【刊行記念公開】外科医・加藤友朗インタビュー「新型コロナウイルス感染を体験して思うこと」
最初は「大したことない」と甘く見ていた
ニューヨークで最初の新型コロナウイルス感染患者が報告されたのは2020年の3月1日だった。その頃、僕は普通に、手術の仕事にあたっていた。その後ニューヨークでは、ウエストチェスターで、都市封鎖に近い対応がされ、職場だった病院内でも少しずつ「コロナウイルスが増えるかもしれないから体制を整えなければ」という警戒心は高まってきてはいたが、まだまだ危機感はなかった。
そんなわけで病院でも特別な防疫対策は取っていなかった。そのときすでに、ウイルスはニューヨーク中に広がっているなどとは、誰も想像していなかったのだ。
一般市民の間では、ウイルスは中国由来のもので、中国人と交流がなければ感染はしないだろうと考えられていた。しかし実際は、ウイルスはヨーロッパから入ってきていて、すでにニューヨークでは蔓延状態にあったのだ。
3月16日、僕は移植手術を行っていた。本当はコロナウイルス対策として、病院では3月の2週目以降、予定手術をすべて取りやめることになっていた。しかし移植は緊急性が問われる。僕は最低限の感染対策をしたうえで、手術室に入っていた。
16日から1週間ほど経った頃、発熱症状があらわれた。どこで感染したのかはわからないが、直前に行った手術の患者のなかに、後の検査でコロナ陽性だったことがわかった人がいた。ただその患者さんが感染源かどうかは不明だ。とにかく3月半ばの時点で、すでにコロナウイルスはニューヨーク中に広がっており、誰がどこで罹ってもおかしくなかったのだ。そんな中で正しい感染防御をせずに医療を行っていた当初の医療従事者は、かなり感染の可能性が高かった。実際、僕の病院で重症になったり亡くなったりした医療従事者のかなりの部分は、パンデミック初期の感染だった。
発熱症状が出た直後、僕はいったん自宅で待機するよう命じられた。もし新型コロナに感染していたとしても重症化の確率は2割ほどで、あとはだいたい自力で治癒すると、医療従事者の間では認識されていた。それに重症化のリスクが高いのは、高齢者や基礎疾患のある人がほとんどだった。正直、「僕は大丈夫」ぐらいに軽く見ていた。
とはいえ、ひどい筋肉痛はそれまでに罹った風邪とは明らかに違っていた。あまりにひどい痛みなので、「新型コロナウイルスの可能性はあるだろうな」と思ったものの、心のどこかでは「そうでなければいい」という気持ちもあった。
その当時は医療従事者は疑いがあっても自宅待機するだけで、PCR検査は受けないように言われていた。パンデミックの初期はニューヨークでも検査キットが不足していたからだ。それでも疑いが濃いので感染症の医師に相談して、PCR検査を受けることにした。結果は陽性だった。
やっぱりそうか。そう思ったが、陽性とわかった後も、症状は筋肉痛と発熱ぐらい。あまり体調は悪くなかった。血中酸素の飽和濃度を自分で調べると、93~94ほどだった。正常値より低いけれど、そのときは「大したことはないな」と思っていた。今から思えばこの時点ですでに肺炎の症状が進行していたはずだが、この時点でも僕はコロナを甘く見ていた。自宅待機しているうちに、自然に治るだろうと安心していた。
発熱してから5日が経ったとき、家でシャワーを浴びていた。そのとき湯気で咽せて、息ができないほど苦しくなった。これはおかしいのでは……と思い、血中酸素飽和濃度を調べると、危険な数値まで下がっていた。
それでもまだ感覚としては「大丈夫」だった。はっきり意識はあるし、動けないほど息苦しいわけでもない。後でわかることだが、そのとき僕はハッピー・ハイポキシア(幸せな低酸素症)だったのだ。新型コロナウイルスの肺炎では、肺炎が進行していても自覚症状にはあまり重症感が出ないことがある。この状態をハッピー・ハイポキシアという。本来はかなり危ない低酸素状態でもハッピーに見えるということだ。これが新型コロナウイルス感染で急変で患者さんが亡くなる原因なのだ。
僕は外科医だが、外科手術後の合併症として肺炎はよくあることで、何人も肺炎の患者さんをみてきた。そんな僕でも騙されるぐらい、新型コロナウイルス肺炎の初期には症状が出にくい。新型コロナウイルス特有の怖い病態だ。
