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50代おひとり様が「RUN」にデビューした話

古い記憶

角を曲がると長いのぼりの坂道が一本延びている。
この坂を上りきったところに当時暮らしていた社宅があった。

幼稚園の帰り道、私は数人のおともだちとその角をまがった。

突然いままで、一緒に歩いていたゆみちゃんが駆け出した。

と同時にほかの子どもたちも、

「ママー!」
「お母さーん!」

と嬌声をあげながら坂道のてっぺんを目指して走り出していた。

顔を上げると、私にも母親たちの一群が子どもたちを迎えにゆっくりと歩いてくるのが見えた。
私はその中に母の姿をみつけ、友達の後に続いた・・・はずだった。

どんどん遠くなるみんなの背中。
どんどん苦しくなる呼吸。
体の中から「ヒューヒュー」という音が聞こえる。

足が止まり、身体をくの字に折り曲げた私はその場で動けなくなった。

遠くのほうで友達が母親に「ただいまー」と叫ぶ嬉しそうな声が聞こえる。

わたしも行きたい。あそこに。お母さんのところに。

遠くに見える親子の群れが涙でにじんでいた。

ものごころついて以降、私の一番古い記憶。

悲しくて、苦しくて、悔しくて。

そんな感情が今もよみがえる。


マラソンが憎かった


私は、小児喘息を持っている病弱な子どもだった。
もう50年近く前の話。
少し走ると、胸がヒューヒューゼイゼイとなり、呼吸が苦しくなる。
走らずとも、体調が悪い日は夕方に胸の奥から「ヒュー」と聞こえると、そこから長い発作がはじまった。
横になると余計に苦しくて、背中に厚いクッションを挟んで眠る日もおおかったと記憶している。

そんな私にとって「走ること」は「苦しいこと」。

小学校に上がると1月には、きまって耐寒マラソンが始まった。
3学期の体育はほぼ全ての時間がマラソン。
数週間の練習ののち開かれる「耐寒マラソン大会」では、校外へ出て長い距離を走り順位を決める。
私にとって地獄のような行事が毎年行われた。

今思うと「小児喘息」なのだから見学していればよかったものを、当時は親も学校も「仕方ないね、ゆっくりでいいから頑張ろうね」という考え方だった。

「ぜんそくだけど、仕方ないんだ。頑張らないといけないんだ」

私は諦めていた。

それでもどうしても走るのが怖くて

「今日は体育やすみたい」

というと、兄弟たちが
「ずるい、ずる休みだ」

と責める。

母も「しんどかったら先生に言って歩いてもいいから」と私をなだめた。

「みんな、この苦しさを知らないくせに」

私は、ほとんど恨みに近い感情を持ちながら、いつもみんなよりかなり遅れて最後にとぼとぼと歩いてゴールした。

毎年新学期に配られる「年間行事予定表」では真っ先に3学期の行事を確認。

マラソン大会、の文字を見つけては4月から暗い気持ちになっていた。

そんな小学校6年間を過ごしてようやく中学生になった。


しぶとい小児喘息


中学生になると、かなり小児喘息の発作自体は減っており、それなりに健康になっていた私。
しかし、冬の冷たい空気の中で走ると相変わらず発作が出た。

だから中学生になっても、恒例の「耐寒マラソン大会」の文字を確認しては落胆するということを3年間繰り返した。

どうして大人たちはこうも、馬鹿の一つ覚えのように、冬になったら生徒たちを走らせたがるのか。

考えても仕方ないこととはいえ、私はずっと恨んでいた。

毎年マラソンを計画する学校も、けっして「休んでいいよ」といわない母のことも。


マラソンからの解放


高校生になって、ようやく「マラソン大会」という行事が、年間行事予定表から消えた。

感動した。

もう走らなくていい。

それから大学生になり大人になり、ぜんそくの発作からはほぼ開放され、私はマラソンに対する恨みも、忘れていた。

しかしある日、私はテレビでマラソン選手が軽快に走る様子を見て何故だか目が釘付けになった。

自分の人生には縁がないもの。

そう思っているのに、なぜか気になった。

30代の時には本屋さんでたまたま見つけたコミックエッセイを衝動買い。

運動嫌いの漫画家の女性が30代からマラソンに目覚め市民ランナーとなり、最後はホノルルマラソンまで走れるようになった過程がおもしろおかしく書かれていた。

読みやすかったのもあって、一気に読んだ。

もう一度読んだ。繰り返し読んだ。

だんだんと、自分の中に「わたしも今なら走れるかも」

そんな気持ちが芽生えていた。

でも、子育て真っ最中だった私はだんだんとその気持ちを忘れてしまった。


後悔の回収


マラソンのことなどすっかり忘れたまま、私は50代となった。

30代は子育て、40代は子育てとパート・離婚騒ぎなどで自分の健康や趣味など二の次の日々を送った。

そして50代。ようやく少しだけ自分の人生を考える時間ができた。

53歳の夏、離婚してシングルになっていた私はこれからの仕事について考え、新たにライティングという仕事に挑戦することを決めた。

そんな時noteでたまたま読んだ記事。

https://note.com/ao_50s/n/nc3653979598f

私より少しお姉さんであろう筆者のaoさんは40代後半のころ、ふとしたことがきっかけで「RUN」を始めたという。

RUN

なんだかマラソンよりかっこいいな。
40代後半からスタートしてこんなに走ることを楽しんでいる人がいるんだ・・・

その時から、自分の中に「走ってみたいな」「私でも走れるかな」そんな気持ちが芽生えた。
しかし、まったく運動などしてこなかったこの半世紀を今から挽回できるはずないか。

私はぐずぐずと、挑戦を先延ばしにしていた。


それから1年がたったころ、私はaoさんがこんな挑戦を始めたと知った。

https://50s-mirai.com/

リモートのランニング教室。

1年間温めていた気持ちが、この記事をきっかけに、ついに私の背中を押した。

そうか、私は走ってみたかったんだ。

みんなのように、風を切ってどこまでも走ってみたかったんだ。


人生の総仕上げ


50年余りの人生に、私はいくつも忘れものを置いてきた気がしている。

本当は、あの時ああしたかった、こうしたかったが、ひょっこり心に顔を出す。

「ああ、そうだったね。それもやってみたかったんだ」

50代になって、子どもたちのために出来ることが少なくなるにつれて、自分をかわいがれるようになってきたのかもしれない。

ならば、これからは人生の総仕上げ。

置いてきた荷物を、拾って歩こう。

私は著者のaoさんがスタートした「RUN」の教室の申し込みボタンを押していた。

坂の下で、みんなに置いて行かれて泣いていた自分を迎えに行こう。

「大丈夫、あなたも大きくなったら走れるようになるから。わたしが証明してあげるからね」


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