【刊行直前特別連載!】鶴は戦火の空を舞った 第二章 1/岩井三四二
第二章 青島空中戦
一
大正三(一九一四)年九月下旬──。
けたたましく電話が鳴った。
中華民国山東省の一角、即墨という地に設けられた飛行場の、格納庫がわりに張られた天幕の中である。
当番兵が出ると、軍司令部からだった。徳川大尉がかわった。
「いやな予感がするな」
と武田少尉が言い、小さめの鼻をうごめかせた。天幕の中では、英彦たち飛行隊員が運ばれてきた荷を片付けつつ、徳川大尉の応答に耳をそばだてていた。
徳川大尉は二度、三度とうなずき、「了解、直ちに対処いたします」と言ってから受話器をおいた。すぐにこちらをふり向き、
「おい、上空のルンプラーを追い払えとよ」
と言う。
「そう言われても……」
天幕の外へ出た武田少尉が空を仰いで言う。
「相当高いところを飛んでますよ。まず二千はあるな。いまからじゃ届きませんよ」
英彦も外へ出て、目を細めて上空を見た。青空の中を、鳩の形をした灰色の飛行機がゆったりと飛んでいる。ここから見ると親指くらいの大きさだが、発動機の爆音だけは一人前に大きく響き、地上を圧している。
「ぐずぐず言うな。おい錦織中尉、操縦しろ」
「はっ、直ちに出撃します!」
「武田少尉は軽機をもってうしろに乗れ」
「うぇっ、軽機って、手持ちで撃つんですか」
「小銃や拳銃じゃあ落とせんだろう。ほかに手があるか。司令部からの命令だぞ」
「うーん、まいったな。わかりました。軽機、軽機と」
武田少尉は身軽に天幕を出て、軽機関銃を据えてある銃座へ駆け出した。
英彦はすでに飛行服を着ていたので、飛行帽とゴーグルを手にして滑走路へ向かった。
「おーい、出撃だ。出せ!」
格納庫がわりの天幕にいる整備員たちに怒鳴った。モーリス・ファルマン機──アンリ・ファルマンの弟が設計製作した飛行機で、形もよく似ている──に整備員たちがわらわらと駆け寄り、機体を滑走路へ押してゆく。
英彦は急いで機体に目を光らせる。いくら緊急時とはいえ、飛行前の点検は欠かせない。
「ひゃあ、重い重い」
ぶつぶつ言いながら、武田少尉が肩に軽機関銃をかついで走ってくる。
ルイス式軽機関銃は英国製で、銃身の上にお皿のような弾倉をのせており、弾丸も合わせれば重さ十五キロほどだろう。ふつうは二脚架で地上に固定して撃つのだが、飛行機の上ではどうなるか。
「慣れないからといって、うしろからおれを撃たないでくれよ」
操縦席にすわる英彦は、軽機関銃を抱えて窮屈そうに後席にすわる武田少尉に言った。
「は。気をつけますが、なにせ初めてですから、間違えたらごめんなさい。平にご容赦」
「容赦できるか。発動機、回せ!」
プロペラが回る。爆音が一定に落ち着いたら、左手をあげて合図する。機体を押さえていた整備員たちがさっと離れ、機体が前進をはじめるところは、アンリ・ファルマン機といっしょだ。
アンリ・ファルマン機とモーリス・ファルマン機のちがいというと、主翼が幅広くなって機体の造りが頑丈になり、発動機がルノー七十馬力に替わって速度と上昇限度が向上したことだろうか。アンリ・ファルマン機はせいぜい時速六十~七十キロしか出なかったが、モーリス・ファルマン機は時速九十キロ近くまで出せる。
青山練兵場からの帰途、ブレリオ機が墜落して木村、徳田両中尉の殉職事故が起きてから一年半がすぎていた。
事故は新聞でも大きく報道されるなどひと騒動となったが、それで飛行機の研究をやめるわけにもいかない。事故原因が綿密に調べられ、機体の強化など対策を講じつつ、軍用気球研究会は活動をつづけた。
その後は英彦ら訓練生一期の生き残りが講師となって二期生、三期生を育成し、飛行士をふやしていった。
