がいたとして、あなたはその相手に、悩みや不安を本当にすべてさらけ出しているのだろうか?「相手に迷惑をかけたくない」「心配するだろう」。相手のことを信用し、信頼し、愛しているからこそ、頼れない、話せない、などの感情を抱くことがあったりするんじゃないかって思う...

その人は「うんうん」とただ話を聞いてくれた。そんなだったから、自然と心を委ね始めていて、話している中で「こんなこと自分で思っていたんだ」という事実にたくさん気付かされた。

そこから私の自己内省は始まった。

「好きなこと」「得意なこと」
「できること」「できないこと」
「苦手なこと」「嫌いなこと」

そして他人を通して自己内省もしていた。
様々なイベントに参加し始めた頃、言葉や表現、話の端々に現れるその人の表情や想いを目の前で感じ取ることが多かった。そして、そのどれもが自分にはないものが多かった。なぜこの人はこういう言葉を使うのだろうか?まったく自分の脳みその百科事典には載っていないものばかりだった。そして、自分の扱う言葉はいかに知識にとらわれているものだったかを思い知った。心からの言葉ではなかった。ならば、自分が言えることはなにか、心から言えることはなにか、経験や感情から伝えることができるものってなんだろうか、それを考え始めた。そして、様々なイベントやコミュニティに足を運ぶ中で、自分の抱く想いに耳を傾け続けた。

楽しさ、喜び、幸せ、悲しみ、悔しさ、虚しさ、寂しさ...
様々な感情を味わい続けた、感じ続けた、叫び続けた、想いを抱いた

そのなかでも、涙が出るほどのできごとに度々出くわした。涙が出るほど嬉しかったり、楽しかったり、幸せだったり、悲しかったり、寂しかったり、悔しかったり...

涙が出たことも、出そうになったことも含め、つまりそれは、感情が無意識に自然と生理現象として湧き上がってくるもの、直感的なものであるものと信じてみた

歌、映画、ドラマ、人との出会い...様々な場面で出てくる「涙が出るほどの想い」

一体「涙が出るほどの想い」ってなんなのか?
内省した結果こんな答えが出た

「自分の人生のなかでも、過去のことと密接につながる現在の想いの紐付けが強固なものが、現在のことと波長が重なったとき涙となって現れるのだと...」


その涙が出るほどの想いに、自分の人生を抱きしめる、感情を抱きしめる、自分の存在価値を肯定するためのヒントが隠されているはずだって思う

涙を伴う想いには、その人の人生の強い想いが紐付いているということ


“「想い」をただただ肯定したい”

自分を見失っているとき、肯定できないとき、それは、自分の抱く想いに納得感がないから、腑に落ちていないから。

自分の人生の歩みを振り返り、想いと向き合い、そのルーツを辿ることができれば、まず今抱く想いに納得感を持つことができるんじゃないかって...

その想いが社会的・倫理的に良い悪いとかじゃなくて、
人として良い悪いとか、ひねくれているとかじゃなくて、

どっかの誰かが見たら、批判する人もいる。
でも、その想いが正しいか正しくないかなんて本人が判断すること。

とりあえず今を見つめよう 今を生きよう
その想いをどうするか その想いにしたがっていいのか
それをどう扱うかは一旦おいておこう


“涙を伴って抱いている「想い」「叫びたい魂」をありのまま受け止めたい”

同じ想いの人なんていないんだから...
みんなちょっとずつ違うんだから...
たとえ自分と想いが違って価値観に合わなかったとしても、否定するのはやめようよ

言葉の一端だけを捕らえて判断せずに、もっと対話という形を通して、1人ひとりがお互いの想いの根源に気づいていくことができれば、この世界はもっとやわらかくあたたかい世界になるはず

「想い」はその人の人生そのものなんだから...
「想い」を否定したらその人の存在も、人生も否定することになっちゃう...

人が人の人生を100%見て知ることはできない
でも、その人なりに一生懸命生きてきたはず
「想い」はそんな人生で生まれ育まれてきたんだから
否定されてはいけないと思う


"「想い」が技術を超越することがあると信じている"


私は不器用だ。いつもちょっとだけ足りないし、それなのにあれこれ手を出してみてはそこそこのところの一歩手前だ。

そんななかでも「想い」が技術を超越したかもしれないことを何度も感じている。

・型にはまったのが嫌で、想いのままに喋ったら内定をもらえたこと
・文章書くなんて苦手だったけど、自分の言葉で想いのままに書いた文章に大きな反響をもらえたこと

ある人から見れば多少なりとも技術はあったかもしれないし、まったくの経験0でやったわけでもないというのはある

でも、感じたのは「涙が出るほどの想い」は「伝わる」ということ

私は宣言する

「涙が出るほどの想い」を無駄にしない世の中をつくりたい
「涙が出るほどの想い」を、言葉でもアートでもなんでもいい
その人が想いのままに表現できることで
どんな困難からも救える世の中にしたい

私は「涙が出るほどの想い」に1人でも多くの人に気づいてほしい
そして、1人ひとりが置かれている困難な状況から救い出したい

想いが今日を生きる救いになる
明日も生きたいという希望になる
私は何度も何度もそう感じた


できないことが多くたって
結果がうまくいかなくたって
「涙が出るほどの想い」があったら
どんな状況からでも抜け出せる

簡単にはいかなくても
抜け出せるんじゃないかって希望が持てる
今日も生きていようと思える


そんなことができるんだって

私の人生をかけて証明したい

世の中はそんな甘くないと言われようが
結果が全てと言われようが
なんとでも言われたっていい

みんな生きてるだけで充分すごい
一生懸命生きてるんだから

もっと「想い」にやさしい世の中に...

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