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下町やぶさか診療所 5 第二章 居場所がない・後/池永陽

【前回】

 午後の患者もあと数人というところで、耳打ちをするように八重子やえこが話しかけてきた。
おお先生、あの娘、ちゃんときてますよ」
「あの娘って、吉沢よしざわあきさんのことか――そうか、ちゃんときてくれたのか」
 独り言のようにいうりんろうに、
「待合室の隅に座っているのをちらっと見かけたので、受付のともさんにいてきたら、一番あとでてもらいたいということでしたよ」
 得意げな顔で八重子はいう。
「ということは、今日は腹をくくって話をするつもりってことか」
「そのようですね――おまけに」
 八重子はちょっと言葉を切り、
「今は麻世まよさんが、明菜さんの隣に座ってましたよ」
 これも得意満面の表情でいった。
 麻世はこの診療所にきてから、待合室の椅子に座って患者たちの話に耳を傾けることがよくあった。
「みんなの話を聞いてると、面白いか」
 そんな麻世に麟太郎がこうただしてみると、
「面白いよ、そして悲しいよ」
 と麻世は無表情でいった。
 何だかわからなかったが、このとき麟太郎はうれしさのようなものがこみあげてくるのを覚えた。
「そうか、面白くて悲しいか。それはいい、実にいい、とにかく頑張れ」
 こんな言葉が口から自然に出た。
 あれがまだ、つづいているのだ。
「先日の夜、麻世とじゅんいちの前で明菜さんのことを話したんだが、そのとき麻世は明菜さんのいった居場所がないという言葉に反応していたから、そのせいかもしれんな」
 解説するように麟太郎がいうと、
「そうですね。麻世さんも、居場所のない子でしたからね」
 しんみりした口調で八重子が口にした。
「それで、麻世は今、明菜さんと話をしているのか」
 麟太郎の言葉に、八重子は診察室のドアを開けて待合室のほうをうかがい見る。
「あっ、話をし出したようですよ。何やら、ぼそぼそと」
「そうか。あいつも俺に似て、お節介好きになったのかもしれんな」
 嬉しそうな顔をする麟太郎に、
「いえ、まだそこまでは。何たって大先生のお節介好きは、筋金入りですから」
 ぴしゃりと八重子はいった。
「まあ、なんだな。とにかく残っている患者をすませて、明菜さんの話を聞いてやらねえとな。次の患者を入れてくれるか、八重さん」
 空咳からせきをひとつして、厳かな声を麟太郎は出した。
 三十分ほどあと。
 診察室のドアがノックされ、おずおずとした様子で明菜が入ってきた。麟太郎は、顔に笑みを浮べて明菜を診察室の椅子にいざなう。
「何やら、うちの麻世と話をしていたようだと、聞いたんだが」
 早速、水を向けてみた。
「あっ、はい、麻世さんですね。あんなに綺麗な子がいるなんて、びっくりしました……私と違って」
 明菜は最後の言葉を小声でつけ足した。
「あいつも、明菜さんと似たような境遇でよ。だから、あんたに親近感を抱いたのかもしれねえな」
「そうですね。母一人子一人だったそうですね。その、お母さんにたちの悪い男の人がくっついて、居場所がなくなってしまい――おまけに、お母さんはその男のために精神を病んでしまったということを、ざっと聞かせてもらいました」
 どうやら麻世は、その質の悪い梅村うめむらという男との決定的ないきさつだけは省いて、あとは正直に明菜に話したようだ。
「だから私なんて麻世さんにくらべたら、まだまだ……でも、あんなに若くて綺麗な子がヤンキーだったなんて、今でもなかなか信じられません」
 溜息をつくようにいった。
「なかなか、人は見かけにはよ。だが、あいつは根は優しくて真正直な人間だからよ。そこんところはよ」
 しみじみとした口調でいうと、
「はい。それは充分に伝わってきました。そして、そんな麻世さんを全身で受けとめてフォローしている、大先生の優しさも充分に」
 ほんの少し、明菜は笑った。
「そうか、そいつは嬉しいな。ということは、今日はすべてを話してくれる。そういうことでいいのかな」
「麻世さんの話を聞いて、決心がつきました。大先生なら、私のいうことをわかってくれる。何を莫迦ばかなことをと、突き放すことはない。真面目に相談に乗ってくれると」
 麟太郎の胸がざわっと騒ぐ。
