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人類救済学園 第捌話 「それはなんだッ!」 ⅱ

前回

ⅱ.

 入学回廊の上には、巨大な講堂が浮かんでいた。間近で見るそれは、まるで空を覆って迫りくる、漆黒の吊り天井を思わせた。

 非常識なまでの圧迫感。それを目の当たりにして、櫻坊はごくりと唾を飲みこむ。この巨大な闇が落ちてくれば、なすすべもなく押し潰されることになるだろう。あの巨大で壮麗な校舎が、あっさりと崩れさった光景を思い浮かべ……櫻は、恐怖した。

 ちらりと鳳凰丸を見る。その制服は血で真っ赤に染まっている。その髪は、血を使ってオールバックに撫でつけられている。その目は鋭く険しく、講堂を見あげている。

 櫻は思った。この人は、なにか雰囲気が変わってしまったな、と。

 いや、と否定するように櫻は首を振った。変わってしまって当然じゃないか。だってそうだろう……こんなことになってしまった。こんなにも悲惨な状況になってしまったんだから……。

 風紀委員の皆に、鳳凰丸が語った夢を櫻はよく覚えている。それは輝かしく、美しい未来だった。希望に満ち溢れていた。しかし今の状況は……闇、そして絶望。暗く沈んでいる。あの輝かしさからは、あまりにも遠い……。

 櫻もまた講堂を見あげた。その講堂から、ひらりと、宙を滑るように少女が舞い降りてくる。竹刀を持ったその少女は、鳳凰丸の前に音もなく着地する。

「講堂の中には誰もいない」

 と、少女は……阿修羅は言った。

「やはり副会長は、入学回廊のなかにいるのだろう」

 鳳凰丸はうなずく。

「……行こう」

 鳳凰丸は入学回廊の入り口を見た。以前は白亜の空間だったその場所に、今あるのは虚無のような闇だった。

「…………」

 鳳凰丸は無言で中へと入っていく。並ぶように阿修羅。スキップするように神峯が続く。

「…………!」

 櫻は息を飲んだ。暗黒。まっとうき暗闇。その闇の回廊は、まっすぐに櫻の退学へと続いている……そんな気がした。恐怖でガクガクと膝が笑った。

『どうしました? わたしたちも行きましょう』

 アミュレットが促す。そうだ……と櫻はうなずく。そうだ。しっかりしろ、櫻坊。その頬を冷たい汗が伝った。だからなんだ、ともう一度己を鼓舞する。

 俺は一身を捧げるのだ。
 他の皆のように……この、俺も!

 櫻は駆けだした。

 鳳凰丸は闇のなか、入学回廊をまっすぐに、迷うことなく歩いていく。

 鳳凰丸には確信があった。なぜかはわからない。でも、間違いないと確信していた。救世とはじめて出会ったあの場所……入学回廊の最奥で、彼はきっと、鳳凰丸を待っている。そしてその場所で……すべての決着がつくはずだ。

「君は、どうしたい」

 鳳凰丸にそう問うたのは、阿修羅だった。

「…………」

 鳳凰丸は無言で返す。

「君が望むなら……」

 阿修羅は言い切った。

「私なら、一瞬で終わらせることもできるが」

 相手があの救世だろうが、一瞬でケリをつけることができる……阿修羅は、言外にそう言っていた。鳳凰丸は視線を落とした。

「……ダメだ」

 鳳凰丸は呟くように言った。

「彼とは、僕が決着をつけなければダメなんだ」

「……そうか」

 阿修羅はそれ以上なにも言わなかった。その背後では九頭龍滝神峯が、冗談めかして櫻の胸元、アミュレットに囁きかけていた。

「なぁなぁ、中宮ちゃん」

『なんでしょう』

「一緒に力合わせて、副会長をボコろうぜ」

「……え?」

 櫻が驚いて声をあげた。『ふふ』闇のなか、アミュレットは明滅する。

『それは、いい考えですね……実にいい。でもその必要はありませんよ。わたしには、もっと良いアイディアがあるのですから……ふふふ』

 一行が進む先。

 入学回廊の最奥。

 そこから、仄かな輝きが見えてきた。それは近づくにつれ、どんどんと大きくなっていく。輝き……そう、それは確かに輝きではあった。しかし、輝きと呼ぶには奇妙でもあった。

