見出し画像

【刊行直前特別連載!】鶴は戦火の空を舞った 第一章 2/岩井三四二

(第一章 死と隣り合わせの任務 )

二 

 翌朝、英彦は所沢の飛行場にほど近い借家で目覚めると、布団の上で腹筋運動をはじめた。朝と寝る前の日課である。
 百回を終えたところで腕立て伏せにうつり、五十回をこなしてから、片手腕立て伏せを左右それぞれ十回ずつ。朝の仕度にかかるのはそれが終わってからだ。
 新婚当時、妻の亜希子あきこから、
「どうしてそんなに熱心に体を鍛えるの」
 とかれたものだが、
「なにごとも常に向上するようつとめるのは、軍人として当たり前のことだからな」
 と答えたら、それ以上何も言わなくなった。昼間の勤務中も、暇ができると腕立てや懸垂をしたりするので、同僚などからは「捨てるほど体力があるってことだ」とからかわれるが、あるいはそれが真相かもしれない。
 いずれにせよ、いまや習慣になっているので、やらないと落ち着かない。
 仕度を終え、出勤しようとして玄関で軍靴のひもを結んでいると、
「夕食と明日の朝食は、ばあやに頼んでありますから」
 と亜希子が言う。今日から一泊でじろの実家に帰るのである。
「ああ」
 と生返事をして、英彦は家を出た。
「しょうがねえやつだな」
 つい愚痴が出る。あたりは畑と林ばかりで、おしゃれな店など一軒もないこの所沢での暮らしが、亜希子はお気に召さないようで、何かと口実をもうけては実家に帰りたがる。
 所沢に来る前は第一師団工兵第一大隊の所属だったので、本部のある赤羽台あかばねだいに住んでいた。亜希子の実家のある目白は近かったから、しげしげと実家に帰ってもそれほど暮らしに差し障りはなかった。
 しかし所沢からとなると、それほど本数もない汽車で片道三、四時間はかかるから、どうしても泊まりがけとなりがちだ。留守の間、家の中のことはばあや──近所の農家のおかみさんを家政婦がわりにしている──まかせになってしまう。
 亜希子は子爵家の娘である。英彦が幼年学校にいるうちに親同士が許嫁いいなずけと決めた。英彦が中尉になって、俸禄ほうろくが少しあがったのを待ちかねたように式をあげ、所帯をもった。
 六歳下の亜希子は初々しく、また大きな目と薄い唇が印象的な美女だったから、結婚した当初は英彦もまんざらでもなかった。また英彦自身も切れ長の目に鼻筋がとおった美男といえる顔立ちなので、まるで西洋人形のような夫婦だといわれたものだ。
 ところが結婚して二年もすると亜希子は家事を怠るようになり、それをとがめる英彦とたびたび口げんかをするようになった。
 亜希子は、英彦の中尉としての俸給に不満なようだった。買いたいものも買えず、水仕事ばかりさせられる、と怒っていた。
 英彦からすれば軍人の安月給は承知の上だろうし、主婦が水仕事をするのは当たり前だと思うのだが、子爵の令嬢として育った亜希子にしてみれば、思惑違いだったようだ。
 結婚三年目にしてすでにふたりの仲は冷め切っているが、家に帰れば飯が出てくるならそれで十分だと英彦は思い、いまのところは表面を取りつくろって夫婦の暮らしをつづけている。だが今日のようなことがつづくと、さすがに悟ったようなことばかり言ってもいられなくなる。
 ──そもそも貧乏中尉が子爵家のご令嬢と結婚したのが間違いだよな。
 とは思うが、それだけに世間体もあって離婚は考えられない。この状態がいつまでもつづくのかと思うと、ため息をつきたくなる。
 もやもやした気分を抱えながら、英彦は飛行場へ出勤した。 