 やはり明菜はとんでもないことを……相手を殺すのか、自分を殺すのか。もし、そんな相談を受けたら、自分はいったいどう答えたらいいのか。まったくわからなかったが、しかし麻世のときのように、全身で明菜の言葉を真摯に受けとめれば答えは何とか出てくるのでは。そんな気がした。麟太郎は腹をくくった。
「わかった、明菜さん。俺はどんなことをいわれても決して、あんたの前から逃げはしない。だから、何でもいってくれ」
 できる限り、優しい声を出すと、
「大先生は『安心感の輪』という言葉を知っていますか」
 妙なことを明菜はいった。
「悪いが、俺は寡聞にして、その言葉はまったく知らねえ」
 そういって八重子のほうを見ると、こっちも首を横に振っている。
「私も精神科の先生のもとに通って初めて知ったんですが、児童心理学のほうの専門用語だそうです」
 といって明菜は、安心感の輪の説明を始めた。
 子供は育っていく過程において、様々なチャレンジをしていくが、もしそこでとんでもないことがおこってくじけたりしても、安心安全な避難場所があればそこに戻り、再び様々な困難なことにチャレンジできる――そういった考え方だと明菜はいった。
「簡単にいいますと、どんなに傷ついても、どんなに打ちのめされていても、ありのままの自分をしっかり受けいれてくれる所。そんな場所があれば、子供はしっかりと成長していけるのだそうです」
 何となくわかってきた。どうやら人殺しの話ではないようで、麟太郎は小さな吐息をそっともらす。
「これは子供に限らず大人でも同様で、私の今の状態には、そんな安心感の輪が必要なのだと、その精神科の先生はいいました。そしてここを安心感の輪だと思って、週に一度は自分のところに通ってきなさいと」
「なるほど。それで明菜さんは週に一度、その安心感の輪である、その先生の許に通うことにした。そういうことだな」
 麟太郎は、わずかに身を乗り出す。
「はい。でも……その先生と話をしていても変に難しくて理屈っぽくて、心の安らぎが得られないというか……学校の偉い先生の講義を聞いているようなところがあって、それで私」
 といって明菜がとまどいの表情を浮べたところで、
「それで明菜さんは仏様のようだという、ここの大先生を頼ってきた。ここの大先生なら理屈っぽいことは抜きで、ありのままの明菜さんを受け入れてくれるんじゃないかと思って」
 八重子が大声をあげた。
「その通りです。できれば私、ここを安心感の輪にしたくて。そうすれば、私の心も体も穏やかになるんじゃないかと思って。すみません。勝手なことを並べたてて」
 明菜の表情が情けないものに変った。
「いやいや、そんなことなら大歓迎だ。といっても俺は外科医だから、精神科の先生のような高尚な話はできねえけどよ。莫迦っ話だけでよ」
 頭をきながら麟太郎はいう。
「それでいいんです。今の私には、そのほうが心が休まりますから」
 麟太郎の顔を明菜はまっぐ見た。
「それでよければ、いつでもここにくるといい。まあ他の患者の診察もあるから、今日のように一番最後にきてくれると有難いけどよ。もちろん、診察代なんぞは取らねえから、安心してよ。遊びにくるつもりでよ。なあ、八重さん」
 麟太郎は八重子の顔を見る。
「そうですね。ここの大先生はそういうことは、得意中の得意ですからね。確か、前にもありましたよね。独りぼっちのお年寄りでホームレスだった安っさんとか、気の弱すぎる恋患いの少年とか」
 面白そうに八重子がいう。
「ホームレスのお年寄りに、恋患いの少年ですか」
 目を丸くする明菜に、
「ここは、そういうところなんですよ。まさに、みんなの居場所、明菜さんのいう安心感の輪のような」
 はっきりした口調で八重子はいう。
「ありがとうございます。助かります。本当にありがとうございます。こんな子供っぽいこと、誰にもいえなくて」
 恐縮して肩をすくめる明菜に、
「いや、俺のほうこそ助かったよ。実をいうと、物騒なことをいい出すんじゃねえかと、内心はびくびくしていたところでよ」
「物騒なことですか?」
 げんそうな目を明菜は向ける。
「前にも一度あったんだけどよ。人を確実に殺す方法を教えてほしいという頼みごとがよ。あのときは正直、頭を抱えたな」
 ほっとした思いで麟太郎は口にする。
「人を確実に殺す方法ですか……実をいうと私も以前」
 そういって明菜は視線を膝に落した。
「以前、そういう気持を抱いたことが、明菜さんにもあったのか」
