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恩田陸の最新長編『スキマワラシ』、第一章を全文公開!①

恩田陸さんの最新長編『スキマワラシ』が先日発売されました。 

白いワンピースに、麦わら帽子。
廃ビルに現れる都市伝説の“少女”とは――?
本作は、古道具屋を営む兄と、物に触れると過去が見える能力を持つ弟が、不思議な少女をめぐる謎に巻き込まれていく、ファンタジック系ミステリー小説です。

本書は全472ページありまして、その分厚さで一瞬買うのをためらった方もいらっしゃるのでは?と思います。しかし、恩田陸ファンの方にはわかっていただけると思うのですが、読み始めると語りの巧みさやエピソードの魅力に引き込まれ、気づくとするすると読んでしまい、案外、わりと短い時間で読了してしまったりする…というタイプの作品です。そんなわけでこのたび、この本の魅力を広く知っていただきたく、noteで第一章を全文公開することにしました。数日に分けて掲載いたします。

夏の読書のきっかけに、『スキマワラシ』の試し読み、ぜひお楽しみください!

スキマワラシ帯ナシ書影

恩田陸『スキマワラシ』(集英社)
定価:1800円+税 
ISBN:978-4-08-771689-4 
装丁:川名潤  装画:丹地陽子

 恩田陸 スキマワラシ

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 第一章 兄のこと、名前のこと

 さて、これは確かに「スキマワラシ」についての話なのであるが、この件にまつわるもろもろのことを話し始める前に、やはりまず触れておかなければならないと思うのは、八つ年上の兄のことである。
 兄という人物のことは、身内からみてもいささか説明が難しい。いや、身内だからこそ難しいというのもある。考えてみてほしい。あなたは、自分の身内のことをどのくらい正確に他人に説明できるだろうか。
 長いこと一緒に時間を過ごしているからといって、その人物のことを理解できているとは限らない。むしろ、当たり前にそこにいる空気のような存在なので、もはやあえてどんな人物か考えないし、内面に踏み込まないのが普通だろう。
 言い訳がましくて悪いが、要は兄のことを僕自身あまり分からないので、分かるところから――とりあえずは、よく聞かれることから話しておく。
 兄は僕に話しかける時(いや、話しかけない時もある。独り言をいう時も、兄はしばしばこの文句から始めるからだ。恐らく、兄の中では口を開く時のきっかけ――いわばドアのノックのようになっていると解釈すべきであろう)、必ずといっていいほど「弟よ」と呼びかけてから始める。
 僕は慣れっこだが、これは、他人が聞いた時に非常に面喰らうし、奇妙に思うことらしく、大概の人は「えっ」という顔で兄を見、次に呼びかけられた僕を見る。
 兄は平然としている上に僕も「なあに、兄ちゃん」と普通に返すため、そこでようやく、他人はこの呼びかけがこの二人のあいだでは日常であると気が付くようだ。
 だが、そこから先の反応はさまざまに分かれる。知らんぷりをする人もいるし、笑い出す人もいる。「いつもそうなの? なんでそうなの? いつからそうなの?」と不思議そうに質問攻めにする人もいる。
 しかし、ここから先の説明もまたしにくい。
 そもそも、兄がこんなふうに僕に呼びかけるようになったのは、僕のせいなのだ。いや、正確にいうと、決して僕のせいではなくて、僕の親のせい、ということになるのだが。
 申し遅れたけれど、僕の名前は「さんた」という。苗字ではなく、下の名前である。ちなみに、兄の名前は「たろう」だ。
 さて、あなたは耳で「さんた」と聞いて何を思い浮かべるだろうか。
 僕が思うに、この名前、五人も六人もきょうだいがいるのが当たり前だった時代には、さして珍しくもない名前であり、しかも聞いた人のほとんどが「三太」という漢字を思い浮かべていたのではないかと思う。しかも、「ああ、上に二人きょうだいがいるのね」と考えるに違いない。
