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【地獄サンタ】 #パルプアドベントカレンダー2022

intro.

 二〇二一年、サンタは死んだ。だがやつは戻ってくる……そう今宵、この聖なる夜に。

Ⅰ.

 カチ、カチ、カチ、と腕時計の針は進んでいく。少しずつだがゆっくりと、十二月二十五日は近づいてくる。

 だが、夜明けまで……あと十時間もある……。

 山田太郎は腕時計を見つめ震えていた。呼吸は荒く、手足は凍えるように冷たかった。太郎のいる路地裏は生臭く、不気味なまでに静まりかえっている。

 表通りとはまるで別世界だった。楽しげな人びとの声。仄かに差しこんでくるクリスマス・イルミネーションの輝き。それらを遠くに感じながら、太郎は思った。

 夜の街をあてどもなく逃げつづけて、いったいどれぐらいの時がたったのだろう。なぜ俺は、逃げつづけているのだろう……。すべては終わったはずだった。そう、あの夜に……去年のクリスマスの夜に。

 俺はたしかに、サンタを葬りさったはずだった。

 その夜のできごとは、太郎にとってぬぐいされない傷、深刻な心的外傷トラウマとして残っていた。太郎は胸を押さえた。思いだすだけでも動悸がしてくる。サンタとは、恐怖そのものだった。

 やつはどこにでも現れた。明かりを消した廊下に。部屋の片隅の影のなかに。ドアを開けたその先に。鏡の向こうに。振りかえったすぐそこに。そして子どもの命を奪っていくのだ……しみったれたプレゼントと引きかえに。

 他の誰もがそうであったように、太郎もまたサンタなんて都市伝説だと思っていた。しかし去年……二〇二一年の十二月二十四日。サンタは現れたのだ。太郎たちの前に、太郎のひとり息子の命を狙って。

 だが……。

 サンタを前にして、そのとき太郎を支配したのは恐怖ではなかった。奮い立つ勇気、家族のために戦う父親の精神だった。息子はたったひとりの家族だ。だから恐怖にも抗うことができた……太郎の血は沸きたった。壮絶な戦いがはじまった。やがて空が白み、イブの夜が明けようとするその直前――

 太郎はサンタを追い詰め、殺したのだ。

「くそッ……」

 太郎は顔を歪めた。悪夢のような光景が脳裏に浮かんでくる。揺らめく炎。顔を焦がす熱。サンタとともに燃えゆく我が家。

「くそッ、くそ……」

 そして……腕のなかで冷たくなっていく我が子。

「くそ……ちくしょう、俺は……ッ」

 地面を叩き、崩れるように頭を抱えた。

 俺は、息子を守ることができなかったッ!

 息子を失ってからの日々はまさに地獄だった。喪失感。守れなかったという罪悪感。無力感。サンタという恐怖、トラウマ……。「は、ははは……」太郎は顔を引きつらせて笑った。

 そうさ、俺は負け犬さ。すべてを忘れるために、酒とドラッグと女に溺れたクソ野郎さ。すべてが苦しく、すべてが虚しく、すべてが嘘のようだ……。仕事を失い、周囲から人が去っていき、あっという間に貯金が底をつき……そうやって、虚無でちぎれそうな日々を過ごしているうちに、今年も十二月二十四日がやってきた!

 太郎は震える手で顔を覆い、静かに自問した。

 サンタは……死んだはずではなかったのか?

 最初は酩酊が見せる幻だと思っていた。刻が十二月二十四日の零時を告げた瞬間。明かりを消した廊下に。部屋の片隅の影のなかに。ドアを開けたその先に。鏡の向こうに。振りかえったすぐそこに。不気味な影が見え隠れするようになっていた。そしておびえる太郎の耳に、あの声が聞こえてきた……。

 ホッホー、プレゼントをあげるよ
 楽しいプレゼントの時間だよ
 お前の息子と同じように
 ホッホッホー、プレゼントをあげるよ

 心が凍る思いだった。恐ろしかった。間違いなかった。忘れるはずもなかった。やつだ。間違いなくやつの声だ!

