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【刊行直前特別連載!】鶴は戦火の空を舞った 第一章 6/岩井三四二

(第一章 死と隣り合わせの任務 )

六 

 桜がちらほらと咲きはじめた三月二十八日、英彦たちは朝六時に滑走路前に並んでいた。
「用意はよいか」
 飛行服に身をかためた徳川大尉が、英彦たちを見ながら声をかける。英彦たちは真っ先に駆け出そうと、右足を半歩前に出していた。
 滑走路には、すでに点検を終えた会式機二機とブレリオ機が置かれ、整備員たちがまわりを取り巻いている。
「では、かかれ!」
 大尉の声で、英彦と八の字髭の木村中尉がまず駆け出した。徳田中尉と武田少尉がそれにつづく。
 競争のはじまりだ。
 英彦は会式機の二号機に飛び乗る。待機していた整備員が、武田少尉が後席に乗ったのを確認してからプロペラを回した。その横では木村中尉と徳田中尉が乗るブレリオ機、そして後方では徳川大尉の会式機三号機が、それぞれ轟音ごうおんをあげはじめている。
「よし、発進!」
 英彦が手をあげる。機体を押さえていた整備員たちが横に飛びのく。
 会式機の機体が前進をはじめた。左手のスロットルは全開に近い。
「離陸する!」
 十分な速度になったところで操縦桿を引く。反応した機体はふわりと浮き上がり、機首を上にして上空へと駆けのぼってゆく。
 ちらりと横を見る。木村中尉のブレリオ機も、ほぼ同時に離陸していた。
 百メートルほど上昇すると、水平飛行に移った。
 めざすはここから東へおよそ三十キロの、東京市内にある青山練兵場。
 そこで今日、飛行機の見学会が催されることになっていた。軍が「航空思想の普及」、すなわち飛行機の必要性を広く世間に認知してもらうために、春の議会が終わる日程に合わせて、議員や政府高官たちに対して飛行機を見せようとしているのだ。
 そのために所沢から飛んでゆくのだが、ただ飛ぶだけではもったいないと、競争することになった。英彦が提案したのだ。
「誰が一番速く飛べるか、訓練生のあいだで勝負しましょう。速いってのは武器にもなりますからね」
「貴様が言いそうなことだな。何かと勝負したがるやつだ」
 徳田中尉がからかうが、反対する者はいなかった。ふだんは規律にうるさい徳川大尉も、そうしたこともたまにはいいだろうと許容する態度だったので、話はすんなりと進んだ。
 まずは全員で予選をした。
 ひとりずつ好きな飛行機に乗り、所沢を離陸してまっすぐ南へ飛んで十キロほどのところにある谷保天満宮をめざす。拝殿の大屋根を越えたら旋回し、所沢へもどって着陸する。かかった時間を計り、上位ふたりが今日の競争にのぞむ。
 一位は十七分三十二秒で、会式機に乗った英彦だった。
「貴様は目いっぱいにふかすからな」
 とみなに言われた。たしかに英彦は発動機の調子にかまわず、直線飛行ではスロットルを開きつづける。少しでも速く飛びたいと思うのだ。他の者は速さへの恐怖もあってか、少しは遠慮があるのに、英彦にはそれがなかった。
 十七秒差でブレリオ機の木村中尉が二位となった。あまり飛ばす性格ではないが、真面目で最先任であり、訓練生のトップは自分だという自覚をもっているので、こうしたことでも負けられないと頑張ったのだろう。
 ふたりが操縦して、青山練兵場まで競争することになった。どちらの機もふたり乗りとし、後席に乗る者が進路を教える役目を果たす。
 英彦は張り切っていた。勝っても賞品は何も出ないが、競争はやはり血が騒ぐ。
「やっこさんは、まだ上昇してますよ!」
 うしろから武田少尉が怒鳴る。の上にブレリオ機が見える。木村中尉は高度五百メートルほどで飛ぶつもりらしい。
 英彦は高く上昇せずに、百メートルほどの上空を一散に東へと向かう。
 会式機は発動機の馬力が不足していてゆるい角度でしか上昇できないので、高空に昇るには時間がかかる。それだけ前進が遅れるのだ。
 しかし高空のほうが気流が安定していて安全に飛べる。低いと地上から思わぬ上昇気流が吹き上がってきたりするので、危険だった。
 ブレリオ機の木村中尉は優等生らしく基本に忠実に安全策をえらび、英彦は安定を捨てて早めに距離を稼ぐ作戦に出たのだ。
「なあに、三十キロくらいなら、低いほうが速いさ」
 英彦は言った。まっすぐ飛べば二十分ほどの距離だ。上昇と下降にかかる時間は馬鹿にならない。とは言うものの、実際に青山まで飛んだことはないので、先行きはわからない。
