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名前に呪われたわたしとあなたで、いつかピザを焼きたい

依存して、行動を制限され、思考を狭められ、窒息しそうになって。だけど離れられなくて。わたしには、あなたしかいないから。

わたしとわたしについたLGBTQ+(の中のアセクシャル)という名前は、そんなズブズブの恋愛みたいな関係を数年にわたって繰り広げてきた。

名前と程よい距離で付き合うって、とってもむずかしい。
気づけばわたしは、名前がないと存在できなくなっていた。

そこに至るまでを「名前に呪われた」日々と呼び、2022春から現在まで、どうして呪われちゃったのかを探求している。
ようやく最近、「わたし」を取り戻し始めたところ。

探求してみてこれまでにわかったこと。
内側に言葉を増やしていくのはどうですか、という提案。
呪いから抜け出したら抜け出したで、なぜかしてしまう遠慮について。

ひとつの区切りとして、そんなことを書いてみる。
祈りと嘆き、どちらも込めながら。




名前の呪い


名前に呪われるって、具体的にどんなことが起きたの?
何があったから、「わたし」を取り戻し始めたの?

そんな「?」がぎゅぎゅっと濃縮されているのが、
こちらの「名前の呪い探求マップ ver2 」。

内容の重さを微塵も感じさせないポップな見た目がお気に入り。
有機的な生き物 (友人がそう言ってくれた) みたいでかわいい。

隅から隅まで見ていると時間がかかるのでかいつまんでマップの中身を解説すると、すべては左側にある黒い六角形「自分の困難を表す言語がほしい」から始まる。自分の困難を表す言語と聞いて、あなたはどんな言葉を浮かべるだろうか。

わたしにとっては、自分の身に起きていることを誰かに伝え、確かにここにわたしが存在していることを信じてもらうための言葉だった。

アセクシャルという名前を知るまで、「普通の恋愛ができない」「性行為ができない」など、自分のことをずっと否定形で表してきた。それ以外の言葉が見つからなかったから。できて当然だと思われていることができない自分に大混乱、大困惑。誰かに大丈夫だよ変じゃないよって言ってほしい。だけど説明しようとするといちいち自分を否定しなきゃいけなくて、なんだか罪を告白しているみたいで声がすぼむ。

それに何より、伝えたところでわたしの言葉は信じてもらえないだろう、と思っていた。誰よりもまずわたしが、わたしの存在を信じられなかったから。時代が違ったら、どこかの研究所に捕まって脳を調べられたり人体実験されてたりしたんだろうか、なんて考えていた。

そこに、救世主のように現れた名前。
わたしだけじゃなかった!と安心して、存在が保証されたような気がした。

それがどうして、名前に対して「出てけ!わたしの中からいなくなれ」と思う事態に発展してしまったのか。

そこに至るまでに、わたしがわたしのことを名前がないと存在できない透明人間だと思い込んでしまったこと、そして、他者から無害な宇宙人として線を引かれていると感じ続けたこと、の2つがある。

透明人間はまだわかる、でも無害な宇宙人って何?と思われたかもしれない。こういうことです、と一言で説明するのはむずかしいので、ひとつ例を出してみる。

自分はどうやら恋人らしいことはできないみたい、と話したら、こんな返しをしてくれる人にちらほら出会う。「わたしだって、好きでやってるわけじゃない。子供を作る目的以外で、必要だと感じたこともない。自分が身を置いている環境において、して当然と、するべきだと思ったから、やったんだ」。その人たちは、わたしの言葉にとても焦っているように見える。何言ってんの、そんなん言っちゃダメじゃん、みんな我慢してやってきたんだよって。

「普通」であらなければという圧に対してなんの違和感も持たない人もいれば、嫌だけど仕方ない、やらない以外に生きる術はないと自分に言い聞かせている人もいる。後者にとって、もしかするとわたしはずるくて、危険な存在。「普通」ではない在り方を口にしているのを見たら、必死に我慢して生きていた自分が否定されたような気持ちになってしまうのかもしれない。

