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#86 恋と禁忌の述語論理

新年の挨拶

みなさま、あけましておめでとうございます。
年始早々色々なことが起こっておりますが、
みなさまが無事に過ごしていることを祈る限りです。

余談ですが、親族で上越に住んでいるものがおり、
その際はすごくヒヤヒヤしながら、ニュースを追っていました。
幸いにも無事でした。

個人的な感覚として、その地を訪れたことがあるとか、
その地に関わりがある人と知り合うとか、そういう行為を繰り返して
世界が広がる感覚があります。

もちろん書籍とかそういうもので広がる世界もあると思うんですが
それとは別にもっとぬるっとした生々しい世界の広がりは
人とか感覚の解釈が間に入って然るべきなのかなと。そう思います。

本の話

そんな話をしながら、私は相変わらず年末年始は読書の時間でした。
※帰省とかでゆっくり本読めるのでね。

本書は、理系出身×ミステリ好きの私には
なんてピッタリ!と思いながら読み進めた本でした。

本書で初めて知ったことは「数理論理学」です。
これがまたすっごく面白い。(勿論書籍としても素晴らしい作品でした。)

数理論理学とは??

数学理論を展開する際にその骨格となる論理の構造を研究する分野」を指す」

wikipedia

とのことです。これだけでは「はあ、、ん??」ですよね。

私なりの解釈を示すと、記号の式を使って
「論理的である」ということを示す、いわゆる証明のようなものであると理解しています。

面白かった例を少し
人間が論理的に考えるのに必要な記号は4つだけらしいです。それが
「∧(かつ)」
「∨(または)」
「⇒(ならば)」
「¬(否定)」
だそうです。詳しくはこのリンクもご参照ください。

え?ってなりません?
私はなりました。もう少しあるのでは?と。

例えば、「だから」とかは?入ってないのでは?って思うじゃないですか。
例文を使って説明します。
私は、「大人だからアルコールを飲める」という文は下記のように分けられます。
「私は大人である。」
「大人であればアルコールを飲める。」

ということなのです。
なので、この論理があることで、最小単位で、論理を検討することができます。

最小単位で論理を検討することに何の意味があるの?という話なのですが
ここからは私の持論も入りますが、思考というのには非常にバイアスが入ります。
いかに論理的に考えようとしても、主観を取り除くことは不可能だと思います。

そういう際に、最小単位で考えることは非常に重要だと思います。

そうすることで、少しだけ客観的に、メタに自分の思考を検討できる。
非認知バイアスを取り除ける可能性があるのではと思います。

感想とまとめ

何だか本の話より数理論理学の話がメインになってしまいましたが
すごく本も面白かったです。
頭の回転が追いつかなったですが、、

ただ、この本と数理論理学を知って思ったことは
上記にまとめたことがメインです。
論理的って何だろうって考えました。

自分の言葉で説明すると
論理的=思考のステップがクリアで納得性が高いこと
です。私の中では。

そういう意味では、論理的であるということをクリアに説明できることは論理的である上ですごく重要だと思っています。

合わせて
こういう過去の方々の積み上げてきたものを
現代人が使いこなせていない気もして、勿体無いなと感じます。

なんか過去にあるのに、ない前提で作り直して、
最初に作ったよ!みたいなものが世の中にありそうですよね。

元祖〇〇ラーメン!とか。知らんけど。

配信された関ジャニを聴いているせいで関西弁になってしまいました。

余談が長くなったきたので、この辺で終わりにします。
2024年もよろしくお願いします!


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