「おお、先行していますよ」
 と武田少尉。ブレリオ機が後方上空に見えるという。
「差は五百メートルってところですかね。けっこう開いてます」
「よし。まかせろ。このまま逃げ切るぞ」
 あとはまっすぐに飛ぶだけだ。少々風があるものの、雲は少なくて青空が広がり、視界もよい。
 眼下には武蔵野の畑と林がひろがっている。東京市内までは高い山も谷もない。ただのっぺりとした野があるだけだ。
 しかしそれでも、風が吹き上がってくるところはある。深い森のへりや川の上空などだ。英彦は、そうしたところをなるべく避けて飛んだ。
「少し流されてます。左寄りに飛んで」
 と、後席で地図を見ている武田少尉が言う。北風で押し流されているようだ。
 機上には方角を示す機材などなにもないので、地図と地上のようすを照らし合わせて航路を決めている。いまはきよの町を目印にして飛んでいた。
 晴れてはいるものの、ときどき強い風が吹いて機体がゆらぐ。そのたびに航路がずれて、修正しなければならない。
「ま、横風が吹くのは上空もおなじみたいですね。それ、やっこさんもゆれてる」
 と武田少尉。ブレリオ機はあいかわらず後方に見えるという。差は開きも縮まりもしていないようだ。
 しゃくの町をすぎると人家が多くなった。見物人も多いから下手な飛行はできない。
 ふわっと機体が浮いたのは、中野駅の上空だった。目の前の景色がゆれ、体が座席に押しつけられた。
「気をつけろ!」
 と叫んだのは、つぎの動きを予期したからだ。上昇のつぎに来るのは……。
 だが機はゆれもせず、水平に飛行している。
「来ないな」
 英彦はつぶやいていた。上昇気流があると、そのあとでしばしば下降気流に遭遇するものだ。そしてこれが危ないのである。とくに着陸寸前に強い下降気流に見舞われると、墜落しなくとも、機体が傷むほど強く下方に押しつけられて冷や汗をかくことになる。
 ほっと気をゆるめたとき、それは来た。
 がくんと機体が押し下げられ、体が浮いた。そして機首が下がり、右側から地面に向かって落ちてゆく。
 武田少尉の悲鳴を聞きながら、英彦はスロットルをゆるめ、操縦桿を強く手前に引いた。そのあいだにかなり高度が下がり、翼端が木のこずえに接しそうになった。
 落ちた機体は、いやいやをするように時間をかけて上昇にうつる。すぐにスロットルを開き、速度をもどした。
 方角も乱れ、本来の航路へもどるためにかなりかいすることになった。
「もうちょっと高度をあげてくださいよ。危なくて仕方がない」
 と武田少尉が声を荒らげる。
「なあに、これで十分だ」
 英彦は落ち着いていた。危険は承知の上で勝負しているのだ。
 ふと気づくと、上方に機影が見えた。
 風に翻弄された隙に、木村中尉に追いつかれたようだ。作戦が裏目に出たか。
「いかん。急ぐぞ」
 スロットルを目いっぱいに開いた。背後で発動機の音が高まり、武田少尉の声が聞こえなくなる。
 ほぼ頭上にある木村中尉のブレリオ機をにらみつつ、低空を驀進ばくしんする。だが木村中尉も速度を落とさないので、差は広がらない。
 新宿の駅をすぎた。ゴールは近い。
 ブレリオ機が降下をはじめた。上昇のときとちがって、降下するのは重力の助けもあるので、速い。
 ここで勝負、と英彦は全速で前進をつづける。広大な原っぱが目の前に広がる。青山練兵場だ。
 ブレリオ機が少し前に出た。
「抜かれましたよ」
 と武田少尉が叫ぶ。
「うるさい、まかせておけ」
 英彦には自信があった。下降時にも発動機をふかしっぱなしにして動力降下することはできるが、着陸を前にして速度を出すのは自殺行為だ。木村中尉は出力を絞りつつ降下するしかない。
 低空を飛ぶ英彦は、わずかに降下しつつも速度をゆるめない。
 ついにブレリオ機を出し抜いた。
 そのまま着陸態勢にはいる。
「わあ、速すぎる。絞ってください」
 と武田少尉に言われるまでもなく、突っ込みすぎなのはわかっていた。だがここまできて負けたくはない。
 横にも前にもブレリオ機が見えないことを確かめ、高度十数メートルでやっとスロットルをもどした。発動機の音が低くなるとともに、地面が近づいてくる。
 速すぎると思ったが、それでも機体を降下させた。ここで負けてなるかと思う。
 着地した途端、機体が弾んだ。