 太郎は棲家である安アパートを飛びだし、逃げるように夜の街をさ迷った。だが……太郎にとって心休まる場所などどこにもなかった。街は孤独な恐怖で満ちていた。イルミネーションはまるで血の色のように見えた。人びとの楽しげな喧噪は、自分への嘲笑のように聞こえてくる。

 はッはッはッ!
 うわッはッはッはッ!

 太郎は逃げた。逃げて、逃げて、逃げつづけて、どことも知れぬ路地裏の片隅で、いまや身を縮めて肩を震わせている。その瞳孔は開ききり、うわごとのように呪詛の言葉を呟いている。

 俺は独りだ……俺は世界から守ってもらえない……息子を守れなかった罪の代償として。罪人として。俺は世界から切り離されて、孤独で、独りで、あのサンタと戦わなければならない……ああくそっ……絶対に無理だ……去年は息子がいたから戦えた……だが今の俺にはなにもない……なにも残されていない……独りだ……クソのような、ボロ布のような、孤独で、哀れな中年男が独り。誰からも必要とされていない、世界にとって不要な……ゴミが独り。独りぼっちの……クズみたいな……あぁ、もう嫌だ……もう嫌だ……。

 激しいめまいがしてきた。視界は歪み、手は震え、バクバクと動悸がつづく。冷えきった体は妙な熱を帯びてきて、太郎はうわごとのように呟きをつづけた。

 独りぼっちだ……俺は独りでサンタに殺される……嫌だ……独りは嫌だ……独りは嫌だ……。

 そのときだった。

「そうだ。お前は独りです」

 突然の声に太郎はぎょっと目を見開いた。声は胸元から発せられていた。なんだよ……なんなんだよ……。太郎は泣きそうになりながら、必死に胸ポケットをまさぐった。ポケットのなかにはやわらかい感触があった。わしづかみにして取りだすと……やわらかいそれは、ケタケタと笑いだした。

「太郎は独りです。だからお前はダメなんです」

 太郎は思いだした。家を飛びだすときに慌ててポケットにねじこんだのだ……非常用の〈食用線虫〉を。食用線虫は太郎の手のなかでうねうねと動いた。蠱惑的な動きだった。バカにした目つきで太郎を見つめ、食用線虫は話しつづける。色気のあるハスキーな声だった。

「孤独を癒すには友だちをつくるのが王道です。たまには異性と過ごすのもいいでしょう。人との交流はいいものです。直流と交流があるのは電気です。明日の天気は晴れでしょう。でも太郎はオワコンなので、最終的にはドラッグに手を出してしまうことでしょう。バカバカ! だからお前はダメなのです」

「……黙れ」

 太郎は力をこめて食用線虫を握りつぶした。

「ぴぎッ」

 体液滴るそれを、太郎はむさぼり、飲みこんだ。とたんに薬効成分線虫ペプチドが体をめぐり、強い高揚感が太郎を包みこんだ。やはり、線虫は生食にかぎる……。

 ドラッグに溺れた太郎は、いつしか食用線虫依存症になっていた。代償は大きいが、太郎にその自覚はない。

 高揚とともに太郎は考える。とにかく逃げるのだ。逃げつづければ、きっとどうにかなる。都市伝説によればサンタは二十五日の朝、夜明けとともに消えていくのだという。そうであるなら、今はただその噂にすがるしかない……。

 冷たい風が吹いた。

「……?」

 太郎は気配を感じて首を巡らせた。奇妙だった。周囲はあまりにも静かだった。かすかに聞こえていたはずの街の喧騒は消え失せて、完全なる無音があたりを覆っている。路地裏は暗く、その闇の向こうで何かが揺らめいているのが見える。