 どきりとする思いで、麟太郎がこう問いかけると、
ひさしと別れて一週間ほど腑抜ふぬけのような状態の毎日を過していたんですが、そんな私の耳に……久の相手はまだ大学一年の若い女性で、かなり可愛い子だといううわさが聞こえてきて。ふいに抑えきれないほどの怒りと悲しさが、湧いてきて」
 明菜は視線を落したままいった。
「相手を殺してやろうと?」
 ごくりと麟太郎は唾を飲みこむ。
「久を殺して私も死のうと」
 かすれた声を明菜は出し、
「実際に、細身の包丁を購入しました」
 突然、叫ぶような声をあげた。
「それで、結局は……」
 恐る恐る訊く麟太郎に、明菜は淡々とした口調で話し出した。
「毎日その包丁を振り回して、人を殺す練習をつづけたんですが、一週間ほどしてその包丁をアパートの壁に思いっきり突き立ててみたんです。そうしたら、刃先がぽきっと折れてしまって。そのとき、あっ、私はいったい何をしてるんだろう、あんな莫迦な男のためにということに気がついて」
「断念したんだな、相手を刺すことを」
 ほっとした思いで麟太郎はいう。
「はい、きっぱりと」
 うなずく明菜に、
「それで、その包丁はどうしたの」
 八重子が口を挟んだ。
「大事に取ってあります、記念として」
 何でもない口調で明菜はいった。
「記念なのか、それが」
 麟太郎はぼそっと口のなかだけでいい、
「とにかく、殺意が消えたというのはいいことだ。あとは躁鬱そううつびょうがよくなれば万々歳なんだが、これがどうなっていくか」
 心配そうな声を出した。
「多分、治るまで、そんなに時間はかからないような気がします。それが証拠に、大先生のところにきてから、出てくるはずの鬱症状がまだあらわれていませんし」
「それは有難いな。それなら、今後は症状がすべてなくなるよう、みんなで頑張ろう。莫迦っ話でもして」
 元気づけるように大きな声でいって、発破をかける。
「はいっ。よろしくお願いします」
 明菜はぺこりと頭を下げ、それから十分ほど他愛のない話をしてから帰り際に、
「あの、できるなら、今度きたときからは麻世さんにも同席してもらえると嬉しいんですけど。親近感というか何というか、麻世さんが一緒にいると落ちつくような気がするので。わがままばかりいって、すみませんけど」
 こんな言葉を残して席を立っていった。
「よかったですね、大先生。危険な時期を通り過ぎていて」
 ドアの閉まる音を確かめてから、ぽつりと八重子がいった。 

 その夜の献立はカツ丼だった。
 煮汁は麻世の手製だったが、カツは総菜屋で買ってきたものなので、麟太郎も潤一も安心して夕食を終えることができた。
「ところで――」
 と食後のお茶を飲みながら、麟太郎はテーブルの前に座って同じようにお茶を飲んでいる潤一と麻世に話しかけた。
「お前たちは、安心感の輪という言葉を知っているか」
 この質問に麻世は首を横に振ったが、潤一の顔に笑みが浮んだ。嫌な予感がした。
「それはあれだろ。子供が成長する際に、何かとんでもない目にあったとしても、安心安全な場所があればそこへ逃げこんで心を休め、新たな挑戦を試みることができるという」
 と潤一はいって、昼間明菜が麟太郎に話した類いのことをすらすらと述べた。
「なんだ、知ってたのか」
 仏頂面でいうと、
「これぐらいは医者としての常識だよ。知らないほうがおかしいよ」
 潤一は胸を張るようにしていい、隣をちらっと見るが麻世はいつものように知らん顔だ。
「何でも、児童心理学の言葉だそうだが」
 低い声でいう麟太郎に、
「正式には、臨床発達心理学だな、親父」
 勝ち誇ったように潤一はいった。
「まあ、どっちでもいいけどよ」
 麟太郎は投げやりな調子で答えてから、診察に訪れた明菜のあれこれを、今度は丁寧に潤一と麻世に話して聞かせた。
「へえっ、麻世ちゃん、大活躍じゃないか」
 話を聞き終えた潤一は、すぐに麻世をめるが、
「私はただ、境遇が自分に似ていたから、何となく気になって話しかけただけで、別に大したことはしてないよ」
 と素気ない言葉が返ってくるだけ。
「それに、俺の予想が半分当たっていたことも確かだしな」
「えっ、何のことだ」
 不思議そうな声を出す麟太郎に、
「俺は自殺願望だっていったろ。しかし正解は相手を殺して、自分も死ぬ。だから、半分正解じゃないか」
 なかなか潤一はしぶとい。