僕と同じような症状で、日本では2020年末に、立憲民主党の羽田雄一郎氏が急逝した。コロナの症状が出て、病院に向かう直前まで、周りの人たちと普通に会話されていたという。
僕もあと1日、入院が遅かったら病院に着く前に命を落としていたかもしれない。
とにかく、慌ただしく入院することになった。病室に入ったその日も、関係者などに連絡を取るため、Eメールやテキストメッセージのやりとりをしていた。
入院した段階でも、僕はまだコロナウイルスを甘く見ていた。処置すれば、ほどなく退院できるだろう……そんなことを考えていたのも、束の間だった。
入院した翌日に、僕は人工呼吸器が必要になった。人工呼吸器を装着されるということは、酸素マスクでは十分に酸素が取れないということで、人工呼吸器に繋ぐためには鎮静剤を使って意識をとる必要がある。以降、記憶はない。
その後1週間ぐらいはいったん安定したかに見えたようだったが、その後急激に症状が悪化して僕はECMOに繋がれることになった。
いつ命を落としてもおかしくない、ギリギリの状態だった。
長い昏睡のなかで歴史の現場に立ち会った
意識不明の間は、僕は完全に、せん妄状態にあった。基本的に状態の悪い患者さんでECMOに繋がれるぐらいの状態の患者さんは鎮静薬と鎮痛薬を投与されているのであまり意識があることはないのだが、僕の場合も自分の身体に何が起こっているか、どんな治療を受けているか、まったく記憶していない。でも、変な夢を延々見続けていたことだけは覚えている。
まず、コロナウイルスとは別の感染症に罹っている夢を見た。毒性の強い菌を何者かに植えつけられたという、陰謀論的な内容だ。僕はその設定のなかで、人工呼吸器を着けられたりしていた。微妙にリアルの状況と重なっていた。
印象的だったのは、19世紀のワーテルローの戦いを観戦(?)していた夢だ。
ナポレオンの最後の戦いとなった、フランス軍と連合軍の衝突を、なぜか僕は観光客たちと一緒に眺めている。歴史オタクではないし、ワーテルローの戦いという言葉自体、何十年も聞いたことも口にしたこともない。けれどなぜか、夢のなかで、ナポレオンの戦いの最前線に立ち会っていたのだ。
実際のワーテルローはお城ではないが、僕の夢の中ではナポレオンはお城の中にいてそこを連合軍が攻めている。城の塔のてっぺんに将軍のナポレオンがいて、大砲を操っていた。砲弾は強力なのだが、横には撃てないと敵軍に悟られ、塔の横から攻め手がやって来た。そしてナポレオンは攻略されるのだ。世界史に残る独裁者が陥落する一部始終を目の当たりにしていたわけだ。
どういうわけか僕はナポレオンの協力者だと疑われ、連合軍に連行されてしまう。裁判にかけられるのだが、19世紀なのに僕は携帯電話を持っていた。ニューヨークの弁護士に事情を話し、戦争には無関係の市民だと裁判で証明してもらう……という、終始おかしな内容だった。変な夢ではあったが、内容が濃くて、入院中に見た夢のなかでは最も記憶に残っているもののひとつだ。
意識が戻りかけのときは、ある場所に行かねばならない夢を見ていた。かなり強い思いだったようで、うわごとで「○○へ行く、行く」と言っていたらしい。
たくさんの夢を見ているなか、臨死体験と思われる光景にも遭った。
真っ暗ななかで、遠くの白い明かりが目に入った。誰かに呼ばれたりはしなかったのだが、明かりは次第に近づいてきて、最後は全身が白い明かりに包まれた。「あ、これが死ぬことなんだ」と感じたのを覚えている。
眠っている間、いろんな情景や、不思議な物語が交錯した。
一度も意識を取り戻さず、僕は4週間近くもの間、深い夢のなかを旅していたのだ。
苦しめられた窒息の恐怖
はっと意識が戻ったとき、病室には看護師がいた。「目が覚めたの?」と言われ、僕は自分が「どこにいるんだ?」と聞いた。すると看護師は「ニューヨークです」と答えた。僕は夢のなかでいろんな旅をしていたので「ああ、ニューヨークに帰って来られたんだ」と安堵した。実際はニューヨークどころか、ベッドから一歩も動けていなかったのだが。
意識は戻ったが、持続人工透析にはまだ繋がれたままで、さらに1週間をベッドで過ごした。
結局、僕は1カ月以上まるまる寝たきりとなってしまった。