 闇のなかに煌めく、黒き光。

 入学回廊の深奥で。
 その光に包まれて、少年は待っていた。

「……来たか、鳳凰丸」

 夢殿救世。

 光の源、それは救世の背後にある魔方陣……鳳凰丸が入学した際、彼の体を取り囲んでいた円形の紋様、そこから発せられている。

 救世は微笑んでいた。

「鳳凰丸……貴様が講堂から落ちたあの時。それでも俺は、貴様は退学なんかしていない、あの程度で消えるような男ではない……そう、信じていたよ」

「……黙れ!」

 鳳凰丸は遮るように手を振った。その顔が、怒りと悲しみ……様々な感情がないまぜとなって、歪んでいく。

「君は……自分が何をしたのかわかっているのか……わかったうえで、そうやって笑っているのか! なんなんだよ君は……なんなんだ、君……お前はぁッ!」

 救世は悲しげに、目をふせた。

「俺を退学させたくなったか、鳳凰丸」

「……ッ」

 鳳凰丸は奥歯を噛み締め、歩を進める。

「そういうことじゃないだろう……そうじゃないだろう……君が言わなければならないのは、そういうことではないだろうッ!」

「……すまなかった」

「君は……」鳳凰丸は手を伸ばす。「君は……!」救世の前へと「君はッ!」そして、その胸ぐらをつかんだ。

 誰も、それを止めなかった。

「僕の想いなんてどうでもいい……君の目的が何だろうが、そんなことどうでもいい……そういうことじゃないんだ。そうじゃない……君はどうして……なぜ!」

 鳳凰丸は、胸ぐらを掴んだままうつむき、床を見た。

「なぜ、笑っていられる……あんなことを……あんなことまでやって……。なぜ、生徒たちの悲鳴のなかで、僕だけを見つめるなんて……狂った真似が……できるんだ……」

 その体は震えていた。その目から、幾すじも涙がこぼれ、回廊の床へと落ちていった。

「おかしいだろう、君は……!」

「俺は……」

 救世は瞑目するように目をつむり……沈黙が流れた。

 その時、誰も気がついてはいなかった。闇のなか、蠢く者があることに。その者はすべてを嘲笑っていた。実に楽しげに、嗤っていた。誰も気がついてはいない。その事実に、誰も──。

「俺は、」

 救世は目をあけ、懐に手をいれた。そして取り出したのは……例の本だった。

「知ってしまったのだ。この学園の秘密を。それを知った以上、もはや、後戻りはできない……」

 鳳凰丸は顔をあげた。涙でぐしゃぐしゃになったその顔を、救世はじっと見つめた。──闇のなかで蠢く者は、本を見つめ、喜んでいた。

「地獄なのだよ……この学園は。皆を解放するためには、学園そのものを滅ぼすしかない……どう転んでも、なにをやろうと! 苦しみでしかないんだ……!」

 救世の顔が悲しみに歪んだ。──闇のなかで蠢く者は、笑いをこらえ、その肩は小刻みに震えている。

「ああ、鳳凰丸。貴様を騙し、貴様の計画を利用し、貴様を苦しめたことを……俺は心から後悔している。俺は話すべきだった。最初から、貴様にはすべてを……貴様なら、きっと理解してくれるはずだと俺は……」

