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#80 愛と性と存在の話

いつも思います。相対する人を「個人」として認識したいのに
枠組みを作って接してしまう。男だとか女だとか年上とか年下とか既婚とか。
そんな「無意識下でのステレオタイプ」を取り除きたいなと常々思うこの頃です。

昨今のセクシャルマイノリティの話についても
本書を読んで改めて強くその必要性を感じました。

あわせて、ヘテロセクシャルと言われる、セクシャルマジョリティにこそ、
自身も含めその個人の愛と性を深掘りして考えるべきだと、そう思いました。

けれど、愛と性の話をオープンにすることは少ないと思います。
私もそうです。
でも、そこにきっとその人のその人たる所以がある気がします。
フラットに個人を語るものとしての性と愛があってもいいのではと思います。


本書を読んでいて、自分の中での衝撃だったのは
ヘテロセクシャルこそが相手を理解するのが難しいという事実
なぜなら、あまりにも身体的にも精神的にも機能的にも別の生物だから。

例えば、女性には生理周期というものがあり、
それに伴い同年代の女性の中で共通した悩み事が発生する。
それは、ある意味、「女性」を一括りにしてくれる団結の所以になる事象で
また、それが大人と子供の区切りになること。

そういった事象があり、
多義的な意味での、女性らしさというものが生まれていく。

また、それに対応する形で男性が「女性でないもの」として定義されていく。

そのように違う機能、違う事象を乗り越えていた別の生き物が
恋愛し、子供を育てようとする。
それは難易度が高い。なぜなら相手がなぜそう感じるのかが想像できないから。
それは、個人としてだけでなく、機能的な差が生んでいるものもあるだろう。と。

また、そのように女性と愛対するものとして男性が存在するときに
男女という大カテゴリを前提として、集団にラベルが貼られていく。
例えば、草食系男子、港区女子、〇〇男子、〇〇女子というようなものです。

このラベルとカテゴリが、個人の事象を抽象化してしまう。
本来、個人に向けて行うべき告発や告訴も、集団への告発になってしまう。
「あの人がこう」ではなく、「男性ってこう、女性ってこう」って。

それは、もしかしたら罪のない誰かの積極性を殺し、石にしてしまうリスクもある
誰かのように、告発されないように、
そんな男性、そんな女性に思われないような行動を強要する。

そうして、身動きが取れなくなっていく。


本書の中で、
「セクシャルマジョリティは、セクシャルマイノリティに自己投影をして
応援したり、支援したいと思う」
というような記載がありました。
個人としては、思い当たる節があります。
その通りだと思う。

セクシャルマジョリティも本来はもっと多様な性と愛の形がある。
多様性を認めようといっているのはその人たちのためじゃない。
自分のため。
自分の性と愛を守るため。ひいては尊厳を守るため。

私も含め、自分の尊厳のために、自分の性と愛を語れるくらい
自分のことをゆるしてあげてもいいのではないかと思います。

他人の尊厳を守ることはすごく大切だと私は思っています。
けれど、あまりに気を使いすぎて、自分のことを大事にできないのは話が違う
他人の尊厳と同じくらいに自分の尊厳を大切に。

そして、自分のために、多様な性と愛を認める
そのためにも、いろんなフィルターを取っ払って
知ったかぶりをしない人でありたいなと思う今日この頃です。


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