「そんなことは以前の話で、今はそれも収まっているだろうが。あとは躁鬱病が治ればすべて良しで、めでたいことじゃないか」
 とがめるようにいうと、
「さあ、そこだよ」
 急に潤一が身を乗り出してきた。
「本当にその明菜さんは、殺人願望がなくなったのか。俺はそのあたりを心配している」
 とんでもないことをいい出した。
「それはどういうことだ、潤一」
 麟太郎は、じろりと潤一をにらむ。
「包丁だよ。刃先の折れた包丁なんか、普通なら処分するにきまってるのを、それを記念として取っておくなんて。これはちょっと異常としか俺には思えない」
「それは」
 といって麟太郎は絶句する。
「そういうことは人それぞれで、いろんな思いがあるだろうから仕方がねえだろう」
 ようやく、これだけいえた。
「それにしたって」
 という潤一の言葉にかぶせるように、
「男の考え方でいうとおかしいかもしれないけど、女の子はけっこう妙な物を記念だと思って取っておくもんだよ。それほど変じゃないよ、現に私だって」
 麻世がよく通る声でいった。
 とたんに潤一の目が輝いた。
「麻世ちゃんの取ってある変な物って、それっていったいどんな」
 興味津々の表情だが、
「そんなことはどうでもいいよ。今は明菜さんの話だろ」
 麻世に一蹴されて肩を落すが、今日の潤一はやっぱりしぶとい。
「いくら刃先が折れてるからって、けいどうみゃくを切られれば人は死ぬ。確実に死ぬんだよ」
 ぼそぼそとつぶやく。
「お前はいったい、何をいってるんだ」
 麟太郎は怪訝な目を潤一に向ける。
「明菜さんが殺人を犯したいと感じたときの状況だよ。久さんの相手が若くて可愛い女性だと聞いたときに、その衝動がおきた。そういうことだろ」
「それが、どうしたっていうんだ」
 潤一が何をいいたいのか、どうにも麟太郎にはわからない。
「そして明菜さんは、次回から麻世ちゃんにも話に加わってほしいと要求してきた。問題はそこだよ。俺は麻世ちゃんの身を心配してるんだ」
 満更、うそでもないような口振りだ。
「それはあれか。久さんを奪った若くて可愛い女の子の代りに、明菜さんは麻世にやいばを向けるということか」
 あきれた口調で麟太郎はいう。
「そうだよ。明菜さんは若くて可愛い子が憎いんだよ。そんな思いが心の奥にまだくすぶっていて、だから……」
「明菜さんが本当に憎いのは、同棲していた久さんだろ。いくら可愛いからって、麻世に刃先を向けるはずがないだろ」
「だから、身代りなんだって。心の奥の燻りがとれれば久さんじゃなくてもいいんだよ。その格好の身代りともいえる、若くて可愛い子が身近にいれば誰でもいいんだよ」
 旗色が悪くなってきたせいか、潤一の声は小さくなっていく。
「潤一、お前。テレビドラマの見すぎだ。いくら何でも論理が飛躍している。どこからどう見ても筋が通らねえ」
「筋が通らないことがおきるのが、恋という厄介な代物なんだよ。恋は予測不能なんだよ。恋は魔物なんだよ」
 現実的な潤一にしては穿うがちすぎるほどの言葉が飛び出したが、一理あるといえばそうともいえる。麟太郎はううんとうなる。
「あのね、おじさん」
 そんなところへ、麻世のやけに澄んだ声が響いた。
「もし、万が一、明菜さんが包丁を握って私に向かってきたとしても――」
 ふわっと笑った。
「あっ」と潤一が叫んだ。
「そうか。麻世ちゃんが切られるわけがないか。どんな屈強な男が刃物を握ったとしても、麻世ちゃんに軽くいなされて、じ伏せられるだけか――すっかり忘れていた。心配するのは無用だった」
 肩で大きく息をした。
 麟太郎も潤一同様、議論に夢中になって麻世の強さをすっかり忘れていた。が、事実はそういうことなのだ。
 だが、変事は二日後におきた。 

 午後の診察が終るころ。
「大先生、明菜さんきてますよ。今日は何だか様子が変ですよ、顔が強張ってますよ」
 こんなことを八重子がいった。
「顔が強張ってるって、どういうことなんだろうな。鬱症状が出てきたのか、それとも何か事件がおきたのか」
 首をひねりながら、
「今日は麻世はいるのか。いるなら明菜さんが診察室にくるとき、呼んでほしいんだが。一緒にという要望だったからな」
 麟太郎は八重子の顔を見る。
「麻世さんは母屋にいるはずですから、明菜さんの番になったら、ここにきてもらうようにいっておきます。それから、患者さんはあと一人ですから、お呼びしましょうか」