焦っている相手にわたしがアセクシャルという名前を出すと、ちょっとほっとする(ように見える)。名前がついているあなたはこちらと同じ惑星にいないんだね、と線を引かれたように感じる。相手に害を与えない、宇宙人になったような気持ちになる。
何も考えずに普通に浸かっていられる安心を壊されたくないとか、わからない何かが目の前にいる(何が地雷になるかわからない)ことが不安で、正しい対処法を知りたいとか、そういうことが名前があれば解決するんだろうか。

でもわたしは、線を引かれて勝手に納得されたいわけではなく、「わたし」というひとりの人間で見られたかった。
アセクシャルと口に出すことで、アセクシャルという集団の中の一人として、ネットに載っている情報でわたしを説明されてしまうこともあった。名前が、わたしを邪魔している。でも、その威光を借りなければ透明人間になってしまう。

こうして、手放したいけど手放せない、名前の呪いに陥ってしまった。

呪われていた時のあらゆる葛藤は、右上らへんにある黒い六角形「切り離したい切り離せない」の周辺に散らばっている。ここら辺は、呪いのピーク。自己紹介が急にできなくなったり、LGBTQ+と名のつくもの、アセクシャルを自認している人の言葉はすべて目に入らないよう、番犬のように追い払っていた。名前との距離が近づくのも、同じ名前で違う定義を持っている人を見て居場所が揺らぐのも、嫌だったから。

でもそのすぐ右には、明るくてスッキリとした表情の青い六角形たちがいる。ここに並んでいるのは、「わたし」が「わたしにかかった呪い」を引き受け、自分を解放する言葉だ。全く同じ人間は存在しないとか、名前・他人にわたしを存在させてもらおうとしない!!!とか (ちなみに「人類史上初めての人間」という謎の一言は、後で登場します)。

もちろんこのbefore→afterには、間がある。
急に番犬から明るくスッキリになったわけではない。

ざっくり言うと、こんなことがあった:



「応答」に出会うまで


呪いの原因であるアセクシャルをどうにかコントロールしようとしていた時、名前の呪いはわたしがすっかり抱え込んでいて、探求対象として眺められる距離になかった。やるかやられるかの緊張関係だった。

少し距離を取れるようになったのは、アセクシャルを「ある日急にやってきた同居人」と捉えるようになってから。わたしたちの同居生活、うまくいってないよね〜どうにかしようとしてみたけど、無理っぽいわ。受け入れて、自分を丸ごと好きになるとか今のわたしには無理っぽい。考えてもどうにもならないなら、考えるのやめよ、と心の中の鬼軍曹を手放した。いったん保留、一時休戦という感じ。

そしたらどうにもならなくて苦しいことを、誰かに聞いてほしくなった。嘆きを口にしたらますますアセクシャルから逃れられなくなるとか、アセクシャルを受け入れられないわたしはどこにも居場所がないんじゃないかとか、そういう奥底に沈んだ"どうしようもないきもち"を迎えに行って、ままならないわたしを抱きしめてあげたくなった。

それで何をしたかというと、恋人という関係性になった途端にあるべき姿やするべきことが決まることへの違和感をとにかく詰め込んだ、架空のアプリをつくって展示した。衝動って、すごいパワー。

恋人になったら、どうして当人同士で決めてもいないことをやらなきゃいかないのか、できなければ、普通じゃないとなってしまうのか。疑問に思ってるのはわたしだけかもしれないけど、と恐る恐る差し出した。

そうしたら、意外と多くの人が、しかもわたしからしたら”普通の恋愛をしている”人が、これわかるなあ、と視点を重ねてくれて。これまで疑問に感じたことがなかったとしても、確かにどうしてこうなるんだろうね、と一緒に眺めてくれて。目から鱗がポロポロだった。

「恋人はこうあらなければ」に縛られているのが自分だけじゃないってことは、私たちが生きるこの社会に何か不具合があるのかもしれない。

それまで自分には欠陥がある、だから"普通"の恋愛ができないんだと唱えていたわたしが初めて、そもそも"普通"の恋愛ってなんだろう、それを、いったい誰から、どうして押し付けられてるんだろう、と問いを抱いたのがこの時だった。

