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未だ見ぬ平成を待つ

平成が終わるらしい。
平成生まれの僕としては、初めて体験する改元ということになる。
一つの時代が終わるのだ。
しかしそれに対してどれ程の感慨があるかと言われれば、呆気ないほどにない。
次の元号が何になるのだろう、という興味はあるけれど、それで何が変わるわけでもない。
悟り世代。なるほど。

でも昭和生まれの人々にしても、改元は二度目でも生前退位は初めてだから「一つの時代が終わる」という意識を持ったまま一年を過ごす、という経験は今回が初ではないだろうか。
約束された時代の節目。
感覚としては、20世紀の終わりが近いのだろうか。
それでも2018年に生きる僕らに、ミレニアムと同じような、来たる未来への不安や高揚感といったものはない。
ノストラダムスの予言に取って代わるものは、平成の終わりにはなかった。

災害やテロが横行し、そんなニュースにも慣れてしまい、感覚は麻痺し、自分や身近な人が直接巻き込まれない限りは他人事で終わる。
被災者や犠牲者を悼む気持ちは一応ありつつも、心のどこかでは「またか」と思っている。
平成最後となる「今年の漢字一文字」が「災」だったことからも推して知るべし、という感じだが、この30年間、世界中の人々の多くにとって「平成」ではなかったし、今となっては虚しく響く二文字となってしまった感は否めない。
30年前の天皇陛下の、また、当時の人々の祈りは遂に届かなかった。

なんて書くと新年早々、物凄く悲観的に見えるかも知れないけれど、そんな平成の終わりについても別段悲壮感は持ち合わせていない。
平成生まれの僕らは、比較する対象を持たない。

他国との政治的な関係性や自然災害など、あちらこちらに不安要素はあるし、この日常がいつ失われるとも知れない。
それでもそんな不安に絶えず押し潰されそうになりながら震えて過ごしているかといえばそんなことはなく、かと言ってわくわくしながら明日を待つようなことも特になく、もっと身近なところにある、些細な喜びや悲しみ、仕事や人間関係、そうした日々の営みの細部に心を砕くことに精一杯で、世の中がどう、というところまで気が回らないことの方が多い。

そして、そうした「日々の営みの細部」を切り取って見てみればいつの時代にだって多かれ少なかれ山もあれば谷もあるのだから、結局時代がどうあれ、僕らが未熟で欠陥だらけの人間という生命体である以上、個々人の主観の上では平成ってやつはそうそうやってくるものではないように思える。

また話が暗い雰囲気になってしまったけれど、繰り返すと僕は別にそれを悲観的に捉えているわけでもなくて。

きっとまだしばらくは、人々は、というか僕は、そうやって細部にこだわって悩んだり落ち込んだり笑ったりしながら生きて行くのだろうなという確信めいた予感があり、それは「どうせ自分のことだから、その程度だろうな」という諦めであると同時に「そんな日常が続いてほしい。というか続くよね」という願いでもあるのだと思う。
底に漂う諦念と、代わり映えのしない日々への微かな愛着。

平成の次の時代、どんな時代がやってくるのかまだ分からないけれど、少なくとも僕にとっての平成はもうしばらくやってこないみたいだ。
まだしばらくは、細部を気にしながらどうにかこうにかやっていくのだろう。
でもそれでいいと思っている。
今日のところは。

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