 麟太郎がうなずくのを確認して、八重子は次の患者を診察室に呼び入れる。
 その患者の診察もすみ、明菜の番になった。
 八重子が事前に声をかけていたので診察室には麟太郎、八重子、麻世の三人が勢揃いした。
 小さなノックの音がして、明菜が落ちつかぬ様子で入ってきた。
「こんにちは」と挨拶をした明菜の目が八重子の隣に椅子を置いて座っている麻世の姿を見つけ「あっ、麻世さん」と声をあげる。
「要望通り、ちゃんと麻世も連れてきたから、今日も本音で話してくれ」
 麟太郎はそういってから、自分の前の椅子に明菜を座らせる。
「ところで明菜さん。えらく顔色が悪いようだが、何か怖いことでもあったのか」
 単刀直入に麟太郎は声をかける。
「えっ、はい、あの」
 明菜はおびえた声を出した。
 その顔をじっと見つめて、麟太郎は明菜の口が開くのを待つ。
「実は昨日の夜、私のスマホに電話が入りました」
 しわがれた声で明菜はいった。
「電話って、それはひょっとして、別れた久さんから――」
 思わず大きな声が麟太郎の口から出た。
「はい、そうです。久からの電話です」
 明菜の視線が膝に落ちる。ぽつぽつとその電話の様子を話し始めた。
 昨夜の九時頃だったという。
 スマホが音を立て、明菜が画面を見ると懐しい名前が表示されていた。久だった。一瞬ひるんだものの、明菜はスマホを耳に当てた。
「明菜、俺だ、久だ。ちょっと話があって電話した」
 何となく弱々しい声だった。そのせいなのか、気分がすうっと落ちつくのがわかった。
「何よ、話って。私はあなたと話をする気なんて、まったくないから」
 怒鳴り声が出た。
「お前が怒るのはもっともだ。だけど俺は、あの女とはもう別れたから」
 驚くような言葉が耳に響いた。
「別れたって……まだ、ここを出てから三カ月ほどしかってないじゃない。何を訳のわからないことをいってるのよ」
「この三カ月、あいつと一緒に暮して、ようやくお前の良さがわかったんだよ。明菜が俺の運命の人だったということが」
 歯の浮くような久の言葉に、
「何を調子のいいこといってんのよ。私と話したいのなら、ちゃんと本当のことをいいなさいよ。どうせ、振られて追い出されたかなんかしたんじゃないの」
 明菜の言葉に久は少し沈黙した。そして、
「お前のいう通りだ。俺はあいつのマンションを二日前に追い出された。だから居場所がなくなった。そして、俺の本当の居場所は、お前のアパートだったことに気がついた。運命の女は、お前だったことに」
 途切れ途切れ、久はこういった。
 詳しい話を訊くと――。
 半月ほど前までは、うまくいっていたという。ところが突然相手の女性が「あなたとは波長が合わないから、出ていって」といい出したという。考え方がまったく違うし、面白みがなくてウザッタイとも。理由はただそれだけで、久はその女性のマンションから有無をいわさず追い出されたという。
「自業自得」
 こんな言葉を口にする明菜の気持は、爽快そのものだった。
「若い女は駄目だ。人のいうことをまったく聞かず、わがまますぎる。やっぱり結婚するなら同世代がいちばんいいよ」
 久は結婚という言葉を出したが、明菜の胸に大きな変化はない。
「だから、何なの。久はいったい何がいいたいの」
 怒鳴りつけた。
「だから、居場所である、そのアパートで俺はもう一度、明菜と一緒に暮したいんだ。二人で仲よく」
「ふざけたこといわないでよ。あんな仕打ちをしておきながら、追い出されたといって戻ってきて、また一緒に住もうなんて、私にはまったく理解できない。いっとくけど、今更あなたと一緒に暮すなんて、ウンザリだから」
 思いっきり、意地悪くいってやると、
「それでも俺は明菜と暮す。明菜と一緒にそこで暮す。暮してくれるまで、何度も電話するし、アパートにも行く。何といっても俺は明菜が大好きだから」
 切羽つまった声を久は出した。
「やめてよ。迷惑なだけだから。もう、あんたの顔は見たくないから、絶対にこないで」
 極めつけの言葉をぶつけると、
「とにかく、明日の夜、俺はそっちへ行くから。会ってきちんと話をしようよ、明菜」
「嫌っ、きてもアパートのなかには入れないから。いくらきても無理。それぐらい、私はあなたに見切りをつけてるから」
「なかに入れてくれなきゃ、一晩中、アパートのドアをたたきつづける。警察に通報しようが何をしようが、俺はドアを叩きつづける。死ぬまで叩きつづける」