 地面で跳ね返った機体は、また数メートル浮いた。暴れ馬を押さえつけるように、また降下する。ふたたび跳ね返って、また降下。
 通常は三十メートルほどの滑走で止まるのだが、もう五十メートルは走っているのにまだ止まらない。
 百メートルほども走って、ようやく機体は止まった。
 すぐに左右を見まわす。かなり離れたところに木村中尉のブレリオ機が着陸するのが見えた。
「勝った!」
 英彦は喜びの声をあげたが、賛同の声はない。ふり返ると、後席の武田少尉は青い顔でぐったりしており、
「ああ、勝ちましたね。無事でよかった」
 と小声で言うだけだった。 

 この練兵場は、なんといっても広い。むこうの端がかすんで見えるほどだ。
 東西の幅はしなまち駅からせん駅に届くほどで、南北はそれ以上にある。昨年はここで明治天皇の大喪の礼が行われた。
 いくつか兵舎があり、ところどころに目印のように木が立っているほかは、だだっぴろい原っぱとなっていた。
 その原っぱを臨時の滑走路として、会式機が二機、それにブレリオ式の一機を合わせて三機の飛行機がならんでいる。
 それぞれの飛行機には、多くの人があつまっていた。軍服姿の若い陸軍将校より、背広にシルクハット姿の年寄りたちのほうが多く見られる。
 背広の者たちは、衆議院や貴族院の議員たちだった。議員たちばかりでなく一般人も多く詰めかけて、遠くから飛行機と操縦者たちをながめている。
 所沢から飛んできた英彦たち訓練生は、ここで説明要員をつとめることになっていた。陸軍の中で飛行機について話せる者は、いまのところ英彦たち以外にいないのだから、当然である。
「ええ、飛行の原理を説明いたします」
 と英彦は会式機を前に説明している。
「そうそう。原理から教えてもらいたいね。こんなものが空を飛ぶなんて、まったく不思議だ。バテレンの魔術としか思えないね」
 議員のひとりが冷やかすような顔で言う。
「飛ぶためには、揚力というものが大切なのであります。揚力とは揚げる力、であります。まずこちらをご覧ください」
 説明係の英彦は、会式機の主翼の付け根を指で示した。
「いくらか前上がりに傾いております。この傾きを迎え角と申します。そして翼の断面は、上側に盛りあがった蒲鉾かまぼこのような形をしております。キャンバーと申しますが、この迎え角とキャンバー、つまり翼の傾きと盛りあがりが、揚力を発生させるのであります」
 議員はさかんに目を瞬いている。まるで理解できない、という顔つきだ。
「ええ、翼がこう傾いたまま前にすすめば、翼に上向きの力が発生するのは、直感的におわかりかと思います」
 少々わかりにくかったかと思い、英彦はてのひらをいくらか斜めにして、前に動かして見せた。議員は言った。
「斜めになっていれば、下の面にあたる空気が翼を押し上げる、ということかな。単純な話だな」
 議員は少しだけ理解を示す。英彦はうなずいた。
「その通り、単純な話であります。そして翼にキャンバーと呼ばれる盛りあがりがあると、翼の上と下で流れる空気の速度がちがってきます。上の方が速く、下が遅く流れます。すると上の方の気圧が低くなるので、翼は上に吸い上げられます。迎え角による押し上げる力と、キャンバーによる吸い上げる力。このふたつの作用が揚力となるのであります」
 議員は眉間にしわをよせ、考え込むようだ。英彦はかまわずつづけた。
「ええと、このあたりの理屈は、前世紀の半ばごろに欧米で発見されたのであります。鳥のようにはばたかなくても、迎え角とキャンバーさえあれば空中に浮く力、すなわち揚力は得られる、という発見が飛行機を産んだといえましょう」
「ふむふむ。前世紀半ばとは、最近だな」
「はい。ただ、揚力を発生する翼を作れても、それを空の上に押し上げる動力がありませんでした。だから十数年前までは、グライダーで滑空はできても、動力飛行はできなかったのであります」
 訓練生として所沢で学んだことを、英彦は受け売りしているだけだが、議員は初めて聞く話のようで、感心した顔で耳をかたむけはじめた。
「動力となると、人力では弱すぎて駄目ですし、蒸気機関では重すぎて、空を飛ぶには不適でした。実際、蒸気機関をつけた飛行機が試作されましたが、大きすぎ、重すぎて飛べませんでした」
「なるほど。蒸気機関はたしかに武骨で大きいからな」
「ところが技術の進歩は目をみはるものがありまして、おなじく前世紀の後半に、ガソリンを使う発動機が発明されたのであります。これなら軽くて十分な力が出せます。そこで翼に発動機をつけたところ、見事に飛行ができたのであります」