 訓練生全員が初飛行を終えたので、操縦訓練はつぎの段階にうつった。
 といっても、徳川大尉がにぎる操縦桿に手をそえるようになっただけである。
「ただ手をそえて、操縦桿の動かし方を感得せよ」
 というのが徳川大尉の教え方だった。自身もフランスでこのように教えられたという。
 訓練生たちは、言われるままに大尉の右こぶしの上に手をのせ、その動きを体感した。
 するとどうやら操縦桿は、前後左右にせいぜい十五~二十センチほど動かすだけで事足りるとわかった。それを適当な時に適当な大きさでおこない、同時に左手でスロットル・レバーを操作すれば、飛行機は操縦できると感じた。
 その日も、英彦が同乗したファルマン機は離陸するといつものようにまっすぐに飛び、三分ほどで左旋回して飛行場に引き返し、着陸した。英彦は機からおり、かわりに木村中尉が乗った。
 また飛び立っていったファルマン機を見ながら英彦は、
「どうにもまだるっこしくって、仕方がねえ」
 とつぶやいた。
「たしかにな。一日に数分の搭乗で、いつになったら操縦法が身につくのかね」
 とおなじ訓練生のとく金一かねいち中尉も言う。山口県出身で、ぎょろりとした目が印象的な男である。
「飛行機が少なすぎるんだよな」
 飛行時間が短いのには、もちろん理由がある。この所沢には五機の飛行機があるが、教官が訓練生を指導できるのは、アンリ・ファルマン機だけなのだ。
 ほかの機は単座か、複座でもふたつの席が隔たっていて、後席の者が操縦桿に手をかけることはできず、教育飛行には向かない。
 そしてこのファルマン機がよく故障する。故障とまでいかなくても、張線が切れたり布張りの翼が発動機の油をあびて膨れあがったり、といった不具合はしょっちゅう起きた。そのたびに修理に時間がとられ、飛ぶ時間が短くなる。
 その上、指導教官が徳川大尉ひとりだから、どうしても訓練生は待ち時間が多くなる。
 教官としてはもうひとり、日野大尉があたるはずだったが、どういうことか研究会委員を免ぜられ、福岡の歩兵連隊に配転になってしまった。
 うわさでは、日野大尉は協調性に欠けるところがあり、飛行機や発動機の手入れに熱中するあまり、尊貴の方が所沢を訪問したときに迎えに出なかったりして、上層部の機嫌をそこねたという。
 つまらない話だと思うし、もちろん真相はわからない。しかし軍がそういう融通の利かない、冷徹な組織の一面をもっているのは確かだった。
 そうして日に一度、五分ほどの同乗飛行を繰り返すうちに、夏の暑さは薄らいでゆき、心地よい秋風を頰に感じるようになった。
 その日、無事に五分ほどの飛行を終えて着陸したあと、ファルマン機をおりた英彦は徳川大尉に、
「ありがとうございました。つぎはそろそろ、操縦させてもらえませんか。うまくやれる自信はありますんで」
 と申し出てみた。実際、飛行のコツはもうみ込んだと思っていた。
 だが徳川大尉からは、
「馬鹿者、貴様などまだ早い。飛行機を見くびるな!」
 と一喝されてしまった。どうやら徳川大尉の頭の中には、教えるにあたって確たる日程があるらしい。訓練生の分際でその日程を乱すなど、あるまじきことのようだった。
「それほどむずかしいとは思えねえがな」
 と、英彦は兵舎での昼食のときに、同期の仲間にこぼした。
「そうだな。操縦桿を動かすだけだからな。たいした技術じゃない。もったいをつけなくてもいいのに」
 と言うのは徳田中尉だ。
「訓練期間は一年だから、あんまり早く習得してしまっても具合が悪いんじゃないか」
 と木村中尉は八の字髭をなでながら言う。ふたりとも陸軍士官学校十九期卒で、英彦より一年上になるが、訓練生が少ないこともあって、先輩風を吹かすことはない。
 ふたりは真面目でちょうめんなところも似通っていて、講義の時間でもよそ見しがちな英彦とちがって、静かにノートをとっている。
 操縦訓練生の出身兵種は歩兵や砲兵、工兵などさまざまで、勤務地も各地に散らばっていた。徳田中尉など、台湾たいわんの連隊に赴任していたのである。当然ながらみな空を飛んだ経験はないし、ガソリン式の発動機すら見るのは初めて、といった連中ばかりだった。
「座学との釣り合いをとっているんじゃないですか。飛行機学ってのは、むずかしいですからね。気象学のほうも、どっこいどっこいですが。そちらのほうが進まないと、飛ぶことは許さぬというのじゃないですかね」