「……違うだろ」

 鳳凰丸は遮るように言った。──闇のなかで蠢く者は、もう、こらえることができなかった。

「君が言うべきことは、そういうことじゃないだろう……!」

「鳳凰丸、俺は……ッ」

 そう言いかけた、救世の言葉が止まった。
 そして眉根を寄せた。

「なんだ……?」

 その目は、鳳凰丸の背後を見つめている。

「なん……だ……」

 その時、救世は見ていた。
 闇のなかに浮かびあがる、不気味な──。

 それは、悪意。

「なんだ……と……」

 救世は震える指で蠢く者を指さす。
 そして、悲鳴のような叫びをあげた。

「鳳凰丸、それはなんだッ!」

 鳳凰丸は振り返った。

 時が止まったような瞬間だった。

 闇のなか、阿修羅の目が驚愕に見開かれている。その美しい口がパクパクと動き、そこから、血が溢れだした。彼女の胸を貫くように刃が突きだし、そして、悪意は嘲笑うように吠えるのだった。

『ふふはははッ! 弱き者、汝の名は女ァーッ!』

 阿修羅の体が持ち上がっていく。鳳凰丸は、時が止まったようなその瞬間、阿修羅の瞳を見つめていた。阿修羅もまた、鳳凰丸を見つめていた。阿修羅は悲しそうな笑みを浮かべ。その口が動く。それは告げている。

 すまない。
 約束を守れなかった。

 阿修羅は……無造作に投げ捨てられた。その体から血が吹き出し、糸の切れた人形のように、くるくると宙を舞った。

「あ……ああああ……」

「そこをどけッ! 鳳凰丸ッ!」

 そう叫び、鳳凰丸を押し退け救世は駆けた。それはもはや、黒き風だ。抜刀、闇が閃く。鬼気迫る表情で悪意へと迫る。刹那。

「ぐっ……!」

 その顔が、苦悶に歪んだ。その腹に……救世の刀よりも早く、鋭く、神速の前蹴りが突きささっていた。

『ふふふ……はははは!』

 救世の体はくの字のように折れ曲がり、吹き飛ぶ。壁に叩きつけられ、強固であるはずの入学回廊の壁が砕け散った。救世は床へと落ち……そのまま、動かなくなった。

 すべては、あまりにも唐突だった。

「お前……お前……」

 鳳凰丸が呆然と見つめる先。

 白目を剥いた櫻坊がいた。櫻の体はガクガクと震え、その上半身は九十度の角度で、のけ反るように後ろへ倒れる。

 その胸元、アミュレットが紫の輝きを放っていく。そして輝きのなか、浮上するようにアミュレットから伸びたのは腕だった。まず右腕。続いて左腕。腕はまるで、天上の存在に懇願するかのように、祈るように上へと伸ばされていく。そして頭。上半身。

 半跏思惟中宮。

『ああ……キミがいけないのですよ、鳳凰丸。キミがわたしの言うことを聞かないから、こうなってしまったのです……』

 紫の輝きに包まれながら、中宮は天を仰ぐ。

『あははは……ふふふふふ……』

 恍惚とした表情を浮かべ、朗々と言葉を紡ぎだす。『ああ……』それは祈りであり、呪いであった。

『王のこめかみをぐるりと囲う虚ろな王冠のなかで……死神という道化師はふんぞり返り、王の権威と栄華とを嘲笑っている。やつは王につかの間の時を与え、一幕芝居を演じさせるのだ。それと気づかず王は君臨し、恐れられ、一睨みで人を殺せると自惚れる……肉体というはかない命の壁を、あたかも難攻不落であると驕り──そして死神は、土壇場になってやってくるのだ。小さな針でその城壁にぷすりと穴を開け、「王さま、さよなら!」と嘲笑うのだ! ……ふ、ふふふふ……あ、はははは、あっははははは!』

 鳳凰丸は……絶叫した。

「半跏思惟……中宮、お前……お前ぇッ!」

 入学回廊に超自然の雷鳴が轟く。鳳凰丸の手に、緋色に輝く戦鎚が握りしめられた。

 鳳凰丸は駆け、叫ぶ。

「お前は……お前はァッ!」

 半跏思惟中宮は笑った。

『ははは! 愛してますよ、平等院鳳凰丸!』

 戦鎚が振りかざされ、緋色の輝きが闇を貫いた。そして……凄惨なる死闘の幕が、切って落とされたのだ。

第玖話「許されざる者との死闘」に続く

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