4週間にわたり、生死の境をさまよっていた。身体の状態はボロボロだった。医師たちは「何がなんでも加藤を死なせてはいけない」と、あらゆる手を尽くしてくれた。まずは命を救うのが最優先。そのおかげで生き延びることができたのだが、体力の衰えは、ひどいものだった。
目が覚めた直後は、身動きひとつできなかった。全身の筋肉が落ち、まずベッドの横の柵に手が届かない。ベッドを上げ下げするボタンすら、押す力がなかった。鼻にも尿道にもお尻にも管が入り、人工透析にも繋がれていた。意識はあるけれど、病状はまだ深刻だった。命の危険から完全に脱したわけではなかったのだ。
いちばん困ったのは、発声だ。目が覚めてしばらく、声がひどく出しづらい状態が続いた。長いこと気管に管が入っているとこうなるのだが、意思を外に伝えられないのは、大変だった。
喉の奥に粘着質なものが溜まり、1日のうち何度も喉が詰まりそうになる気がした。
困っているのだけど、看護師たちに喉の様子をうまく伝えられない。もし窒息して状態が急変したら、助からない可能性が高い。多くの患者を診てきた経験上、わかることだった。僕は喉を詰まらせないよう、必死に意識を保って、何とか眠らないよう耐えた。本当に窒息する可能性があったのかはわからない。でも自分ではそう思っていた。
気分の悪さと、ひどい頭痛にも苦しめられた。後の検査で、少し脳出血していたことが判明した。昏睡中に出血したようだが、コロナウイルスの影響か治療の副作用か、原因はよくわからない。幸いそれは大きな問題ではなかったが頭痛はその後もしばらく続いた。
目が覚めてから、苦しい日々が続いた。けれど徐々に、喉の詰まりも改善し、頭痛やいろんな痛みが和らいできた。そしてようやく、何とかリハビリを始められることになった。
患者の気持ちと本当の辛さが理解できた
コロナウイルスに限らず、医者が難病に罹り、患者の立場になるという経験は、そう多くない。医師として今までたくさんの患者さんが集中治療室で長期間治療を受けるのを見てきた。でも自分自身で経験してみて、初めて本当の意味で患者さんたちが経験していることの中身がわかった。ベッドから自分で動くことができず、意思を伝えられないことが、こんなにもフラストレーションだったのかと、思い知った。この経験は間違いなく僕が医師として働いて行く上で貴重なものになった。
喉の奥に粘っこいものが溜まり、自分ではどうにもならない。その不快感といつ窒息するかわからない恐怖を、医師や看護師に伝えられないのが、本当に辛かった。
僕たちは普段、ほとんど声を発せられない身体の弱った患者と、たくさん接している。彼らは声は出せないけれど意識ははっきりしていて、命をつなぐために、必死に戦っているのだ。何も伝えられない患者は、意識があまりはっきりしていないので、必ずしも大きな痛みとか苦しみを感じていないと思ってはいけない。側からは意識朦朧のように見えても、ほんとうは意識がはっきりしているのにそれを伝えられないだけのことだってあるのだ。
また鼻から栄養を入れるための管も、不快で辛かった。管が取れても、飲みこみの練習をするのが、また辛い。嚥下障害のある人のための特別な病院食を食べなくてはいけないのだが、ものすごく不味いのだ。飲み下すのが大変だった。今までなんども鼻から管を入れるのを嫌がる患者さんたちを説得してきた。しかし、実際の辛さは本当に当事者になってみないとわからない。
重病患者として、治療からリハビリまでの過酷な過程をひと通り体験することができた。医療従事者からすれば慣れた作業なのだろうけど、患者の立場を経験してみると、管をひとつ入れるのも、注射1本うたれるのでも、相当なストレスなのだ。
ただ、一方で、あそこまで死の淵をさまよっても、あそこまで体力のない状態に追い込まれても、きちんとした治療とリハビリで回復できるということを知ったのも、この経験からだ。自分たちのやってきたことは間違っていない。それを身をもって体験することにもなった。
生還した証の『A Whole New World』
リハビリに移ってほどなく、病院のなかでコンサートが行われた。楽器ができたり、歌の歌えるドクターたちが集まって演奏する、有志のイベントだ。そこに僕は、特別ゲストのような形で参加することになった。
