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soarサポーターです


あれは2017年。大学院1年の夏。私は父親の病と自分の将来への迷いから鬱になった。そして休学を選択した。

そして秋、居場所となるコミュニティカフェ『tsunagno』に出会う。
その一部始終はこちらに綴っています↓

もやもやを抱えて『tsunagno』居候生活を続ける中で、soarに出逢った。小布施若者会議に参加し、熊谷晋一郎さんの言葉「自立とは依存先を増やすことである」を聞いた。そしてこの記事にたどり着いた。

そこから休学中も、就職してからも、再び鬱になって会社を辞めて駆け出しのライターをしている今も、soarの記事を読み続けている。

soarに出逢ってから約3年。小さいかもしれないけど、いろんなチャレンジをした。

嫌なこともあったし、幸せなこともあった。

たくさんのすてきな人に出会ったし、その分人との関係性にたくさん悩んだ。幸せな悩みと思われるかもしれないけど。

何度泣いたかわからないけど、いつも私の心のどこかにはsoarがあった。soarの記事、当事者の想いに共感した。泣いた。励まされた。このままでいいと思えたり、安心したり、救われたりした。それは今でも変わらない。soarはある種、薬のような存在だ。


未だに何度も読み返す記事がある。
私の拙い文章でどれだけの人に伝わるかわからないけど、伝えたい。


私も週5日正社員として働き、休日を使ってライターの仕事やボランティアのタスクをしていた。時折限界を超えて、すべてを捨てたくなる時があった。反対に、なんでもやってやるぞ!と躁状態のときもあった。大好きな人たちの前では特に「この場がどうしたら楽しいか」を最優先に考えていて、そんなふうに振る舞う自分を受け入れてくれるみんなによって自分の存在意義が保たれていることに安心感を感じるという繰り返しだった。

人に対しては「なんでも受け入れたい」と思っているくせに、自分のことになると「受け入れてくれるはずがない」と思ってしまう

私も同じ考えで生きてきた。

自分自身の気持ちを認めてあげられる時間をつくる

この言葉に触れてから、意識的にそういった時間をとるようになった。あかしゆかさんの感情が、近い波長で私の感情と重なっていた


私は、必然的で意識的な環境の中で一緒に時間を過ごさないと、他者と深い関係になることができない。

「人との関係に踏み込めない」「人に嫌な思いをさせたくない人なんだと思う。相手に負担をかけたり、チャレンジしたりしないと親密な関係は築けないんだけど、それができない。」

ほんとその通りで、自分自身の存在や言動・行動が相手にとってどうなのか、推し量るのが苦手。私にとっては大切な存在であっても、相手がどうなのか分からない。だから、踏み込んで見えない地雷を踏んでしまったら、その瞬間にその相手との関係はなかったことになってしまうんじゃないかって...そんな不安を抱えながら生きている。「関係性を問いただす」こと、「迷惑をかけてみる」こと。分かっていながらもなかなかできないことを、何度も再認識させてくれる。



私は、恋愛観が他者と違うことにここ何年かで漸く気づいた。人を「好き」になること、恋人関係と友人関係の違い、友だちが至ってなんでもなく話すエピソードにはてなマークが浮かぶばかり。私自身のセクシャリティもあっちいったりこっちいったり浮遊していて未だに着地できないまま。そんななかで

「1年後の自分が同じセクシュアリティであるとは限らない」

この言葉に出会ったことによって、無理しすぎない自分に出逢えた感じがした。

「攻撃的な発言にムカつかずにはいられないのだけど、こちらが間に受けて対立してしまえば、対立構造はずっと変わらないまま。だから私は「何が彼女をそうさせたのか」に視点を転換するようにしています。」

私は攻撃的な言葉でも比較的ムカつくことが少ない。でも、ムカつかないにしても、例えば反対する想い・意見や価値観だった場合に、なぜそういう考えに至ったのか、どうして自分と真反対なのか、ちょっとそれはないんじゃないかな?と思っても、その人のこれまでの人生で経験・思考してきたことが今言葉として想いとして表れ出ていることを感じながら生きている。自分の他にもそう考える人がいるんだ!と嬉しくなった。

きっとこの世界のどこかに、私と同じようにsoarの記事を読んで救われている人がいるはず。

これからもsoarと共に歩みたいと思います。

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