飛行機も、フランスから最新のモーリス・ファルマン機四機とニューポール機二機を輸入し、保有機数が一挙に二倍以上となった。いま飛行隊の主力はモーリス・ファルマン機である。
そうした飛行機や研究会の変化よりも、さらに大きな変化を見せたのは国際社会、なかでも欧州だった。
大正三(一九一四)年六月二十八日、サラエボという中欧の都市で、オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子がセルビア民族主義者によって暗殺された。
これがきっかけとなって、八月一日にはドイツがロシアに宣戦布告をし、三日にはフランスにも宣戦布告。六日にはイギリスが陸軍の大陸派遣を決定と、欧州は一気に大戦争になだれ込んでゆく。
日本もドイツに宣戦布告した。大正三年八月二十三日のことだった。
表向きは、日英同盟のよしみで英国から参戦依頼があったからとなっているが、それよりアジア太平洋地域におけるドイツ利権──山東省のドイツの租借地、膠州湾一帯と山東の鉄道利権──の奪取が目的だった。
日本軍部はドイツの軍事拠点、膠州湾に面した青島要塞を攻略しようとした。
久留米の第十八師団を中心に、和歌山、東京、広島などの部隊をまじえ、兵員五万人以上の独立混成師団が編成された。司令官は第十八師団長の神尾中将である。
気球研究会の航空隊も参戦を命じられたので、飛行機を青島要塞近くまで運ばねばならなかったが、これが大仕事だった。
飛んで行くことができればいいのだが、これまで最長の飛行記録は、所沢から名古屋までである。海を渡って大陸まで飛ぶなど、とても考えられない。
そこですべての飛行機を解体して木箱に詰め、汽車と船で現地まで運ぶことになった。
所沢の飛行場で梱包して、大きな木箱を牛車で駅までそろそろと運び、汽車に乗せたのが八月二十四日。
二十八日に宇品港を出航、九月二日に山東半島の北側、青島の裏手にある龍口に到着、上陸した。その陣容は飛行機四機のほか、飛行将校と整備の下士官、兵を合わせて三十名ほど。
龍口では上陸したものの暴風雨にたたられ、陸揚げした飛行機の組み立てもままならず、数日は泥まみれの滑走路と格闘しなければならなかった。
青島に近い即墨に滑走路を設営し、山東半島を横断して龍口から飛行機を送り込んだのは、九月二十一日のことだった。
滑走路の近くに神尾中将の司令部があるが、ここへ青島要塞から敵機が飛んでくる。当然ドイツ製で、ルンプラー・タウベという単葉機である。さきほどこれが飛んできたので、ちょうど到着したばかりの陸軍飛行隊に対して司令部から、飛行機を使って追い払えとの命令が出たのだ。
英彦のモーリス・ファルマン機が離陸し、ルンプラーめがけて上昇をはじめた。
「うーん、まだまだ遠いな」
後席の武田少尉が、トンボほどの大きさのルンプラーを見てのんびりとした声を出す。英彦は言った。
「高度二千メートルか。昇るまで敵さんが待っててくれるかな」
「おれなら逃げますね。待っていたってろくなことはないし、第一、偵察するだけなら十分もかからないでしょ」
「だったらあれが逃げないよう、祈れ」
操縦席の前についている高度計を見た。まだ三百ほどだ。
技術の進歩はここにもあって、ヨーロッパから輸入した高度計が、いまやすべての機に取りつけられている。試したところ、このモーリス・ファルマン機は三千メートル以上まで上昇できた。ただ、そこまで達するには一時間以上かかったのだが。
飛行服も、革製の専用のものを使うようになっていた。