僕がここまでウイルスによって重症化したのは、医療の仲間たちも相当にショックだったと思う。感染対策ができているはずの医師でもウイルスに罹り、しかも普段フルマラソンを走りきる体力の健常者が、短時間で危篤状態に陥るのだ。医療の最前線にいる彼らは、コロナの恐ろしさをまざまざと見せつけられ、対策の認識を改めたに違いない。自分たちの感染するリスクや、恐怖もあったのだと思う。
僕が何とか命をつなぎ止められたということは、仲間たちにとっても希望の象徴だったのではないかと思う。コロナ感染から回復しつつある僕が、コンサートに参加するのは、医療関係者を奮わせるメッセージとしての意味合いもあった。
僕たちがコンサートで歌っている様子は、病院のスタッフがビデオに撮り、YouTubeに公開されている。『Virtual Healing Concert, A Whole New World Finale with Dr. Kato』というタイトルでアップされているので、よかったらご覧いただきたい。このとき歌った『A Whole New World』は、僕がベッドにいるとき、看護師によく言っていた言葉だ。喉の粘りを抑えるのに、しょっちゅう氷を舐めていなくてはいけなかった。その氷を看護師が新しく持ってきてくれるたびに、「これでA Whole New Worldだ」と「歌を歌ってあげてもいい」、冗談めかして言っていた。そのうち本当に、『A Whole New World』を歌うようになった。そのやりとりが病院のなかで知られ、コンサートの参加へとつながった。
『A Whole New World』を歌うことは、死の淵から生還して、これから新しい命を生きるという、僕自身の気持ちの表明でもあった。
このときのコンサート映像は動画公開した直後、SNSで拡散された。結構な評判になり、日本でも見てくれた人がいた。病状を知らなかった関係者からも連絡をもらった。映像のなかで歌っている僕は、車椅子に乗り、だいぶ痩せている。「こんなにひどい状態だったの?」と心配された。けれど少し前の危篤状態に比べれば、血色は良くなり、すごく元気になっていたのだ。いかに危ない状態にまで陥ったか、わかってもらえると思う。
入院治療中は、とにかく時間が余っていた。移植手術で飛び回っている頃にはほとんどなかった、物事を考える時間が、たっぷりある。それはありがたかった。映画をたくさん見て、読んでいなかった本も、大量に読めた。
仕事の方はさすがに、何も進めないわけにはいかず、資料の整理など事務的なことを、少しずつ片づけていった。なかでも放っておけなかった仕事は、論文作成だ。
コロナ感染する前に、これまで僕がコロンビア大学でやってきた体外切除手術の11年間のまとめの論文を、ヨーロッパの学会で発表する予定が入っていた。ヨーロッパで最も権威のある外科学会だ。論文提出は済んでいたが、学会発表の前にいくつか修正しなくてはいけなかった。結局コロナで学会は中止になったのだが、論文は入院治療中に、完成させることができた。
この論文は、この本でもたびたびふれた体外切除手術の集大成である。ある意味で「『NO』から始めない生き方」の集大成なのかもしれない。
この論文を完成させられた。それだけでも本当に、生き延びて良かった。何かに生かされたのかもしれないと感じる。
コロナの後遺症で最も怖かった症状
5月末、ようやく退院することができた。退院してからも、しばらくは体力の回復に努めた。まずは、軽い散歩から。医療の仕事に早く戻りたかった。それに僕は、マラソンランナーだ。何とかまた走れる身体を取り戻したかった。
毎日、少しずつ体力づくりを重ね、7月から短距離を走り出した。100メートルを軽くジョギングするだけで「こんなことをして大丈夫か?」と思うぐらい息が上がった。無理せず、走る距離とスピードをちょっとずつ増やしていった。
後遺症として困ったのが、一時的に右肩が上がらなくなったことだ。神経麻痺でリハビリを始めてから気が付いた。厳密にはコロナウイルスの後遺症とは言えないものだと思う。おそらく3週間も昏睡状態でECMOや透析に繋がれている間に神経が引っ張られて損傷を受けたのだと思う。右肩が上がらないだけでなく右の首の筋肉と背中側の肩の筋肉がほぼなくなっていた。神経の麻痺で動かなくなった筋肉は萎縮してしまうのだ。右肩が上がらないだけではなく、右肩を後ろに引くこともできない。これでは手術に影響する。