 しかし、すっかり少子化の進んだ二十一世紀の現代、まず頭に浮かぶのは「サンタクロース」なのではないか。いや、実際、僕の名前を聞いた同年代の人たちの反応は、これまでほぼ百パーセント、そうだったのである。
 クリスマス・イブ。北半球ならば寒冷期なので、使用頻度が高まり、非常に危険だと思われる暖炉の煙突から、どうみても通りぬけられるとは思えぬ巨体でむりやり家屋に侵入し、頼まれもしないのに勝手に物品を放置していく赤い服の怪人。
 最初にサンタクロースの話を聞いた時、僕はそういう恐ろしいものを想像してしまった。
 だが、そのような反応はごく珍しいようだ。その証拠に、誰もが「クリスマス」というと楽しそうな顔になるし、「サンタさん」は親しみやすいキャラクターだと考えているらしい。
 すなわち、みんなにとって「サンタさん」は素敵なものをプレゼントしてくれるありがたいおじさん、という位置づけなので、やたらと言葉尻をとらえがちな子供時代、「サンタさん! おまえ、サンタなんだろう? なんかいいもんくれよー」といういちゃもんを執拗に続ける同級生がいて、名前を呼ばれるのがイヤだった時期があったのだ。
 その結果、それまでは家庭内では普通に「さんた」と呼ばれていたのに、よほど僕がイヤそうにしていたのか、誰も(主に兄)直接僕の名前を呼ばなくなったのである。
 しかも、それだけではない。
 むしろ、音の響きよりも、こちらのほうが重要かもしれない――実は、僕の名前の「さんた」には「散多」という字があてられているのである。ようやく自分の名を漢字で書けるようになった頃はともかく、成長するにつれ、なぜ親がこの字を選んだのか、理解に苦しむことになる。
「散多」。これはいったいどういうことだろう。
 ざっと字面通りに考えれば、たくさん散らかす(何を?)、あるいは命を散らし、あえなく滅びる、みたいな意味だとしか思えない。
 こんな名前を子供に付けるとは、いったい親にどんな意図があったというのだろう。
 僕が付けるとしたら、キラキラネームとはいかないまでも、せめて「参多」(積極的な性格になるように)とか、「讃多」(みんなにほめられるような人になるように)とか、「燦太」(輝くような子になるように)とか、他にいくらでも漢字の選択肢はあったのではないか。
 その辺りを親に聞いてみたかったのだが、うちは早くに両親を亡くしているので、今更その深遠な意図について問い質すことはできない。
 そんなわけで、こちらもまた漢字を覚え始めた子供にとっては突っ込みどころ満載というわけで、「散った、散った」「サンタがチッタ」などと揶揄されて、字面からも己の名前が好きになれなくなった、というわけなのだ。
 ちなみに、兄の名前はごく普通に「太郎」という漢字である。「太郎」から「散多」に至るまでにどのような心境の変化があったのかも、もし親が生きていたら聞いてみたかったところだ。
 ところで、「太郎」と「散多」のあいだの心境の変化に疑問を覚える前に、長男である「太郎」と次男である「散多」のあいだにもう一人いたのではないか、と考えたあなたは正しい。
 いや、「正しい」というのは僕の考える「正しい」であって、特にご褒美は出ないので、念のため断っておく。
 というのも、成長するに従い、ずっと僕も同じ疑問を持ち続けてきたからだ。僕と兄とのあいだの八年というのは、そこにもう一人誰かがいても不思議ではない、じゅうぶんな時間である。
「太郎」と「散多」のあいだに何かがあったので、その結果、親の心境に変化が生じ、僕の名前にこんな漢字をあてたのではないかと思うのも、決して無理な話ではないだろう。
 僕は今でも、兄にそのあたりのことを、折にふれ、かまをかけたり、尋ねてみたりする。
 しかし、兄は例によって、あのふざけているのか真面目なのか分からない顔で、「俺はなんにも知らないよー」と繰り返すばかりである。
 僕は、いつも兄が言う「なんにも覚えていない」というのを信じていない。
 なにしろ、兄はとんでもなく記憶力がよくて、それこそ「なんでも覚えている」からだ。

試し読み②へ続く)

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