 童顔の武田少尉がしたり顔で言う。
 訓練生たちは実技とともに学科も学んでいた。まず飛行機学と発動機学でそれぞれの作動原理やその元となる物理理論を、そして気象学で天気の見方や上空の風の吹き方などを学び、最後に飛行機操縦学が教えられる。
 また自動車の運転や整備の仕方も教えられる。これは発動機を載せた輸送機械という点が飛行機とおなじと見なされて、どうせなら一緒に学べ、ということになったらしい。
 ガソリンで走る自動車は十数年前にはじめて日本に入ってきたが、高価なため所有者は大金持ちにかぎられている。いまだ東京全体でも百五十台あまりしかないといわれていて、所沢にも一台あるきりだ。
 講師陣は徳川大尉のほか、帝国大学の教授で気球研究会の委員でもあるなかだて愛橘あいきつ氏やその教え子たち、また中央気象台の技師で、やはり研究会の委員である中村なかむらきよ博士など、豪華なメンバーである。
「学科もいいが、だからといって実技を遅らせる理由にはならんだろう」
 正直なところ、英彦は座学にはあきあきしていた。
 飛行機が飛ぶ原理は、流体力学に基づいて説明される。ベルヌーイの定理からはじまって翼理論、揚力係数などと数式を書きつつすすめられた講義は、眠気を誘うには十分すぎるほどの難解さだった。
 訓練生に共通しているのは、若いことと、度胸があることだ。
 なにしろ飛行機はまだまだ未完成の技術で、飛ぶことはできるが、突然の強風にあおられて姿勢をくずすだけで、すぐに墜落するような代物だった。操縦桿がきかなくなったり、発動機が故障するのも日常茶飯事で、そうなればたちまち墜落してしまう。
 たとえ高度が十メートルでも、落ちれば乗っている人はただではすまない。だから飛行機はひどく危険な乗り物だ、というのが世間の見方で、実際、それはまったく正しいといってよかった。
 現に所沢の飛行場ができて一年ほどの短いあいだにも、滑走路からの上昇に失敗し墜落、機体が大破したり、滑走路をそれて横の斜面に落ちたりといった事故が起きていた。徳川大尉も一度、発動機の不調で川越かわごえの麦畑に不時着している。
 幸いにもここまで、死者も重傷者も出ていないが、飛行機はかなり損傷していた。
 それがわかっていても飛びたいと志願してきたのだから、訓練生たちは度胸があるのか危険に対する感度が鈍いのか、どちらかということになる。さらにいえば、士官学校での成績がぱっとしなかった、という点もだいたい共通していた。
 軍の中での出世、すなわち昇進は、陸軍であれば士官学校、海軍では兵学校での卒業席次によるところが大きい。
 席次が高ければ、卒業後に陸軍大学校や海軍大学校への進学も容易になり、昇進も早い。将軍への道もひらけてくる。
 まじめに目前の軍務をつとめていれば、将来の出世が見込める。士官学校の成績優秀者は、こんな危ない試みにつきあう必要はないのだ。それより陸軍大学校への受験勉強をしたほうが、よほど確かな出世への道である。
 とくに徳田中尉らの十九期は、日露戦争で士官がばたばた戦死したことに狼狽ろうばいした陸軍の上層部が、士官の大量養成をめざして一気に学校の定員を拡大した年にあたるため、同期生が千人を超える大所帯となっていた。
 そんな中で出世をめざすとすれば、卒業席次が五十番以内でないと無理だとの声があがっているのである。千人中の上位五十人に入っている者は、訓練生の中にはいない。だからか、
「馬鹿と煙は高いところにのぼりたがる」
 と訓練生を冷笑する雰囲気もあった。
 英彦も例外ではない。陸士二十期で同期生は三百人に満たないが、卒業席次は真ん中あたりだった。
 士官学校に入る前は東京で陸軍幼年学校に通っていたが、そこでは語学や国語、歴史などが得意で、成績は常にトップクラスだった。
 しかし士官学校にはいって兵学と教練が主となると、成績は急に悪化した。
 築城学や軍制学、兵器学などの兵学がどうも好きになれなかったのである。だから試験勉強にも身が入らず、点数は低くなった。
 だが語学など一般科目は幼年学校時代と変わらず優等だったし、柔道と剣術、銃剣術に体操、馬術などもよくできた。さらに視力がいいこともあって射撃は優秀な成績をおさめた。総合してみると真ん中あたりの席次になっていたのである。