それから、学術書やエッセイを読み漁った。大学でも、経済学部、法学部、文学部、教育学部、色々取った (学内の授業を基本なんでも取れる学部に所属しているよ)。

そうして出会ったものを繋げていって、呪いの一端を担う仕組みを知った。人が恋愛における「あるべき姿」を内面化し、恋愛→結婚→出産の流れが”普通”だと思い込み、そうしないと幸せになれないよ、と他人にも”普通”であることを"期待"する仕組み。ざっくりだけど、流れをまとめたものがこちら。

家族のあり方は、もっと言うなら生殖は、戦争で人手がもっと必要とか、税金を納める人口が足りないとか、経済的・政治的状況に応じて国家に管理されてきた。現代にも根付いている「出産は計画的に、子どもは二人が「ふつう」、避妊は主にコンドームで」というあり方も、実は1954年頃から60年代に行われた国の家族計画で定着したものらしい(企業と財団法人人口問題研究会、日本家族計画普及会が手を組み、従業員の妻をターゲットにした避妊と近代的合理的生活の指導が行われたんだって、なんだかゾゾっとするね)。国家の定めた「あるべき家族像」を自らの「選択」として内面化し、人から人に伝わるうちに、みんなの当たり前になっていった。これが天才的な発明で、そうなればもう、国家は何も手を加えなくても思うままに人が動いてくれるようになる。勝手に期待し合って。

(本当はもっといろんな要素があるけれど)そうやって出来上がった当たり前の中で生きていると、付き合い始めたらキスはもうしたのか、手は繋いだのか、と周囲が盛り上がるし、長く付き合っている2人を見たら結婚するんだろうな、と思ってしまう。夫婦には、「まだ」子どもいないの?と持つ前提で疑問が投げかけられる。自分の好きにさせてよ、と思うけれど、いいえと答える時に、謎の罪悪感を抱いてしまう。なんでそれが「当たり前」なの?とあるべき姿そのものを疑う発想はなかなか持てない。できて当たり前なことをできない自分は異常なんだろうか、と自分を責める方がずっと身近でお手軽だから

小説『犬のかたちをしているもの』の主人公は、選ばないではなく、自分は普通を選べない、と言っていた。

わたしが郁也に愛情を伝えたいなら、一番単純なのは「あなたを愛しているから結婚して、セックスして、子どもを産んで、二人で大切に育てていきましょう」なんだろうな。その一番シンプルで建設的で愛に満ち溢れている方法が、選べないから、わたしはなんとなく立ち止まったままになってるんだ。

高瀬隼子 犬のかたちをしているもの p82

普通を選べない、だけど普通になりたいから、わたしはわたしがアセクシャルであることを受け入れられないんだろうか。そうだとしたら、わたしって国家にとって都合のいい「普通」から弾き出されて、それでもそこにしがみつこうとする、めっちゃかわいそうなやつじゃん。国家だなんて話が壮大すぎるだろうと慄きながらも、自分をかわいそうだと思うことで少しホッとしているわたしがいた

あの時のわたしは、自分を責め続けるのはもうやめたくて、でもどうすれば抜け出せるのかわからなかった。
かわいそうな悲劇のヒロインになれば、この状況に”納得”できるし、代わりに責めるものも見つかる。自分のせいじゃないって思える。そりゃあ、飛びついてしまうよね。

だけどすぐに、また行き詰まった。
長い時間をかけてつくられた当たり前を塗り替えるなんて、わたしには絶対できない。他人の言葉や思想は、こちらが変えられるものじゃない。こんなんどうしようもないじゃん、わたし、呪われたままじゃん、とクサクサしはじめたのだ。

悲劇のヒロインは、今振り返ると、一時避難場所だった。
自分以外の何かに呪いの責任を(勝手に)分担してもらって、これまで全て自分に刺してきた矢印の何本かを、外側にくるりと向ける場所。
でも、当時のわたしにとってはそうではなくて。たぶん、終着地と思いたかった。悲劇のヒロインになれば楽になれる(=呪いから解放される)という心持ちだったから、結局ここにいても苦しいじゃないか!!と憤っていた。

憤りの矛先は「大人たち」にまで向かった。大学へ向かう途中の新幹線のホーム(新幹線で通ってた)で氷じゃらじゃらのドトールのソイラテをすすりながら、なんでこんな世界を大人たちは引き継いで来たんだろう、負の遺産でしかない、ひどすぎる、とぼやいたりもした。