だいぶ心配だったが、幸いそれもリハビリを続け、テーピングして動いているうちに、3カ月くらいでほとんど治癒した。いまでは右肩を上げるのもまったく問題ないし、筋力も戻っている。
もうひとつ後遺症のなかでショックだったのは、脱毛だ。命が助かったのだから脱毛などどうでもいいのだが、実際に頭髪がなくなってしまうと、かなり精神的に落ちこんだ。いちばん抜けていたときは、コロナ感染前の半分以下まで髪が減っていた。『ちびまる子ちゃん』のおじいちゃんのような頭だった。鏡で自分の顔を見ると、頭の形が、くっきりとわかる。
退院した直後にメディアで発言するときは、ずっと帽子を被っていた。禿げた頭を隠しておきたかったのだ。
しかし夏ぐらいに脱毛はピタッと止まり、毛髪は元に戻った。
体力の回復も順調に進んで、8月には手術にも復帰できた。
初めは、「体力がもつだろうか?」と不安だった。でも何とか手術を完了できたときは、大きな達成感があった。9月には以前と同じぐらいのペースで仕事をこなせるようになっていた。
半年前にはECMOに繋がれた危篤状態だったのに驚異的な回復といえば、そうかもしれない。個人差はあるだろうけれど、僕の場合は、命のかかった患者さんが大勢待っているのだ。ゆっくりリハビリしている暇はない。早く回復しなくてはならなかった。
初めは慎重に少しずつやるつもりだったが、性格上、身体のことを考え、ほどほどにセーブしながら仕事する……という手加減が、あまりできない。結局、いったん復帰してから今まで、フル回転で手術をこなしている。
本稿を書いている2021年の9月の時点で、体力的な部分では、あまり不安はなくなっている。マラソンは、30キロまで走りきれるようになった。11月のニューヨークマラソンに参加する予定だ(編集部注:加藤氏は2021年11月のニューヨークマラソンで42・195キロを完走した)。
日本は先進国のなかでは感染禍をうまく抑えこんでいる
50代で、僕ぐらいまで症状が悪化すると、長距離を走れるまでに回復するのは難しいかもしれない。罹った当事者としては、やはりコロナは「怖い」という印象だ。
感染初期に、僕のようにまったく咳が出なかった人もいるし、激しい咳で苦しむ人もいる。ほとんど無症状で治ってしまう人がいる一方、感染が判明してからわずか数時間で命を失う人もいる。
僕の勤務している病院だけでも、2000人近くの患者さんがコロナで亡くなった。医療関係者も、その中には含まれている。
症状の個人差が大きく、最適の対処策が、まだよくわかっていない。それは他の感染症にもあることだが、罹ってから急激に悪くなる人の割合が他の感染症に比べて多いのが、このウイルスの怖いところだ。
日本でも2021年夏のオリンピック過ぎまで感染禍は続いた。緊急事態宣言が発令されれば感染者数は減るが緩めればまた増えるということが繰り返されている。ここにきてワクチン接種が日本でも急速に進み、状況は大きく改善されているようだが、市民の皆さんは安心できるにはまだ至っていないだろう。
しかし世界的に見たら、どうだろうか? 先進国のG7のなかでは日本は安定して、感染予防できている国である。他のアメリカ、カナダ、フランス、イギリス、ドイツ、イタリアなどでは数万~数十万人の犠牲者が出る惨状となった。
感染悪化の進む国では、経済を止めてでも対策を強化すべきだという派と、経済を優先してあまり対策をしすぎないことを支持する派の、二つの論調に、はっきり分断しされている。その分断は日本でも起きているようだが、アメリカに暮らしている僕としては、日本のように感染のコントロールがうまくできている国でも同じ議論があることは少々不思議に感じる。
世界的な現状と照らし合わせると、日本はかなり感染をコントロールできている方だ。欧米諸国や南米、インドなどで起きている大規模な感染爆発は、国内のどこにも起きていない。コロナの犠牲者も2万人には届いていないし、人口あたりで見ればG7の他の国の10分の1である。
日本政府のオペレーションが完璧にうまくいっているとは言いがたいが、マスコミの報道は、偏りすぎているかもしれない。「欧米に比べたら、まあまあうまく抑えられている」という本当の成果を、実感しづらい空気になっているのではないだろうか。