 ごくり、と喉が鳴った。

 逃げ出すべきだ。本能がそう告げている。だが気がつくと太郎は立ちあがり、闇の向こうへと、揺らめく何かへとむかって一歩、一歩と歩を進めていた。なぜだ……? 太郎は自問する。食用線虫のもたらした高揚がそうさせるのか、まるで催眠にかかっているかのようだった。やがて、闇の先にそれは見えた。

「……鏡?」

 不法投棄されたと思しきゴミの集まり。そのなかに古い鏡台が放置されている。鏡台は黒くくすみ、黴がはえ、どこか不吉な雰囲気を漂わせていた。揺らめきは、その鏡が反射する月の光だった。

「なんだよ……」太郎は気が抜けたように脱力した。その頬を再び冷たい風が撫でていった。空の雲が流れ、ひときわ強く月明かりが鏡を照らしだす……「あ……!?」太郎は目を見開いた。揺らめく光のなか、太郎は見た……見えてしまった。本来、鏡に映るのは太郎のはずだった。だがそこに太郎は映っていなかった。太郎は凍ったように固まり、鏡に映るそれを凝視した。

 少女だ。赤い頭巾をかぶり、赤い装束に身を包み、青白い能面のような顔をした不気味な少女。

「ひッ」

 太郎は情けのない声をあげた。鏡の向こうで少女は太郎を指さした。そして、何かを告げるように口を動かした。それはゆっくりと、こう告げているように見えた。

 ほ
 ん
 と
 う
 に

「ひぃぃッ」

 太郎は転がるように逃げだした。

Ⅱ.

 なんだったんだ、あれは……! 太郎は路地裏を飛びだし、雑踏のなかをさ迷うように走った。

 あれはサンタではなかった。サンタとは違うなにかだった……ああ、助けてくれ……誰か、誰か……独りは嫌だ……息子が……こんなとき、息子さえいてくれれば……。

 太郎は走りながら、必死に息子の笑顔を思いだそうとした。しかし……。

 あれ……?

 記憶はくすんだセピア色に染まっていた。思い浮かぶ息子の顔は、くりぬかれたように影で染まっている。思いだそうとすればするほど影は濃く暗くなっていき、まるでぽっかりと開いた穴のようだった。

 なぜだ……息子の顔を思いだすことができない。どういうことだ……?

 そして太郎は気づいてしまう。息子の名前についての記憶がない……太郎の記憶のなかには息子の名前が存在しないのだ。息子は単に「息子」とだけ記憶されている……。

 なんだ……これは……なんで……。

 得体の知れない何かが起きていた。太郎の背筋を悪寒が走っていった。恐ろしかった。おぞましかった。こんなの嫌だ……俺は、恐ろしい……。

「大丈夫よ」

 それは優しい声だった。

「あの子の名前は遼じゃない、あなた」

 太郎の傍らで妻の美代子が優しく微笑んでいた。テラスに注ぐ太陽はまぶしく、幸せな朝のひとときを感じさせた。

「あぁ、そうか……」

 太郎はゆったりとチェアに座りながら、美代子に微笑みかえしていた。

「そうだったな、美代子」

 そうだ。遼じゃないか。俺の息子は遼。そうだったじゃないか!

 恐怖を忘れ、太郎は雑踏のなかを軽やかなステップで走った。イルミネーションがちかちかと、太郎と街を血のような赤で染めていた。道ゆく人びとは笑っていた……まるで、太郎を祝福するかのように。

 わッはッはッはッ
 うわッはッはッはッ!