自分ではどうしようもない、なんで他の人がどうにかしてくれなかったんだ、だから呪われたんだ、と先人たちから受けている恩恵も知らずに思う存分被害者になって。そこから、本当にどうしようもないんだろうか、わたしってそんなに無力なやつだったっけと思いはじめるのだけど、その変化をもたらした決定的な出来事はない。あの時いろんなことが同時に起こりすぎていて、それが重なって束になって矢印になったのだと思う。

その「いろんなこと」の1つに入っているであろう出来事がある。

2022年初夏、わたしは、当時家に住まわせてもらっていた祖母との同居生活に限界が来ていた。一緒に暮らしていて投げかけられる言葉第一位が結婚、その後に、女はこう、男はこうがつづく。「あるべき姿」の化身のような祖母。お互いの「幸せ」の定義が全く違うので、わたしはこういうことがしたいんだと伝えても、「そんな”普通”じゃない人生で、ほんとに幸せになれるの?」という疑問を呼び起こしてしまうらしかった。飲み込んだ言葉が内に溜まっていって、1ヶ月が経った頃には顔を合わせるのもつらくなってしまったのだけど、学問の力を借りながら事態は好転していく。

相手が口にする言葉の後ろに広がる構造を知って、そこで圧倒されて終わりではなくて、またその人に戻ってくる。わたしと祖母は違う当たり前を持っているのを前提に、「今、ここ」をどうするかを考え、試してみる。
そうやって、悲観する、のその先に進めた。

思えば、わたしはいつも「される」側に自分を置いて、いつか何かがわたしを解放してくれると期待していた。
でも自分を消し去らずに誰かと一緒にいることだって、自分が息をしやすい空間をつくっていくことだって、できる。「する」側になれる。
ジワっと体温が上がった気がした。

それと、どこかで「祖母の考えが間違っている、今はそんな時代じゃない」と思っていたけれど、この中にわたしの言葉はひとつもない。正しい、正しくないで物事を見ているとき、「わたしはどうしてそう思うのか」を示すのをサボりがちになる。世間や時代、周りの人を理由にして、正しさを押し通そうとしたり正しくなれない自分を嫌いになったりしていると、わたしはどんどん空っぽになっていく。誰かの言葉を借りて、それで自分を成り立たせようとするのはもうやめよう。

そんなこんなで、わたしは無力で言葉を持たないやつでいるのはやめた。

言葉を持ちはじめたら、名前がいないと生きていけないという思い込みが薄れて、これまで支配されるか支配するかだった名前と、はじめて向かい合って立った気がした。ふいに、呪い呪われる関係性を手放しても、わたしはきっと生きていけるな、と思った。

呪いから解放されたかったくせに、なぜ手放せなかったのか。呪われることがわたしを成り立たせる一部になってしまって、それなしに生きる自分が想像できなかったからだ。呪いから抜け出したいのか抜け出したくないのか、よくわからなくなってしまっていた。
裏を返せば、名前の呪いは、わたしにとって酸素マスク的存在だった。わたしは名前の呪いに生かされていた。渦中にいたあのときは、そんなこと絶対認めないだろうけど。

名前だろうが名前の呪いだろうが、わたしにはこれしかないと思い込んでいるものとのお別れはなかなか難しい。というより、無理にお別れしない方がいい。まだ必要なのに酸素マスクをとってしまったら、呼吸ができなくなってしまう。

酸素マスクを手放せないとき、何かに依存しないと生きられない弱いやつだと自分を責めるのではなく、ああいまのわたしにはこれが必要なんだな、と確認する方が気が楽になる。そうやって、自立せねばとはやる気持ちと付き合いながら、徐々に自発呼吸を取り戻していくのがよいのではないかな。

自分と誰かの間にあるものを捉え直すこと、自分の言葉で自分を伝えること。それを体験して、わたしの内側には血が通い、酸素が充満しはじめた。酸素マスクをはずして誰かとお話しすることも増えた。

空気がおいしくてスーハースーハーしていたら、自分を解放するための言葉が、するりと入ってきて。そのひとつが、「応答」だった。

そのとき手にしていた本は「責任の生成ー中動態と当事者研究」。初めて本屋で見かけたときは、分厚いしなんだか難しそうと思って手にとらなかった。だけどたまたま大学の図書館で再会して、これも何かのご縁かなと開いたら、なんと読んで早々5ページ目で、わたしは電撃に打たれた。