 操縦訓練を志願した理由を、周囲には「飛行機という新しい技術が将来、きっと軍の役に立つから」と説明していた。しかしそれは建前だと自分でもわかっていた。地をうような工兵の軍務が面白くない、というのも大きな理由ではあるが、そればかりでもない。
 当初は自分でもはっきり言葉にできなかったが、飛行訓練を重ねるうちに、本当の理由が見えてきていた。
 つまるところ、冒険をしたいのだ。刺激が欲しいのだ。
 はじめて飛行機なるものの存在を知ったのは士官学校にいたころで、明治四十一、二年だったとおぼえている。新聞紙上に、「人類ついに空を飛ぶ」という見出しとともに、アンリ・ファルマン機に似た複葉機が空に浮かんでいる写真が出ていた。
 ライト兄弟が初飛行に成功したのはその数年前だったが、当初は特許が未取得だったこともあって、彼らは自分たちの偉業を積極的に世に知らせようとしなかった。特許が認められたあと、公開飛行などをして広報に力を入れはじめたのが、明治四十一、二年だった。
 ただ、その当時は新聞記事を読んでも、
「なるほど、文明がすすめば人は空も飛べるのだな」
 と思っただけだった。おどろきまた感心したが、自分が飛べるとは思っていなかった。
 空を飛びたいと痛切に感じたのは、士官学校を卒業して二年目、工兵少尉として演習をしていたときだった。
 その日は演習地の端から数百メートル先の敵陣をめがけて、坑道を掘っていた。
 敵陣地の真下まで掘り進んでそこに爆薬をしかけ、地中から敵陣地を吹き飛ばす、という戦法である。日露戦争ではりょじゅん要塞を落とすのに効果があったという。
 兵たちが穴を掘るのを督励しつつ、進行方向が正しいかどうか確かめ、強度を計算して支柱の数と配置を決め、と将校は暗い地中でもやることは山ほどある。
 演習が終わって坑道を出たのは、夕方だった。夏のことで坑道の中は蒸し暑かった。汗まみれとなった体に夕風が心地よい。
 ふと空を見上げると、背が黒く腹が白い小さな鳥が飛んでいる。尾の形からつばめだとわかった。巣に帰るのかと思って見ていると、空中に弧を描いたり斜め下に飛んだりと、自在に飛び回っている。
 そこへもう一羽があらわれた。二羽はじゃれ合うように互いのまわりを飛びかわす。ひとときの空中ダンスを踊り終えると、つれだって高空へと飛び去っていった。
 ──ちくしょう、いいなあ。
 と、立ち尽くして見とれていた英彦は思った。空を飛べるとは、あんなにも優雅で自由なものなのか。それにくらべると、地に縛り付けられている自分たちは、なんと惨めなことか。
 ひとりで大空を自在に飛び回れたら、どんなに爽快だろうか。しかも敵地上空を飛ぶなど、刺激的だ。きっと毎日が冒険で、退屈せずにすむだろう。そう思ったのがまことの志望動機だった。軍内で飛行機の操縦将校が募集されると聞き、一も二もなく応募したのだった。
 ほかの連中も、似たような経緯で応募してきたと思われる。要するに訓練生たちは、軍内のはみ出し者の集団だ。
 そうして訓練を重ねつつも、不満がつもる日々を過ごす英彦たちに変化が訪れたのは、八月半ばだった。
 新しい教官がやってきたのだ。

次話に続く)

【前回】

プロフィール
岩井三四二(いわい・みよじ)
1958年岐阜県生まれ。96年「一所懸命」で第64回小説現代新人賞を受賞し、デビュー。98年「簒奪者」で第5回歴史群像大賞、2003年『月ノ浦惣庄公事置書』で第10回松本清張賞、04年「村を助くは誰ぞ」で第28回歴史文学賞、08年『清佑、ただいま在庄』で第14回中山義秀文学賞、14年『異国合戦 蒙古襲来異聞』で第4回本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞。他に『鹿王丸、翔ぶ』『あるじは信長』『むつかしきこと承り候 公事指南控帳』、『絢爛たる奔流』、『天命』『室町もののけ草紙』『「タ」は夜明けの空を飛んだ』など著書多数。

岩井三四二さん『鶴は戦火の空を舞った』は
5月21日に集英社文庫より発売!

【詳しくはこちらから】


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?