「ッ!」

 衝撃。どうっ、と太郎は後ろに倒れた。強かに、腰を地面に打ちつける。「痛いっ……」がたいのいい男にぶつかったのだ。男は「おい気をつけろ」と、太郎を見おろしながら抑揚のない声で言った。

「うるさい……! 俺は……」

 そこまで言いかけて太郎は男を見た。「俺……は」口をぱくつかせて思わず黙る。男の背後では血のようなイルミネーションが輝いている。その影になって、男の顔は見えない……まるで記憶のなかの息子と同じだった。男はただ黙ったままじっと太郎を見おろしている。

 なにかが奇妙だ……太郎はそう思った。不吉な予感がしていた。ふつふつと、全身の肌が粟立っていくのを感じた。「なん……だよ……」太郎は震えながら呟いた。街ゆく人びとがぞろぞろと、太郎の周りに集まってくるのが見えた。

 なんだ……なんなんだよ……。

 人びとが、いっせいに太郎を指さした。

 ふっふっふっ……。
 はッはッはッ!

 大きな笑い声。男と同様に、人びとの顔には影がかかっている。その表情は伺い知ることができない……はッはッは……ッ!

 うわッはッはッはッ!
 ホッホー! ホッホッホー!

 ぴしゃりと、液体が太郎の顔に飛んできた。袖でぬぐうと「ひッ」それはどす黒く濁った血液だった。ホッホーという笑いとともに、人びとの口からはぴしゃり、ぴしゃりと血が飛んでいく。それだけではない。その口からはボロボロと、食用線虫がこぼれ落ちてゆくのが見えた。太郎は悲鳴をあげた。ドッ、と人びとは爆笑した。腐った血と肉の臭いに包まれた。「うわぁぁ!」太郎は叫び、立ちあがる。

 うわッはッはッはッ!
 ホッホー! ホッホッホー!

「あぁ! うあぁあ!」叫び、爆笑する群衆の波をかき分ける。

 うわッはッはッはッ!
 ホッホー! ホッホッホー!

 太郎の全身は血でぬれていく。赤黒く染まり、肩では白い食用線虫が楽しげに跳ねていた。逃げだす背後から、合唱するような群衆の雄叫びが聞こえてくる。

 ホッホー、プレゼントをあげるよ
 楽しいプレゼントの時間だよ
 お前が息子にしたのと同じように!
 ホッホッホー、プレゼントをあげるよ

「うわ、うわぁぁ……!」

 太郎は走った。すでに高揚感は消え失せていた。ただ恐怖だけが太郎を支配していた。

 キャッキャ、ケタケタ……

 夜の闇のなか、前方からはしゃぐように子どもたちが駆けてくる。子どもたちの楽しげな会話が、いやがおうでも聞こえてくる。

「ねぇ知ってる? サンタさんって本当はいないんだよー」
「知ってる知ってるー!」
「じゃあさぁ、サンタさんの正体ってわかるぅ?」
「わかるわかるー!」
「よぉし、みんなでサンタさんの正体を言っちゃおうよ!」
「言おう言おうー!」
「じゃあいくよ……」
「せぇーのー、」

 それはねぇ、おとうさ……!

「やめろーッ!」

 太郎は叫び、子どもたちを次々と突き飛ばした。ケタケタ、キャッキャという笑い声を背にして、太郎は泣きながら逃げだしていた。

Ⅲ.

 冬なのに全身から冷たい汗が噴きだしていた。すべてが深い闇に覆われていた。誰もいない夜道。なのに、濃厚に何者かの気配を感じる。走りたいのに足がもつれて前に進むことができない。声がどこからともなく聞こえてくる……。

 おと……さーん
 おと…………さぁーん……

 子どもの声だ。闇のなかを、パタパタ、パタパタと何かが駆けまわる音。

 おと……さーん
 おと…………さぁーん……

 子どもの声……息子と同じぐらいの。太郎は立ちどまり、恐怖に震えて嘔吐した。

 サンタの……正体……。

 先ほど子どもたちが話していた、その言葉に言い知れぬ不安を覚えていた。「怖い……俺は怖い……」ドッと、どこからともなく大勢の笑い声。それともに生臭い臭いが漂ってきた。太郎は不安の源をつきとめようと、必死に記憶を手繰り寄せた。だが、まるで思いだすことができない……。ドッ。再び爆笑が聞こえると、直後、静寂が訪れた。