「応答とは、自分に向けられた行為や、自分が向かい合った出来事に、自分なりの仕方で応ずることだ」という文章で、わたしがずっと欲しかったもの、わたしがわたしにしなくちゃいけなかったこと、が急に目の前に降ってきたのだ。それがどういうことかを説明する前に、まずは本文を読んでもらいたい。

責任(レスポンシビリティ)と応答(レスポンス)は結びついている。
応答とはなんだろうか。それは返事をすることだが、返事をするといっても応答において大切なのは、その人が、自分に向けられた行為や、自分が向かい合った出来事に、自分なりの仕方で応ずることである。
自分なりの仕方で、というところが大切であって、決まりきった自動的な返事しかできていないのならば、それは応答ではなくて反応になってしまう。

哲学者ハンナ・アレントはそれぞれの人間が自分なりの仕方で応答する可能性を人間の「複数性」と呼び、それを人間の条件の一つに数えた。
アレントの言う複数性とは単に個体数が二つ以上であるという意味ではない。たとえばある生物の個体数がどれほど多かろうとも、同じ刺激に対して同じ反応しか返さないのであれば、そこにはアレントの言う複数性は存在しない。

自分に向けられた行為や自分が向かい合った出来事にうまく応答できないとき、人は苦しさを感じる。それが常態化すれば苦しさは堪え難いものになる。なぜならば、うまく応答できないままでいることは、人間の複数性にうまく参加できていないことを意味するからである。複数性に参加できていないとき、その人は相手にされなくなる。相手にされないとは、周囲の者たちから、応答するべき相手と見なされないということ、自分たちに似通った、同等の者と見なされないということである

そのときそこに現れているのは、応答のない、ただの反応に満たされた空間であろう。

國分功一郎・熊谷晋一郎『責任の生成ー中動態と当事者研究』p5-6


これを読んで、わたしは、自分の身に起きていることに「アセクシャル」という名前をつけたことで、長い間自分に応答する機会を失ってしまったんだと思った。

解説ページに書かれている名前の定義が全て説明してくれると思い、それ以上考えようとしなかった。それは、國分さんの言葉で言うなら、決まりきった自動的な「反応」になるだろう。自分に自分で「反応」し、周囲も名前のついたわたしに「反応」する。誰も、わたしに「応答」しない。

応答するべき相手と見なされない、自分たちに似通った、同等の者と見なされないというのは、アセクシャルであると打ち明けた相手に線を引かれた時に感じていたことそのものだった。

わたしはずっと誰かに「応答」してほしかった。
わたしはずっと自分に「応答」してこなかった。
わたしはずっと名前に、誰かに、存在させてもらおうとしていた。

それがわかったら、不思議なことに、わたしを苦しめていたのはわたしだったんだ、とすんなり思えたのだ。名前の呪いに対して手放した責任が、戻ってきた。おかえり。

こうしてわたしは、透明人間から、無害な宇宙人から、自分のことは自分の言葉で表すひとりの人間を目指して、新たな言語を獲得するための応答の旅に出た。



内側に言葉を集める


旅は、内側に言葉を集めることから始まった。

自分の存在を自分が認識できていないとき、人は、外から言葉を持ってきてその言葉に身を委ねてしまう。輪郭は保たれているかもしれないけど、中身は空っぽ。名前や他者からの承認がないと、簡単に透明人間に戻ってしまう。

だから、外側を強化するのはいったんお休みして、名前でも、他者の言葉でもない、自分で自分を表す言葉を持とうと思った。自分のことを話すときには、「アセクシャルだから」ではなくて、「わたしがこういう人間だから」と言うようになった。

アセクシャルは「他者に対して性的欲求を抱くことが少ない、またはまったく抱くことがないセクシャリティ(ideasforgood)」と説明されていることが多い。けれど、これは複数の人の重なる部分で、重ならない、それぞれにしかない部分も言葉になっていないだけであるのだと思う。そうじゃないと、アセクシャルを自認した人はみな同じことに対して同じ反応を示す、コピーアンドペースト集団みたいになっちゃう。