「ははあ、揚力の発見とガソリン式発動機の発明。このふたつを合わせてようやく空を飛べた、ということかな」
「まさにその通りであります。ふたつの技術の進歩によって、鳥のように空を飛びたいという人類の長年の夢が、つい十年ほど前にかなったのであります」
 議員は深くうなずいた。しかし別の議員はまだ首をかしげたままだ。
「理屈は通っている気がするが、まだ納得がいかん。そもそもこの飛行機だって相当重いだろう」
「ええ。およそ七百キログラムあります」
 英彦は答えた。議員は突っ込んでくる。
「それが空に浮くとは、どうにも解せんね。風船や凧じゃないんだから。七百キロといったら、相当なもんじゃないか」
「はあ。もっともな疑問であります」
「だろ。だったらもっと納得できる説明をしたまえよ」
 居丈高になった議員に、英彦はちょっと戸惑ったが、すぐに笑顔になって言った。
「ええ、ではこう考えてください。空気というのは、思っているよりも重いのだと」
「空気が重い、だと」
「そうです。空気は重くて硬いから、七百キロのものを支えられるのです」
「…………」
「大気圧というのをご存じかと思います。それはつまり、この地表から空のうんと高いところまで積み上がった空気の重さによる圧力、と考えられますが、その重さは一平方メートルあたりおよそ十トン、と計算されております。われわれはふだんから大気中で暮らしているので気づきませんが、実はそれほど空気は重いのであります。その中だったら、七百キロくらいのものは軽い、凧みたいに浮いても不思議はない、と思われませんか」
 議員は目をくるくると動かしている。思いもかけぬ話を聞かされて、理解するのに苦しんでいるようだ。
 空気が重いというのは直感的には納得しがたいが、実際に七百キロのアンリ・ファルマン機が空中に浮いているのだから、そのように解釈するしかない。翼で浮くのも、プロペラを回して前進するのも、すべて重くて硬い空気と機体とのあいだで作用・反作用が生じて起きる現象である。
「……なるほど少しわかった気がする。それで、わが国でも飛行機を作りはじめたのかな」
 納得したのか理解をあきらめたのか、議員は話の方向を変えた。
「は。これは会式機と呼んでおりますが、所沢でわれらの上官が作ったものであります」
「おお、立派なものじゃないか。すでに国産機があるとは、心強いね」
 国産といっても大工に作らせた木と布の機体に、外国から輸入した発動機を載せただけで、あまり威張れたものではない。しかし議員の興奮に水を差すことはないと思い、そのあたりは説明しなかった。すると別の議員が、
「以前、ライト兄弟の初飛行を写真で見たことがあるが、この飛行機はそれと似ているな。十年ほど前の初飛行とおなじような機体とは、国産機はあまり進歩していないのじゃないかね」
 と会式機を指さして言う。
 たしかにアンリ・ファルマン機、およびそれを模した会式機は、複葉でプロペラがうしろ向きについており、機首に昇降舵がある点で、人類初の飛行機であるライト兄弟のフライヤー号と似ている。
「ええ、揚力の大きさは翼の面積に比例するので、主翼が二枚あったほうが安心して飛べるのであります。一枚だと、かなりの速度を出しても失速する危険がありますので。初の国産機は安全を重視したと思われます」
 適当なことを言ってあたりを見まわすと、徳川大尉は革製の飛行服を着て、軍の上官とともに、議員の中でも大物とみられる人物に説明をしている。
 また滋野男爵は、知り合いらしい議員と楽しそうに談笑していた。
 滋野男爵は、いずれ貴族院議員になるともうわさされていたので、そのための運動かもしれない、と英彦は思った。男爵ならば、仲間うちの互選で貴族院議員になることができるのだ。
 音楽家で飛行家で、しかも貴族院議員を狙うとは、行動の桁が外れている。しかも飄々として、まったく偉ぶるところがない。なんとも得体の知れない人物である。
 朝からはじめて、さまざまな人に説明しているうちに昼前となった。
 見上げると空に雲がふえ、また風も出てきていた。所沢からもってきた風速計は、風速三ノットを指している。
 三ノットならいいが、風があまり強くなると飛行が困難になり、所沢に帰れなくなる。
「そろそろ撤収しますか」