例えば日本のニュースでは、「日本よりずっと感染者の多い国で医療崩壊は起きていないのに、どうして日本では崩壊の危機に瀕しているのか?」という疑問が報じられる。いや、実態を言えば、アメリカなども同じ基準でいえばとっくの昔に医療崩壊しているのだ。他の国も、似たようなもの。そもそも日本でいう「崩壊」の基準が、国際的には高すぎるだけだ。それは必ずしも悪いことではないのだけど、ニュース報道を見て、日本のコロナ対策がダメだと判断するのは、大きな間違いだ。
日本は国際的にみると、衛生意識が高く保たれている国だ。コロナが大騒ぎになる前から、冬場はマスクをつけている人はたくさんいた。日本やアジアの国の人たちがマスクをしているのを揶揄する人たちはアメリカにたくさんいたが、ここにきて日本の人々が共有している衛生観念、他の人にうつさないためにマスクをするという考え方、そんな国民性で感染拡大を食い止められているのは間違いないと思う。
厚生労働省の2021年2月末の1週間の統計では、全国のインフルエンザの患者は46人。2020年の同時期は、3万人以上の感染者だった。毎年苦しめられているインフルエンザの大流行を事実上、撲滅したといえる。いまぐらい衛生対策が成功している日本で、コロナの感染爆発が起きる可能性は、他の国よりは低いと思う。
一方で、「コロナウイルスはインフルエンザより死者が少ないから平気」という意見には、同調できない。2019年までのインフルエンザ流行期と、2020年以降のコロナウイルス流行期の世界の生活様式は、まったく違うものだ。単純比較できるものではない。そもそも、インフルエンザを撲滅するほど衛生管理を厳しくしても、なお感染者が連日数百人以上も出るコロナウイルスは、やはり怖いといえる。2019年以前の生活様式だったなら、日本でももっと大きな感染が起きていただろう。
コロナの封じこめが成功している中国、韓国、台湾と比べて「日本は失敗した!」という意見があるが、それもお門違いの議論だ。日本はG7に含まれる先進国だ。世界中から人の往来も多い。欧米型のウイルスや変異株が入ってくる可能性も当然高くなる。コロナ対策に関しては、僕はアジアではなく、欧米先進国を基準に考えた方がいいと考える。
それに、アジアの国々とは法整備も国の規模も、ぜんぜん違うのだ。うまくいっているアジアの近隣国を見て、憂鬱になることはない。初期からヨーロッパ型に変わったと思われるウイルスや早い時期に入ってくる変異株の感染拡大を、最小限に抑えこんでいるのだ。もちろん油断は禁物だが、これは高く評価されるべきことである。
もともと日本の生活様式は感染症の予防に向いていて、感染力の強いコロナウイルスにも効果を発揮している。そのように分析するのが正しい。
現在の感染予防体制をキープして、ワクチン接種を早く完了させる。日本は、粛々とこれを進めていけばいいだろう。
Everything happens for a reason
僕の人生を振り返って考えると僕はつくづく運が強いと思う。僕はアメリカ社会で医師として成功して、コロナで生死を彷徨っても、生き延びた。もちろん努力はしたけれど、振り返ればかなりの部分は幸運の結果だったように感じる。ああすればいい、こうすればいいと、人は思い悩むけれど、自分の思いどおりになることは、ほんのわずかだ。
一方で予期しない不幸や災いが降りかかった時に、それをどのように考えてそれを受け止めるかは、とても大切だと思う。
Everything happens for a reason.(起こること全てに理由がある)はアメリカでよく言われる言葉だ。不幸や災いが起こったのにも何か理由がある、それがいつか何かに繋がる。この言葉は新型コロナウイルスの重症感染を経験した僕にとって座右の銘となった。
うまくいくか、いかないかは、運の影響もかなり大きい。だからあまり思い悩んでも仕方がない。一方で結果がうまくいかなくてもそれを受け入れる。そんな風にしつこく続けること。それも運を呼び込む秘訣かもしれない。
人と関わることは止められない
人間は、いつ死ぬかわからない。このことは臨死体験まで行き着いてなおさら、強く思う。
先に述べた移植手術の論文もそうだが、多忙を理由にして、やりたいことや、やらねばいけないことを先延ばしにしていたら、いけない。「いつかやる」タイミングが、訪れるとは限らないのだ。予想もしていない、明日か今日にも、死んでしまうかもしれないのだ。