高度数百メートルまでならばさほどでもないが、高度二千メートルとなると、気温は地上より十数度は低くなる。その上、搭乗員は時速数十キロから百キロで移動する機上で吹きさらしになるので、布製の軍服などでは寒くてとても長時間乗っていられない。風を通さない革製の衣服に、頭と顔をすっぽりと覆う飛行帽、風や飛来物から目を保護するゴーグルが、いまや飛行には必需品となっている。
「ちょっと近づいたかな。やあ、ルンプラー・タウベだ。なつかしや」
「本当に鳩だな」
敵機は主翼端を後方に曲げ、尾翼は左右に三角形に張り出していて、下から見るとまったく鳩が翼を広げたような姿をしている。
ルンプラーというのは製造会社の名で、タウベはドイツ語で鳩を意味する。その名のとおり鳩形飛行機だ。
しかしこれが侮れない性能をもっている。発動機はメルセデス百馬力と強力で、最高時速は百二十キロに達する。しかも非常にあつかいやすいというので、世界中で好評価を得ていた。
日本の民間組織、帝国飛行協会もタウベを二機を保有していて、開戦前に陸軍はこれを買い上げ、武田少尉に飛行訓練を命じていた。それで武田少尉は飛行協会の磯部鈇𠮷という技師──元海軍機関少佐である──の指導の下、これに乗ったことがあった。だからなつかしいと言うのである。
買い上げた飛行協会のタウベは、磯部技師が解体梱包してこちらに運んでくる手はずになっているが、いまはまだ到着していない。
「あ、去っていきますよ」
モーリス・ファルマン機がやっと八百メートルに達したところで、ルンプラー機は上空を旋回するのをやめ、要塞のある方角へと去っていった。偵察が終わったらしい。
英彦はしばらくその方向へ機首を向けて追ってみたが、敵機影は小さくなるばかりだ。
「くそっ、速いな。逃げていきやがる」
機体の性能がちがうのだ。あきらめざるを得ない。英彦は機首を飛行場に向けた。
「この機関銃、どうしようかな」
武田少尉が迷ったような声を出す。
「せっかくだから撃ってみたらどうだ。これからは使うこともあるだろうし。ただし前に向けるなよ」
「それもそうですね。しかしあつかいにくいなあ」
背後でかちゃかちゃと安全装置をはずす音がしたと思ったら、だだ、だだと発砲音がつづいた。硝煙の臭いが漂ってくる。
「いやあ、撃ちにくい。横か斜めうしろしか撃てない。しかも二脚架を支持する土台がないから、銃口が暴れて弾がどこへ飛んでいくかわからない。これ、相当敵に近づかないと当たりませんよ」
「ふん。軽機ごときを手持ちで撃てないとは、日ごろの腕立て伏せと懸垂が足りんぞ」
「いや、そういう問題ではないと思いますが」
「そういう問題だ。軍では腕力がほとんどの問題を解決する」
「お言葉ですが、その認識は大きな欠陥があると思います。やはり機関銃を抱えて飛行機にもちこんでも使い物にならない、という結論しか思い浮かびません」
滑走路に着陸し、モーリス・ファルマン機を整備員たちにまかせて天幕にもどってみると、徳川大尉が渋い顔で迎えてくれた。
「逃がしてしまいました。すみません」
英彦と武田少尉は頭を下げた。それでも形の上では追い払ったことになるから、よもや𠮟責はされまいと思っていた。
「さっき司令部から電話があった」
徳川大尉は言う。
「なんと言われたと思う」
「お褒めのお言葉でも」
雰囲気を察知し、予防線を張った武田少尉の言葉に、徳川大尉は首をふった。
「いいか。『なぜ垂直に上昇せんのだ、馬鹿者!』だとよ」
これには英彦も呆れて物が言えなかった。軍司令部は、飛行機が打ちあげ花火のようにまっすぐ天に向かって上昇できるものと思っているようだ。
「航空思想の普及が足りてませんねえ。特にウチの上の方には」
武田少尉がぼそりと言った。
(次話に続く)
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