 ジャッ、ザッ、ジャッ、ザッ。

 静寂のなかに響く音。太郎は前を見た。

 ジャッ、ザッ、ジャッ、ザッ。

 砂をこする音だった。闇に目を凝らすと、ぼぅっと何かが浮かんでくる。それは地面に座りこんだ子どもの背中だ。闇のなか、スポットライトが当たったかのようにその子どもの姿だけが鮮明に見える。子どもはジャッ、ザッ、とおもちゃの車を手に持ち、淡々とした様子で地面に走らせている。闇のなか、聞こえてくるのはただ

 ジャッ、ザッ、ジャッ、ザッ。

 とおもちゃの車が地面をこする音だけだった。

 車……。

「遼を保育園まで乗せていくよ」

 と、太郎は美代子に言った。愛車であるシーマのフロントドアを開けると、勢いよく遼が転がりこんできた。

「おいおい、朝から元気だなぁ」
「気をつけてね、あなた。最近疲れているみたいだから……」

 不安げに美代子は言った。

「大丈夫だよ。今夜はクリスマスイブだ。早めに仕事もあがるよ」

 太郎はそうこたえた。その日は二〇二一年の十二月二十四日だった。ゲラゲラと笑う声が聞こえてきた。

 太郎は首を振った。視界が戻ってきた。視線の先では、あの子どもが何度も何度もおもちゃの車を走らせている。

 ジャッ、ザッ、ジャッ、ザッ。

 よく見ると、子どもは地面に落ちている何かに車をぶつけている。何度も何度も、執拗に。

 ジャッ、ザッ、ジャッ、ザッ。

 嫌な予感がした。見るな……見てはならない。これ以上は見ない方がいい。そう思えば思うほど、太郎は子どもから目を離せなくなっていた。ぴしゃり、ぴしゃりと液体が落ちる音が聞こえくる。生臭い臭いがより濃く漂う。そういえば、ここはどこだ……? そう思った瞬間、視界が開けた。

 交差点。車が電信柱に激突している。ひしゃげた車は燃えていた。その車種はシーマだった。揺らめく炎。顔を焦がす熱。

 その炎は、記憶のなかのあの炎を連想させた。……サンタを葬った炎。だがおかしい。そんなはずはない……あのとき燃えていたのは俺の家ではなかったのか……? 俺が運転していた車……? 俺が?

 声が聞こえる。

 おと……さーん
 おと…………さぁーん……

 炎のなかから声が聞こえる。

 おとうさーん
 おとうさぁーん……

「うわ……うわぁぁぁッ!」

 子どもたちがケタケタと笑う声が聞こえてきた。

 ねぇねぇ、サンタさんの正体って知ってるぅ?
 知ってる知ってるー!
 サンタさんの正体はねぇ……

「なんだよ……やめてくれ……!」

 サンタさんの正体はねぇ……

「やめろーッ!」

 おとうさーん! 

 再び闇がもどってきた。背を向けて座るあの子どもが見えた。子どもはすっと静かに立ちあがった。

 おとうさーん
 おとうさぁーん……

「嫌だ……嫌だ……」

 太郎は頭を抱え、固く目を閉じる。なにも見たくはなかった。逃げだしたくてたまらなかった。やがて子どもが振りかえる気配がした。つづいてざっ、ざっ、とこちらに向かってくる音。そして音は止まった……目の前で。

「お父さん」

 懐かしい声だった。冷たく、懐かしい気配が目の前にあった。太郎は閉じた瞳から、涙が溢れだすのを感じていた。懐かしさと絶望が太郎のなかで渦巻いていた。声は続けた。

「なんで……」

 ああ……。

「なんで僕を殺して、自分だけが生きてるの……?」

 ああ……遼!

Ⅳ.