 怒鳴り声が耳に響いた。
 このとき明菜の体にすうっと寒気が走った。いくら何でも度が過ぎている。全身に恐怖心が走った。これではまるでストーカーだ。明菜の体がぶるっと震えた。怖かった。
 これが昨夜の顛末てんまつだった。
 話し終えた明菜は、大きく深呼吸をした。
「これはもう、警察に通報するしかないな」
 太い腕をくんで麟太郎がいうと、
「警察だけはさけたいんです。取引先の会社の人ですし、前は一緒に暮していた関係ですし。そんな状況のなかで公にするには」
 もっともな意見だった。しかし、そうなると、どうしたらいいのか。
「今夜は、私が明菜さんにつきあうよ」
 ふいに声があがった。
 麻世だ。うっすらと笑みを浮べている。
「いざとなったら、私が何とかするから、一度はアパートに入れて話をするといいよ」
 何でもないことのように、麻世はいった。
「何とかするって、麻世さん。いくら麻世さんが元ヤンキーだといっても、やっぱり女だから。あいつはガタイもでかいし、けんも強そうだし。へたをするとおお怪我けがをすることに」
 明菜が心配そうにいうと、えへっと麻世が笑った。
「明菜さん。こいつは女だてらに喧嘩のプロのようなもんでな。俺は柔道三段の喧嘩の猛者もさだったが、こいつと闘ったら、おそらく一分は持たずに床の上にいつくばっているよ」
「えっ、えっ、えっ」
 麟太郎の言葉に明菜は目を丸くする。
「だから、心配するのは向こうの体で、麻世のほうじゃない。おい、麻世。行くなら行くでいいが、くれぐれも手加減をよ」
「わかってるよ。まさかのときは、ちょっと痛めつけるだけで、ひどいことはしないから」
 えらく真面目な顔で麻世はこう答えた。 

 何時にくるかわからないので、麻世は六時半少し前に明菜のアパートに向かった。
 診療所を出るとき、
「麻世、くれぐれも乱暴はな。なるべく穏便にすませるようにな」
 麟太郎は、こんな言葉で麻世を送り出した。
 母屋の居間にいるのは、麟太郎と潤一、それに今夜は八重子も一緒だった。
 テーブルの上には「川上屋」の稲荷いなりずしを盛った大皿がどんと載っている。麟太郎の指示で潤一がここにくるとき買ってきたものだ。麻世はこれを五個食べて出かけていった。
「大先生。本当に麻世さんは大丈夫ですか。話には聞いてますけど、私は麻世さんの実際の立ち回りを見たことがありませんので」
 八重子の心配そうな声に、
「俺も道場稽古は見学したことがあるけど、本物の喧嘩は一度も見たことがない。本当に大丈夫なのか、親父」
 潤一がすぐに八重子に同調する。
「大丈夫だ。俺は何度も麻世の実戦を見てきている。あの容姿だから、誰でもめてかかるが、あいつは暴れだしたら鬼だ。それに今夜の相手はたった一人。俺が心配しているのは相手に怪我を負わせないこと、ただそれだけだ。相手は半グレやヤンキーじゃなく、素人だからよ。警察が介入すると厄介なことになる」
 麟太郎の本音だった。
 三人は稲荷鮨をつまみながら、麻世の帰りを待つ。時間はなかなか進まない。いちばんいらついているのは潤一のようだ。本気で麻世のことを心配しているのだ。
 麻世が帰ってきたのは、十時を回ったころだった。何となく浮かぬ顔をしている。むろん、怪我をしている様子はまったくない。
「よかった、麻世ちゃん。無傷のようで」
 最初に声をあげたのは、潤一だ。
「どうだったの。何とか無事に収まったの」
 これは八重子だ。
「うん。何とか無事には収まったけど」
 いいながら麻世は、空いている麟太郎の隣の席にすとんと腰をおろす。
「それにしては、浮かない顔つきじゃないか、麻世。まあいいから、何があったか、その一部始終を詳しく話してみろ」
 よく通る声で麟太郎は麻世をうながす。
 明菜のアパートに行き、麻世が最初にしたことは刃先の折れた包丁がどこにあるのか確かめることだった。
 それを訊くと、明菜は流し台の一番下の引出しをあけて、なかから丁寧にタオルに包んだ包丁を取り出してきて麻世に見せた。それを見てから、入っていた引出しに明菜が戻すのを麻世はしっかり確認した。誰に切りつけるのかはわからないが、もし明菜がこれを手にすれば面倒なことはわかっていた。所在だけは確認しておきたかった。
 あとは久がくるのを待つだけだ。
 二人は他愛のない話をして、そのときを待った。玄関のドアがドンドン叩かれたのは九時ちょっと前だった。
 明菜が麻世の顔を見た。
