閉鎖的空間。

 私は閉鎖的な空間に生きている。それは、物理的でもあるし、精神的でもある。息苦しく、独りで抱えるには余りにも無謀な空間で、私は過ごさなければならない。

 閉鎖的な空間、と既存の存在の様に始めたが、おそらく、それは昔は無かったはずだ。少なくとも、私がまだ子供の頃、物心つかずに世界をありのまま見れていた頃は、とても広く開放的で、何処までも続いているように思っていたのだ。
 それが気が付けば、私は世界に鍵をかけていた。何かから逃げるように、何かを失う事を恐れるようにして、閉鎖的な空間を作り上げ、自分の心地よい方へと流れるようにして、ふと周りを見回すと、何もない場所に独り。
 寂しい。だが、その寂しさはとても薄く、手触りは柔らかい。鋭く、刺すような寂しさはやってこない。私にとって心をえぐられる瞬間は、何かを失う時だ。それは居場所であったり、友人であったり、立場であったり、何か大切な宝物であったり。
 閉鎖的な空間に独りでいると、何かを失うことは無い。もちろん、何かを得る事も無くなるが、そんな一時の感情の高ぶりを求め、やがてやってくる悲しみに沈む恐怖に怯えなければならない事を思えば、代償は安い。

 必ず、世の中に存在する物はいつか無くなる。私という存在もその一つだ。

 だから私は文章を書く。無くなってしまう事を恐れ、何か私が存在していた証を残そうと足掻く。
 有益な情報を誰かの為に発信するわけでも、心躍るストーリーを提供するわけでも、慰めになるわけでもない。
 私は、私の為に書く。そうすることで私は確かに存在していた事になる。それが、唯一私の寂しさを紛らわしてくれる。
 インターネットは、実に便利な閉鎖空間だ。モニターを越えればそこに人間はいる。だが、モニターが私と貴方の距離を確実に隔ててくれる。私は数字として貴方を認識できるが、貴方の存在を明確に刻めるわけではない。貴方も、私と言う文章を認識できるが、私の存在を実感することは無い。だが、私は確かにこうして文章を書き、貴方はそれを読んでいる。

 私はいつか死ぬ。寂しく死ぬ。だからこそ、私は書く。

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