 もはやすべてが終わったのだと理解した。太郎は凍えるような吹雪のなかを歩いていた。人の気配も、生物の気配もなにもない、極寒の世界のなかをただ独り歩いていた。絶望と諦念に包まれながら。

 俺は人殺しだった。息子を殺した人殺しだった。サンタを殺したんじゃない……殺したのは息子だった。忌まわしい記憶を都合よく塗りかえて、ドラッグで誤魔化しつづけていた……。

 凍てつく吹雪のなかで、辺りを見まわしながら太郎は思った。

 ここはきっと人の世界ではない……。

 死と静寂。凍えるような吹雪の世界。ここはきっと地獄ってやつだ。俺はいつの間にか、生きながらにして地獄に落ちていた……。

 太郎は力なく倒れた。固い大地に顔を打ちつける。白い大地は凍っていて、そのうえを太郎の真っ赤な血が流れていった。体から熱が奪われていく。太郎の体は凍っていく。遠くから声が聞こえる……。

 おとうさーん
 おとうさぁーん……

「ははは……」

 太郎は笑った。俺のようなクズには、このような責め苦こそがふさわしい……。

「そうね、あなた」

 美代子が優しく微笑むのが見えた。

「美代子……」

 美代子の周囲では、食用線虫たちがくるくると楽しげなダンスを繰り広げている。遼の声が聞こえる……。

 おとうさーん
 おとうさぁーん……

 太郎は呟いた。

「これからは、みんな一緒だ」
「そうね、あなた」

 流れた涙は凍っていた。大地に流れた血も、いつしか白い雪に覆われている。寒い……体が凍っていく……でも、もう独りではない……。

 おとうさーん
 おとうさぁーん……

「遼……美代子……」

 太郎は美代子に向かって手を伸ばした。美代子は微笑んでいた。

「……?」

 その背後に、なにかが見えた。ドクン。太郎の心臓が跳ねるように拍動した。美代子の背後にいるのは……少女だ。あの不気味な少女だ。赤い頭巾。赤い装束。青白い能面のような顔。

 太郎は少女をじっと見つめた。なぜだか恐怖は感じなかった。少女の手がゆっくりとあがり、太郎を指さした。そして再び、何かを告げるかのように口を動かす。それはこう告げているように見えた。

 ほ
 ん
 と
 う
 に

 本当に

 も
 え
 て
 い
 た
 も
 の
 は

 燃えていたものは

 な
 ん
 だ

 なんだ

 本当に燃えていたものはなんだ

 お
 ま
 え
 が

 お前が

 も
 や
 し
 て
 き
 た
 も
 の
 は

 燃やしてきたものは

 い
 っ
 た
 い

 いったい

 な
 ん
 だ

 なんだ

 お前が燃やしてきたものはいったいなんだ

 ドクン、ドクン。

 静かに心臓が高鳴る。不思議な感覚だった。炎が見えた……揺らめく炎が。そして感じた……顔を焦がす熱を。

 炎……ドクン。
 俺が燃やしてきたもの……ドクン。
 俺の炎……ドクン。

 心臓の鼓動がどんどんと強く、速くなっていく。ドクン、ドクン、ドクン……。少しずつ、体に熱が戻ってくるのを感じる。少女は再び口を動かした。

 お
 ま
 え
 は

 お前は

 だ
 れ
 だ

 誰だ

 お前は誰だ

 俺は……太郎は自問自答した。俺は山田太郎。美代子の夫で、遼の父親。そして人殺し……そのはずだ。だが……。

 ドクン、ドクン、ドクン……

 強まる心臓の鼓動とともに太郎は立ちあがる。体から発する熱で雪がとけ、その身体からは蒸気が立ち昇っていた。

 ドクン、ドクン、ドクン。

 太郎は炎を感じていた。浮かんでくるその炎を直視した。揺らめく炎。顔を焦がす熱。それは己の心臓から発せられている。それは燃えるハートだった。熱く燃える魂の力だった。そして炎は告げている……。

 すべてが嘘だと。

 太郎のなかで、次々と記憶が蘇る。輝かしい子どもたちの笑顔。夢と希望で満たされたあの聖なる夜。空を駆ける……。
 
 俺は、山田太郎ではない。

 そ
 う
 だ

 お
 ま
 え
 は

 そうだ。お前は……。
 そうだ。俺は……。

 お
 ま
 え
 は

 俺は。

 お
 ま
 え
 は

 俺は。

 め
 ざ
 め
 よ

 そうだ……いい加減目を覚ます時が来たようだ。俺は……。


 俺は、サンタだッ!