「入れてあげてください」
 といって麻世はうなずく。
 明菜が玄関のドアを開けて後退あとずさる。
「帰ってきたぞ、明菜。俺の居場所に」
 ずかずかと入りこんできた久の目が、居間の奥に座っている麻世の姿をとらえた。「あっ」という声があがった。まじまじと麻世の顔を見た。まぶしそうな目だ。どうやら麻世の容姿に驚いている様子だ。
「この人は?」
 ぼそっと訊いた。
「私の友達で麻世さん。一人では怖かったから、きてもらったのよ」
「何で怖いんだよ。俺はれっきとした明菜の元カレだぜ」
「元カレだろうが何だろうが、怖いものは怖いのよ。私はあなたと一緒に暮すつもりはないし」
「そんな……」
 久が情けない声を出した。
「何を話したいのか知らないけど、そういうことだから、さっさと帰ってよ」
 二人は玄関を入ったところで、立ったまま向きあって話をしていた。
「でも、俺は明菜が好きなんだ。心を入れかえて、また一緒に暮したいんだ」
「一緒に暮したって、あなたはまた同じことを繰り返す。今だって、麻世さんの顔をしみじみと見てたじゃない。あなたはやっぱり、若くて可愛い子が好きなのよ。私なんかじゃなくて」
 明菜は目顔で麻世を差す。
「違う、思いがけない所に可愛い子がいたから驚いて見てただけで、決していやらしい気持で見てたわけじゃない」
 懇願するように久はいった。
「ふうん、本当かなあ」
 鼻で笑うような明菜の言葉に、久はその場にがばっと座りこみ、額を床にこすりつけた。土下座だ。これには明菜もちょっと驚いたようだ。
「もう、カッコイイことはいわない。俺には明菜しかいない。俺が好きなのは明菜だけだ。だからここに置いてくれ。前のように一緒に暮してくれ。お願いだ、明菜」
 泣き出しそうな声で訴えた。
 その前に立った明菜は無言だ。
 どれほど時間がすぎたのか。
 久がゆっくりと立ちあがった。明菜を抱きしめようと両手を広げて前に出た。明菜が後退りした。さらに久は前に出た。
 そのとき、麻世は立ちあがった。すっと歩いて久と明菜の間に入った。
「嫌がってるじゃないか、明菜さんは」
 押し殺した声を出した。
「これは恋人同士の話だ。他人がしゃしゃり出るなよ。引っこんでろよ」
 低い声でいって麻世の肩をどんと突いた。
 が、麻世は動かない。
 そんな様子を明菜が凝視している。
 また久が麻世の肩をどんと突いた。と思った瞬間、久の右手首と肘のあたりを麻世の両手がつかんだ。一気にしゃくった。久はみごとに一回転して背中から床の上に落ちた。
「ああっ」と明菜の口から声があがった。
 麻世はすぐに久の体を裏に返し、左の膝で背中を押えつけた。久の右手はまだ逆をとられたままだ。足をばたばたさせているが、どうにもならない。
 ぐいと手首を捻った。
 絶叫が久の口からあがった。
「明菜さん、どうしましょう。この腕、折りますか」
 何でもない口調で麻世はいい、さらに力をいれる。
「やめてくれ、腕を折るのはやめて……明菜助けてくれ、お願いだから助けてくれ。今度のことは俺が悪かった。どんな償いでもするから助けてくれ」
 久は泣いていた。大粒の涙をこぼして泣いていた。泣き叫びながら明菜に許しを乞うた。
「麻世さん、もうそれぐらいで」
 オロオロ声で明菜がいった。
 麻世は久の背中から膝を上げ、右手の逆をといた。久はしばらく動けなかった。よろよろと立ちあがった。
「あんたは、化け物か」
 それだけいって、悲しげな視線を明菜に向けた。
「もう、こないで」
 ぽつりと明菜がいった。
「くるよ、何度でも。明菜が許してくれるまで何度も」
 久の顔は涙でぐしゃぐしゃだった。
 ずずっとはなをすすった。
 肩を落して明菜に背中を向けた。
 そのとき、麻世は妙なものを見た。
 あれはいったい……。
「ありがとう、麻世さん。本当に助かった。私一人だったら、どうなっていたやら。本当に麻世さんてすごい」
 久が立ち去ると、明菜は麻世に向かって膝に額がつくほど頭を下げた。
「あの調子だと、またきますよ」
 気になったことを口に出した。
「くるかなあ、あれだけ痛めつけられて」
「きますよ、あれはもう執念だから」
「きたら、またお願いします」
 明菜はぺこりと頭を下げた。
 このあと麻世は、コーヒーを一杯ごそうになって帰ってきたのだが。
「そうか、みごとに追い払ったんだ」
 話を聞き終えた潤一が嬉しそうな声をあげた。
