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一生アボカドが嫌いかなんて、わからない。食べられるようになるのかも、わからない
まとまった休みを取って、場所を移動する。すると不思議、問いがポッと浮かんでくる。それについて、歩きながら電車に乗りながらカフェでケーキを食べながら考えるのがマイルーティーン。
休暇はいつも『?』『!』とともに。
そして、ケーキの食べすぎによる胃もたれとともに。
今回浮かんできたのは、名前をつけることと、フリーダムについて。
安倍晴明とアボカドの呪い
1年ほど前から、自分のことをアセクシャルかもしれないと思っている。
そして、それを自分の一部として他人にも話してきた。
アセクシャルは、わたしは一体なんなんだ、と混乱していた時に現れてAでもBでもない選択肢をくれた、新しい言葉。
だけど、それを口にすればするほど、それが悪霊を縛るお札みたいになって体にぎゅうぎゅうと巻きついているような感じがする。
誰かこの世に同じことを考えている研究者とかいないかな、と調べてヒットしたのがまさかの安倍晴明。「この世で一番短い呪とは、名だ」とは、小説「陰陽師」の中での彼の言葉。
名=呪い?どういうこと?
例えばわたしが、アボガドが苦手だなと思ったとする。そして『苦手な食べ物はアボカドです』と自己紹介すると、それが自分につけた名前になる。
一旦名前を口にすると、しかも他者に共有してしまうと、なんとなく今日はトライしてみようかという気分になっても、わさび醤油でならいけそうでも、試すことをためらう。なぜなら、苦手なことがわたしのアイデンティティーだから。
周りも、無理に勧めたりしない。
「苦手って、言ってたもんね!」
こうしてアボカドとの距離は広がり、気づけば、わたしはアボカドが食べられないことに基づいて、行動するようになっている。
あらゆる選択肢や可能性を、「わたしは●●だから」を理由に遠ざける。名前によって行動や言動が縛られる、とはこういうこと。これを、安倍晴明は呪いと言ったのだった。
ならば名前をべりっと剥がして、「透明」のままでいたらいいのかな。でも名前に出会って、心底ホッとしたし嬉しかったのは嘘じゃないんだよな。
その気持ちまでなかったことにするのは、悲しいな。
そんなことを考えていたとき、「断片的なものの社会学」の一文がしっくりきた。ラベルを捨てて「無徴」になる、ということは、自らの出自を否定して生きる、ということである、と。さらにその先には、こんな文章が。
自分の出身を隠して生きる、ということは、それ自体でとても辛いことだし、そもそもそれ自体が、つねに「自分とは誰だろう」という問いを絶え間なく引き起こす契機になるだろう。一度貼られたラベルを、簡単に剥がすことはできないのだ。(・・・)差別を乗り越える、ということは、ラベルについて「知らないふりをする」ということではなく、「ラベルとともに生きる」ということなのだ。
p.172 「普通であることへの意志」より 著:岸政彦
ともに生きるというのは、つまり、ラベルのついた自分をまるごと好きでいるということだと解釈した。
どうしたら、まるごと好きになれるのか。
どうしたら、うまく付き合えるのか。
呪いのようで魔法のような、自分の一部でもある「名前」と。
それがここ半年のわたしの問いで、今回のお休みのテーマ。
2つのフリーダム
長い間考えていたわりに、結論はとってもシンプル。
名前に、(今のわたし)をつけること。
アボカドが苦手(今のわたし)
インスタのpronounsはhe/his(今のわたし)
料理が苦痛(今のわたし)
アセクシャルっぽい(今のわたし)
わたしは●●、それはあくまで『いま』の話。
ずっとアボカドを食べられないとは限らないし、その逆も然り。いつか食べられるようになるかもわからない。
だから、(今のわたし)をつけて、未知は未知のままにしておくことにした。名前によって、それを口にすることによって、選択肢を狭めてしまわないように。のまれることなく、自分でつけた名前と共存できるように。
この考えに至った背景には、たまたま手にした本「オードリー・タン 自由への手紙」に登場するネガティブフリーダムとポジティブフリーダムの存在がある。
〇 ネガティブ・フリーダム
既存のルールや常識、これまで囚われていたことから解放され、自由になること
〇 ポジティブ・フリーダム
自分を自分の手で解放する/自分だけでなく他の人も自由にしてあげること
新たな名前を知って(一旦は)既存の常識から解放されること。これってネガティブフリーダムなのか。
じゃあ自分を自分の手で解放するにはどうしたらいいのかな。
考えて出てきたのが、(今のわたし)だった。
こうやって、出会うことで見える範囲がワーッと広がると、名前は魔法でもあると実感する。さんざん呪いと言っておいてなんだけど、すべては捉え方次第。
危険な枠
これから大事にしたいのは、自分にも他者にも枠を押し付けないこと。
今を、そのまま認識する。とくに他者に対して、変わる/変わらないを勝手に決めない。わたしの言葉は、誰かにとっての呪いになりうる。
そんなことを言いつつも、ついつい自分に変化を期待してしまう。
このまま変わらないのでは?と不安になる。矛盾だらけだ。
それは、もしかしたら、わたしがどう考えようが、誰と出会おうが、どうにもならないことなのかもしれない。だけど、まだ20年ちょいしか生きていない今の私にできるのは、未来に続く道を少なくとも閉ざさないこと。呪いにかかって枠から出ないまま、手が届くかもしれない選択肢を羨むことはしたくない。自分にも誰かにも期待していたい。
だから、今のわたし、をつけて、できるだけなめらかな「わたし」で、見て、人と出会い、話をする。それがやりたいこと。
こうして書いていることも、今のわたしの頭の中。もしかしたら明日にはアップデートされているかも。主語がわたしなら、なんでもいいや。
最後に、書いて思ったこと
アセクシャルは、他者がいてこそ存在する言葉。もしこの世界にわたし1人だったら、そんなこと気づかぬまま生きているはずだもの。だから、枠を自分につけずに生きてみる、の先にあるのは、誰かと一緒にいるために、打ち明けて、話をすること。その時は、勇気を出せますように。今は考えるだけで胃がキリキリしちゃうけどね。
そしてそして、ここに書かれていることは、あくまでわたしが捉えている「アセクシャル」という名前との付き合い方についてです。解釈は人それぞれ。#アセクシャルでnoteを覗いてみるのもおすすめ。
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