 その瞬間、赤い炎が吹き荒れた。炎は吹雪をも溶かし、渦を巻き、巨大な柱となって冷たい空を貫いた。太郎は感じていた……俺は! 本来の姿を取り戻すのだ。中年だった体は十代後半へと若返り、くすんだ表情はふてぶてしい面構えへと変貌する。

 やがて炎の渦は集束するように太郎の体を包みこんだ。そこに現れたのは赤く、灼熱する装束を身にまとった若者だった。それこそが太郎の真実の姿だった。太郎は周囲を見回し、不敵に笑った。

 ここは地獄のようだな。
 正真正銘の。

「去年……俺はどうやら、不覚を取ったようだ」

 記憶が蘇る……二〇二一年のクリスマス。悪魔の罠にかかり、太郎は地獄へと落とされた。地獄のなかで悪夢をさ迷い、そして、死を迎えようとしていた……。

「ずいぶんと難儀したぞ……〈地上のサンタ〉」

 太郎の背後。そう話しかけたのはあの少女だ。記憶を取り戻した太郎は、もうその正体を知っている。

「ああ、恩に着るぜ……〈地獄のサンタ〉」

 そう。サンタとは一人ではない。

 地上において夢と希望を配る者。
 地獄において孤独な戦いを続ける者。

 地上のサンタと、地獄のサンタ。

 二人が揃うことで、はじめてクリスマスの奇跡は成し遂げられるのだ!

「そしてここからは……俺のターンだ」

 赤い装束を翻し、太郎は見つめた……その眼前。

「バカな……そんなバカな……ッ!」

 そこには狼狽する子どもがいた……遼だ。いや、遼ではない。この者こそが太郎を罠にかけた悪魔であった! 太郎は右足を高々とかかげ、振りおろした。ズンッ! 凄まじい功夫クンフーによって地獄の大地が鳴動する。太郎は高らかに宣言した!

「我こそは第六十四代サンタクロース、セント・二コラ太郎であるッ!」

 ビシリと悪魔を指さす。

「俺はお前を……成敗するッ!」

 少年の姿をした悪魔は不気味に震えた。「ほざけ……」その体を闇が覆い、微笑む美代子が、楽しげに踊る食用線虫たちが次々とそのなかに溶けこんでいった。「ほざけ……」闇が凄まじい勢いで渦を巻き「ほざけーッ!」雄叫びとともにそれは弾けた。

「む……」

 太郎は眉根を寄せる。渦巻く闇が消え、そこに現れたのは巨大な黒き甲冑戦士だった。その輪郭は蠢く漆黒によって揺らめき、甲冑の隙間からは食用線虫を思わせる醜い触手がはいずり回っている。手には巨大な斧。兜の中央では赤く輝く単眼が左右に揺れている。甲冑戦士は地鳴りを思わせる声で告げた。