 ということになり、訓練生たちが乗った三機は順番に飛び立っていった。見物人たちの歓声をあびて練兵場の上空を一周してから、西の方角に飛び去ってゆく。
 木村中尉と徳田中尉は、
「やい錦織、憶えてろ、つぎは負けねえぞ」
 と言いながら笑顔でブレリオ機に乗っていった。
 風の強さを心配しつつ、英彦らは汽車で所沢飛行場へ向かった。三機の飛行機には六人しか乗れないから、英彦は遠慮したのだ。
 英彦ら陸路を帰った者たちは、夕方近くに飛行場に着いた。
 しかし、なにやら門前のようすがおかしい。多くの人が詰めかけており、その警備のためか、警官が入り口付近に立っていた。
 あやしみつつ門を入ってみると、三階建ての観測所のまわりには、ふだんより多くの人が歩いている。憲兵と思われる軍人も数名いた。
「おい、なにがあったんだ」
 留守番だった整備員にたずねると青い顔を向けて、
「一機が墜落しました」
 というではないか。
「どの機だ!」
 思わず聞き返すと、ブレリオ機だという。
 その機は木村中尉が操縦し、徳田中尉が同乗していたはずだ。
「ふたりはどうなった。無事だっただろうな!」
「それが……」
 整備員は下を向く。
 英彦たちは息をのみ、兵舎に駆けつけた。
 ふだん会議室として使われている一室に、ふたりは白布をかけられて横たわっていた。
「おい、うそだろう!」
 英彦といっしょにもどってきた岡中尉が、悲鳴のような声をあげた。
「ついさっきまで元気でいたじゃないか。いくさでもないのに……」
 英彦は無言で、ふたりの遺体を見下ろしていた。
 観測所の屋上から目撃した者の話によると、木村中尉操縦のブレリオ機は、十一時五十分には飛行場の東方約三キロの地点まできていた。
 さらに近づいて約一キロの地点で、滑走路に入るために左旋回をしたところ、左翼が途中から折れた。
 突風にあおられたようだという。
 そのため機体は回転して上面が下向きになり、さらにねじれるように前頭部が下がり、ほとんど垂直に降下していった。
 その過程で折れた左翼が飛び散り、右翼も折れた。翼を失った機体は速度を増し、弾丸のような速さで地面に墜落していった。
 飛行場から急いで救護員を派遣したが、木村中尉は頭蓋骨の複雑骨折、徳田中尉は頭部と胸を強打して、すでに絶命していたという。
 殉職である。
 遺体を前にして英彦にできることは、静かに手を合わせることだけだった。そして胸の内でつぶやいた。
「これが飛行機乗りだ。空を飛べるといっても、いつも墜落死の危険と隣り合わせなんだ」
 厳しい現実を突きつけられて、自分の踏み込んだ道が修羅道だとやっと腹に落ちた。
 木村中尉のように真面目に熱心に訓練に取り組み、教えられた通りに基本に忠実な操縦をしていても、魔の一瞬は訪れる。飛行機乗りは一見華やかに見えて、じつは前触れもなくあっさりと命を奪われる職業なのだ。
 それは飛行訓練を志願したときからわかっていたはずだが、覚悟ができていたかと問われると、首を縦にはふれない。実際、そこまで突き詰めて考えてはいなかった。空を飛べることに浮かれていたのだ。
 ──おい、本当にこの道を進むつもりか? 危なすぎるぞ。後悔しないか?
 英彦は自分に問いかけてみた。そして人々でごった返す兵舎を出て、滑走路に出た。答はすぐに出た。
 ──冒険なんだから、危険はつきものさ。
 いくら危険でも、空を飛ぶ魅力のほうがまさっている。この魅力にはあらがえない。
 気がつくと、曇った空をあおぎつつ、胸のざわめきを抑えるためか、拳を強くにぎっていた。

次話に続く)

【前回】

プロフィール
岩井三四二(いわい・みよじ)
1958年岐阜県生まれ。96年「一所懸命」で第64回小説現代新人賞を受賞し、デビュー。98年「簒奪者」で第5回歴史群像大賞、2003年『月ノ浦惣庄公事置書』で第10回松本清張賞、04年「村を助くは誰ぞ」で第28回歴史文学賞、08年『清佑、ただいま在庄』で第14回中山義秀文学賞、14年『異国合戦 蒙古襲来異聞』で第4回本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞。他に『鹿王丸、翔ぶ』『あるじは信長』『むつかしきこと承り候 公事指南控帳』、『絢爛たる奔流』、『天命』『室町もののけ草紙』『「タ」は夜明けの空を飛んだ』など著書多数。

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