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博物館に行くと自分の無学がわかる

先日休みに、西安歴史博物館に赴いた。
秦の時代と唐の時代の出土品や、当時の調度品を模したもの、ジオラマ等見学すべきところに事欠かなく、
また博物館自体も広漠としていた。とにかくコンテンツが多い充実した博物館だったのだ。

私はこの手の見学は自分のペースで回りたいので、あまりキュレーターの説明を依頼しない。
さらっと流して見るかと思えば、同じものの前でひとしきり立ち止まっているタイプなのだ。

だからまあ、今回も、と深く考えずにずんずん展示を見進めていた。

しかし、ここは中国なので日本と勝手がちがう。展示物の目立つ説明は全て中文だし、英語の説明がある下の方は、他の見物客で隠されていた。
やっとのことで英語の看板にたどり着いても、人の流れのプレッシャーから落ち着いてみることができなかった。

そのとき、ふと思ったのだ。
もしかして、博物館は展示物を見て展示物を楽しむところではないのだと。

つまりは博物館は展示物を見て、その背景にある歴史や文化、風俗を感じて楽しむものだったのだ。

だから当時のことをよく学んでいない限り、文字を読まなければ、説明を聞かなければ博物館の醍醐味は味わえないのだ。

そもそも高校1年以降世界史を学ぶことはなく、たいして歴史に関する興味もない私が中国のシルクロード史など知る由もない。秦には始皇帝がいて、唐には遣唐使など日本との交易があった程度の認識で、博物館をひとりで回ってもそれは、まさに豚に真珠なのだった。

もちろん、当時の技術力を想像して、その技量に舌を巻くことは私にだってできる。しかし、それでは、世界のどの博物館に行っても感想は同じになってしまうのだ。

あゝ恥ずかしい。

これほど自分の無学を恨んだことはない。途中から心で泣いていた。
ある時は他の客がオーダーしたノリノリの学生アルバイトの解説員のあとをつけ、説明をきいていた。彼のどこがのりのりかというと、彼は説明が終わると必ず大きめの伊達眼鏡を外し、「何か質問は?」と聞く。そしてひとしきり質問に答えると、「じゃあ、次!」といってまた伊達眼鏡をかけるのだ。そのルーティン化した仕草が面白く、展示よりも魅入ってしまったかもしれない。

なんとか、全ての展示を楽しんだところでかなしみの博物館は終了。部屋に帰ってからせめてもの、と史実を調べ始めたのだった。

そして次に行く博物館は絶対に音声案内を頼もうと決心したのだった。

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