「我が名は軍団レギオン。 我々は、大勢であるがゆえに……」

 太郎は鼻で笑った。

「ああ、そうかよ」

 そして挑発するように手のひらを上に向けると、くいくいと手招きをした。

「いいから、かかってこい」

「バカめ……」

 甲冑戦士……レギオンはその巨大な斧を振りかざした。刹那! その腕が弾け、吹き飛んだ。

「な……ッ!?」
「遅い」

 その声はレギオンの兜の上からだった。

「バカな!?」

 太郎は兜を踏みしだくように右足を突きだし、そのひざの上に腕を乗せて、ふてぶてしい笑みを浮かべながら兜の上からレギオンを見おろしていた。

「油断さえしなければ、お前などサンタの敵ではない」
「おのれ……」

 レギオンの漆黒の輪郭が蠢いた。

「おのれーッ!」

 闇が沸騰したように湧きあがり、それを貫くように伸びたのは無数の触手だった。「言っただろう……」太郎は余裕を崩さない。

「お前など、サンタの敵ではないッ!」

 太郎は跳んだ。宙で身をひねり、腕を広げて足を下に。そして凄まじい速度で回転をはじめる! レギオンは顔をあげ、太郎を見た。「おお……」それはまるで炎をまといながら回る独楽コマを思わせた。その輝きに、レギオンは魅入られた。

「サンタ流殺法……」

 足を軸に、レギオンの兜を穿つ!

「十の型、穿つ鳥船ッ!」
「おおお……」

 レギオンは震えた。直後、赤き奔流がレギオンの巨体を貫いていた。バチバチと火の粉が飛び、闇が散華していく。その散りゆく闇のなかに何かが浮かんでは消えた。それは太郎が体験した偽りの過去……微笑む美代子が、踊る食用線虫たちが、元気よく車に飛びこむ遼が……次々と淡く輝き、燃え尽きていく。太郎は三点着地を決め、目を閉じた。

「あばよ」

 レギオンは爆発した。

outro.

「実に無様だったな」

 と、能面じみた表情で地獄のサンタは言った。

「そうだな……俺はまだまだ未熟者だ」と太郎。「先代のようには……じいちゃんのようには、まだまだできねーみてぇだ」

 フン、と地獄のサンタは鼻を鳴らした。太郎は苦笑いを浮かべながら、地獄の空を見あげた。

「……俺は、もう行くぜ」
「好きにしろ。地獄ここは私の領分だ。それに……」

 地獄のサンタはまっすぐに太郎を見た。

「お前は、地上でやるべきことがあるのだろう?」
「ああ……」

 太郎は顔をおろし、地獄のサンタの瞳をまっすぐに見つめた。

「地上で、子どもたちが待っている」

 地獄に一筋の光がさした。その光のなかをリンリンと、鈴の音を鳴らしながら降りてきたのはトナカイたちが曳くソリだった。太郎はソリに飛び乗った。

「あばよ……いや、」

 満面の笑みを浮かべ、地獄のサンタに手を振る。

「またな、地獄のサンタ……セント・ニコル!」

 二〇二二年、かくしてサンタは蘇った。

 その夜……十二月二十四日の夜。

 地上の夜空には満点の星ぼしがあり、穏やかな満月が輝いていた。そのなかを、太郎のソリは飛んでいく。

 太郎は笑っていた。自分ができる最高の笑みを浮かべようと努力していた。

 太郎は知っている……この世界はどうしようもできないことで溢れているということを。度しがたい悲劇で満たされているということを。

 だが今宵……この夜だけは、地上の子どもたちに夢と希望を配ることができる。太郎は精いっぱいの声をあげた。

「ホー、ホー、ホーホッホッー!」

「お前のことを無様と言ったのではない……無様だったのは、私の方だよ」

 冷たい空を見あげながら、地獄のサンタ……ニコルは独りごちていた。凍てつく吹雪のなかで、ニコルはたった独りだった。

 今宵……この夜だけは、地獄の悪鬼羅刹どもを地上に出してはならない。去年のようなミスを、もう二度と犯すつもりはない……ニコルは剣をかまえた。燃えあがる剣は、灼熱の輝きをまとった。

 吹雪のなかに、いくつもの巨大な影が見える。影はニコルへと向かって進撃してくる。恐るべき軍勢たちだ。声が轟く……。

「我が名はエリゴス……」
「我はアスタロト……」
「我こそは魔王バアルである」

(了)

きっと励みになります。