僕はコロナに罹って以降、いまを大切にしなければいけないということを強く感じて生きている。手術の仕事も、以前は自分でやることに集中していた。しかしいまは、自分にしかできなかった方法を、他の誰でもできるようにしなくてはいけないと思っている。書きまとめた論文をもとに、僕の手術の方法が世界中の医療現場で利用される将来を、強く願っている。
医者としての仕事のほか、NPO活動も進めている。ベネズエラで移植を手がけて以来、移植ボランティア活動を支える団体を、仲間と立ち上げた。活動はコロナ禍でしばらく停滞していたが、2021年の9月にドミニカ共和国で初の子どもの生体肝移植を成功させることができた。現地の先生たちとNPOの仲間で長年かけて準備してきたプロジェクトだ。手術は9歳の女の子でお父さんがドナーとなって移植が行われた。他の国でも準備が進められている。ゆくゆくはラテンアメリカすべての国で、子どもの肝臓移植が可能になる環境を整えたいと思う。これも自分たちで遂行していくつもりだったけれど、繰り返していうように、人はいつ死ぬかわからない。もし僕たちがいなくなってもプロジェクトを進めていけるように、もっとたくさんの人や組織を、つなげていかねばならないと考えている。ご興味のある方はぜひ、ウェブサイトを見てほしい。
(https://www.fundahigadoamerica.org/en/)
ひとりの医者としてではなく、もっと広い視野で、自分の仕事をとらえられるようになった。コロナウイルスからは、本当に大事なことを学び、人間としての成長を得られた。
自分だけで仕事を完結しようとしてはいけない。意義のあることならば、よりたくさんの人に関わってもらって、それが広がるようにする。これも人との関わりなしにはできないことだ。
僕は医師としてたくさんの患者さんたちと関わってきた。本書に紹介した子どもたちの多くとは、いまでも手紙をもらったり、人づてにSNSでメッセージが届いたり、交流が続いている。
ヘザーは20歳になった。元気に学校に通っていて、将来はEMT(救急隊員)の仕事に就きたいのだという。カナダからやって来たジョディは、本文のなかでは医者を目指していた。だが現在は、結婚して2児の母として幸せに暮らしている。
ベネズエラで手術した子たちも、だいたい歳前後には結婚して家庭を持っている。ベネズエラの女性は、本当に結婚が早いんだなぁと思う。
本文には書かなかったが、4年ほど前にブルークと同じ体外切除方式で手術した女性患者がいた。治療に当たっている間は知らなかったが、彼女は夫婦で里親を引き受け、6人の子どもを育てていたという。6人とも、家庭内で虐待に遭ったり、さまざまな事情で親から引き離された子どもたちだった。
彼女の治療がもし失敗していたら、6人の子どもたちは、家から出なくてはいけなかった。6人をまとめて引き取ってくれる新しい里親が都合よくいるはずもない。本当の家族と同じように暮らしていたのに、散り散りになってしまうのだ。
彼女は愛する家族の絆を守るために、何が何でも生き延びなくてはいけなかった。そんな事情があることを、僕はまったく知らなかった。たまたま昨年、治療を終えて元気に暮らしている彼女と連絡を取り合う機会があり、すべて話してくれた。
彼女は手術の後、6人の子どもたちを正式に養子として迎え入れたそうだ。また、養子を取るには病気の治療が条件でもあり、彼女は必ず身体を元に戻して、家に帰らねばいけなかったのだ。
「ドクター加藤は私の命だけではなく、子どもたちと、家族みんなを救ってくれました。ありがとう」と言われた。そして、6人の可愛い子どもたちと一緒に写った写真を送ってくれた。その写真を見たときは、本当に嬉しかった。やるべきことはまだたくさん残っているのだと、より気持ちが引き締まった。
助けた命がある一方で、助けられなかった命もある。すべての命を救うことはできないけれど、救える可能性があるのなら、今後も、常識的に「無理だ」と言われても、枠からはみ出た思考で救命に尽くしたい。
僕自身、命を救われた側のひとりだ。もう助からない状況だったかもしれないけれど、絶対に助けるという医者たちの力と幸運によって、いまこうして生きている。
謙虚な気持ちと、明日はない覚悟で、これからも医療の現場に立ちたい。