「怪我はさせなかったんだろうな。肩が外れたとか」
 心配そうな口振りは麟太郎だ。
「大丈夫だよ、じいさん。ちゃんと手加減はしたから、無傷だよ」
「それなら、いいが――しかし、またそいつがくるとなると大変だな。お前の出番が多くなるな」
 頭を振りながらいう麟太郎に、
「私の出番は残念ながら、今夜で終り」
 妙なことを麻世が口走った。
「えっ、おい、麻世。それはいったいどういうことなんだ」
 すぐに麟太郎が声をあげた。
「多分、明菜さんは、あのアパートで久さんとまた暮し始める。そういうことだと私は思う」
「ええっ!」
 麟太郎、潤一、八重子の口から驚きの声があがった。
「私に痛めつけられている久さんを見て、明菜さんの体のなかで何かが変ったんだと思う。あの情けない姿を見て、母性が働いたのか、恋心が再燃したのか。それはわからないけれど、明菜さんはあの瞬間、久さんを許したような気がする」
「そんなことが……」
 首をかしげる潤一に、
「だから、明菜さんはもう、この診療所にも通ってこないと思う。ちゃんと元通りの居場所を確保したから、病気のほうも治るはずだよ」
 麻世は淡々と口にした。
「もしそうなら、お前がいったように、潤一。意味合いはかなり違うが、恋というのは魔物だな。何がおこるかわかったもんじゃねえ」
「ああ、まあ、そうだな」
 嫌そうに答える潤一の声を追いやるように、
「さっき麻世さんは、事の最後に何か妙なものを見たっていってたけど、あれは……」
 怪訝な面持ちで八重子が訊いてきた。
「あれは――」
 と麻世はちょっと困った表情をしてから、
「押えつけられていた久さんが立ちあがって背中を向けたとき、それまで無表情だった明菜さんが笑ったんだ。変な笑いだった」
 一気にいった。
「変な笑いとは、どんな笑いだ」
 勢いこんで麟太郎が口を開くと「あれは……」といって麻世は宙を睨んだ。そして、
「私は学がないから、自分の感じたことしかいえないけど。正直に言葉にすれば、モナリザの微笑みのような」
 困った表情で、ぼそっといった。
「モナリザって、あの、ダヴィンチのか……」
 あっにとられた思いで麟太郎は声をつまらせる。
「何だかんだいっても、明菜さんは久さんが訪ねてきたのが嬉しかったんだと思う。というよりも、ひょっとしたら戻ってくるんじゃないかという期待感のようなものを抱いていたんじゃないかって……だから」
「だから、何だ」
 詰問口調の麟太郎に、
「だから、今回の大切な記念として、あの包丁を取っておいたんだよ」
 掠れた声を麻世は出す。
「つまりだな。あの包丁はやっぱり、今回の大切な記念のためのもので、そして明菜さんは久さんが戻ってきたことが嬉しくて、思わず笑みを浮べた――結構なことで万々歳じゃないか。どこの何が変なんだ。どうも、お前のいっていることはよくわからねえ」
 麟太郎は首を捻り、
「大体、お前のいっている、その、モナリザの微笑みというのは、どんな類いの笑いなんだ」
 単刀直入に訊いてみた。
「あれは……」
 麻世はちょっといいよどんでから、
「女の人の、覚悟の笑いだよ」
 はっきりした口調でいった。
「あっ」と八重子が声をあげた。
「覚悟の笑いということは、久さんがまた今回のようなことをしたら、明菜さんは……」
 ようやく麟太郎にもわかった。
「あの包丁を、久さんに使うってことか」
 叫ぶような声を出した。
「私にはそう見えた。あの笑いの奥に殺意のようなものが。私の勘はそういっていた」
「そうか。何度も修羅場をくぐってきた麻世の勘が、そういっていたのか」
 ざらついた声をあげる麟太郎に、
「だけど親父。久さんが、おとなしく明菜さんと暮せばそんなことはないわけで――それに、そんな幸せな暮しをしていれば、明菜さんだって心変りを」
 珍しく潤一が前向きな言葉を口にした。
「そうだな、そう願いたいな――しかし、人間というのは厄介なもんだな。本当に厄介なもんだ。本当によ……」
 麟太郎は両肩をすぼめ、大きな吐息をもらして視線を膝に落した。

               (つづく)

【第一章】

池永 陽(いけなが・よう)
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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