アセクシャルでいるって、どんな感じ?と聞けば、きっと十人十色の返事が返ってくる。ちなみにわたしは、「親密さと性欲が連動しない」「心の距離と体の距離は別々のもので、その2つがくっついている関係性は居心地が悪い」なんて、今のところは言っている。

わたしがわたしに言葉を尽くすことを少しずつ続けていると、わたしがわたしに「応答」していると、「名前に、誰かに存在させてもらわなければ」という思い込みが少しずつ薄くなってくる。

こんなところがわたしにあってさ。
それを世の中ではアセクシャルというのなら、そうなんだろうね、という感じの心持ちで生きるようになった。軽やか〜〜!



人類史上初のわたしとそもそも論


外側の言葉に依存しない、とは言っても、やっぱり誰かにわたしがいることを認識してもらえたら嬉しいし、それを人とし合うことなく生きていくことはできないのかも、なんて思っている。まずはわたしがわたしを存在させて、そのうえで、誰かと互いを存在させ合うくらいがちょうどよさそう。

でもその「誰かと互いを存在させ合う」が、なかなかうまくいかない。

名前なしでは、悲しいけれどわたしやあなたの存在がないことにされることはある。名前って、やっぱり「いること」の可視化には手っ取り早い、威厳のあるやつなのだ。さらに悲しいことに、同じ名前のついた人から、あなたのそれはアセクシャルじゃないよ、と言われてしまうことも。”普通”に追われた先で、居場所を守るために、今度はアセクシャルの”普通”で縛り合ってしまう。

そんな時、足元がぐらついて、透明人間に戻ってしまいそうになる前に、どんどん唱えていきたい言葉が2つある。

その1。

「わたしは、人類史上初の人間。これまでもこれからも、そして今も、誰ひとりわたしと同じ人間はこの世に存在しない」

所属している研究室の教授のお言葉で、これを聞いたときもうわたしはジーンときてしまった。人類史上初って、言われてみればそうなんだけど、すごくないか。わたしに見えている景色は、長い長い歴史の中でこれまで誰もみたことのないもの。そう思えば、”みんな”には見えなくて、”わたし”には見えるものがあるのは、当然。例えそこに同じ名前がついていたとしても、中身は少しずつ違っているはず。

まずは、「そこにあること」を自分が認識するところから。

わたしが感じたことを、何かの基準に照らし合わせる前に、いますねえありますねえと認識してみる。よし、当てはまる名前存在してるからあるな、周りと同じだからあるな、じゃなくて。そして、すぐに名前をつけようとせず、それを観察してみる。ときに、誰かと一緒に眺めてみる。あれは何?って聞いてもらったり、あなたからはどう見える?って聞いてみたり。

そうやって、人類史上初のわたしがそれぞれ感じるものを、冒険家マインドで大事にコレクションしていきたいなと思う。人類史上初のあなたの目に映るものに、出会いたいなと思う。

その2

「あれちょっと待てよ、そもそも〜」

文学者の荒井祐樹さんは著書『まとまらない言葉を生きる』で、「ぼくたちは、もう少し「そもそも論」をした方が良いと思う(p148)」と書かれていた。

「そもそも論」は、使い方次第で毒にも薬にもなる。「そもそも生産性のない人に税金を投入するのは〜」みたいに使われると、社会がこわばって息苦しくなる。でも、「そもそも生産性って何だよ!」みたいに使えると、社会のこわばりを問い直すきっかけになる。
誰かを排除するためじゃなくて、誰もが社会にいられるように、「そもそも〜」と言えた方が良い。

荒井祐樹『まとまらない言葉を生きる』p150

最後の一文は、主語を「わたし」にしても成り立つ。わたしを排除するためじゃなくて、わたしが社会にいられるように、「そもそも〜」と言えた方が良い。

わたしを排除する「そもそも」は、たとえば「そもそもわたしが普通じゃないのがいけないんだ」。それよりも、「あれ待てよ、そもそも何でそう思っちゃうんだろう」「そもそも、アセクシャルの定義って1つじゃなきゃいけないのか?」の方が、健康的な風をまとっている感じがする。

「そもそも」を問うと、「わたし」の抱えるものは「わたしたち」のものになり、それに対して何ができるのか、主語はまた「わたし」に戻ってくる。戻ってきたときの「わたし」は、うまく言えないけれどすっきりとしていて、内側から光を発しているような、そんな気がする。

自分を存在させる人類史上初と、すべてを背負いすぎないそもそも論。
この2つはわたしにとってのお守り。武器よりもお守りを手にしている自分の方が、なんだかありたい姿でいられている。

武器は重たくて肩が凝るし、誰かを倒さないと自分を守れない。必死に闘っていると、傷ついている自分にもあまり気づかないし、傷を認めようともしない。どんどんボロボロになってしまう。

今は、内側から創り出されたバリアーを身にまとって、ベイマックスのようにポヨーンと悪意を跳ね返している感じ。

ついこの前、首相とその秘書官から発せられた言葉たちを目にした時にも、その言葉に込められた悪意を「普通じゃないダメなわたし」を育てる養分として取り込むことなく、初めてひどいなあと真っ当に怒った。前ほど揺らぎはしないけれど、やっぱり悲しい気持ちになったので、悲しい、と口に出した。

自分を大事にできている。とても嬉しい。



ピザパーティーを楽しみに


さっき打ち込んだとても嬉しい、を見ながら、大丈夫かな、これは消した方がいいかな、とよくわからない何かを心配しているわたしがいるよ、という話をして、このnoteは終わりにします。

・・・

この世界は、言葉を持たない人同士が手を取り合わないようにうまくできているなあと思う。

「あなたが生きづらいのは、あなたがあなたに生まれたせいだよ」と囁く自己責任が充満する場所では、苦しんでいる人と、その苦しみから抜け出しつつある人は、簡単に分断される。誰も助けてくれなければ自力で「頑張って」抜け出すしかなく、抜け出せた人は勝ち組、未だ抜け出せていない人は力を持たない負け組という理論がまかり通ってしまうから。誰かの喜びが、誰かを惨めにしてしまう。

実際、ほんの少し前までわたしは、他人の経験談を「成功体験」に脳内変換し、成功を見せつけてくるなと拒絶し、そっち側にいけていいなと羨み、いつまでも抜け出せない弱い自分への嫌悪を強化していた。

その記憶があるからか、わたしは名前の呪いから抜け出しつつあることを誰かに話したり書いたりするとき、どこか純粋な喜びを込めないように注意深くなっている気がする。苦しんでいる人がいるのにわたしだけ楽になってごめんね、と誰も幸せにならない遠慮がむくむくと頭をもたげそうになる。

名前に呪われてハッピーな人はいないはずなのに、すでに抜け出した人の言葉は、それを必要としている人に届かない。なんだか、言葉が空回り、滑り落ちているみたい。

そうやって内側で言葉が空回りしていると、わたしたちを呪っている外側のものにいつまでも目が行かない。外側に対して声を上げる人は、内側からも攻撃されたり、無視されたりしてしまう。声は消えて、誰かが呪われる社会は、いつまでもあり続ける。おかしな話だ。

めでたいことは大きな声でめでたいと言えたらいいなと思う。
同じように名前の呪いと生きてきた人と、お祝いパーティー (付き合ってきた名前を紙に書いてそれを燃やした火でピザを焼く会をいつかしたいとわりと本気で妄想している)も開きたい。

だから、あなたをざわつかせてしまうかもしれないけど、
あなたが呪われたのはあなたが弱いからじゃないよ、と伝えたい。
無責任に、きっと大丈夫だよ、と言いたい。
いつかピザ、一緒に食べようよ。

遠くて高いところから来いよと手招きするんじゃなくて、そっと招待状をポストに投函するような、そんな言葉を、わたしは届けられただろうか。

すべての人が、「ひとりの人間」で生きられますように。
探求は続く。



参考文献(登場順):
●荻野美穂,2010,「特集歴史の中の「少子化」――どのようにして子どもは「つくる」ものになったのか」『比較家族史研究』24: 9-20.
●犬のかたちをしているもの(高瀬隼子、2022年8月、集英社)
●〈責任〉の生成ー中動態と当事者研究(國分功一郎・熊谷晋一郎、2020年12月、新曜社)
●まとまらない言葉を生きる(荒井祐樹、2021年5月、柏書房)

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