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初恋と先輩の話

中学生になったわたしははじめて先輩という存在に出会った。

たとえば小さい頃から野球やサッカー、バスケなんかをやっていたひとならまた違うのかもしれないが、特に習い事もせず、家に引きこもっては絵を描き本を読み、きわめて陰気な小学生時代を過ごしたわたしは、中学生になって入った部活ではじめて上級生との関わりを持った。部活をこなしテストをこなしスカートの短い「先輩」たちは、とても大人びて見えた。

スポ根マンガにハマるあまり(少年マガジンに夢中な小学生女子だった)、ドのつく運動音痴のくせしてわたしはなぜか運動部に所属していた。しかも人数が足りなかったため「まじめ」という理由だけで(まじめはスポーツに関係ない)1年生ながらレギュラーにぶち込まれ、毎日ひいひい言っていたけれど、そのぶん先輩とはすぐに仲良くなった。なかでも一番わたしのことを可愛がってくれていたのはS先輩だった。

S先輩は、美人で目が大きくてまつ毛が長くて、でも姉御肌でさばさばしていて声がちょっとハスキーでそれもまた良くて、なんというかすごく魅力的な女の子だった。わたしはかんたんに彼女に憧れた。S先輩は3年生の先輩だったから、わたしより2つ年上の15歳だった。でも中学生における1歳差は大人でいうところ10歳分くらいの威力があって、当時の感覚的には20歳くらいに見えていた。まだほとんど小学生のわたしからすると、S先輩は大人そのものだった。

S先輩とは家が近かったから、たいてい一緒に帰った。その帰り道でときどき、S先輩はこっそり元カレの話をしてくれた。S先輩の元カレは、隣町の中学校のさらに先輩で、いまは高校生、ということだった。すごくかっこいいひとらしかった。S先輩も本当にかわいかったから、きっと美男美女でお似合いカップルだったんだろうなあ、と思った。でも、いろいろあってお別れしてしまったから、彼にはもう二度と会えない、とS先輩は語った。その横顔はすこし寂しそうで、でもすこしすてきだった。元カレどころかカレすらいたことのなかったわたしには、すべてが異次元で、少女マンガの中のできごとみたいだった。S先輩が来年には高校生になるということも(あのころ高校だってはるか遠いところに思えた)、そしてもういちど誕生日が来たらもう結婚ができる年齢になるということも、なんだか自分と地続きの話ではないように思えた。

そんなある日、いつもの帰り道で、S先輩がこっそり好きなひとができたと教えてくれた。その好きなひと、とは、同じ部活のK先輩(2年生)だった。わたしはK先輩と委員会がいっしょだったので、何度か手紙をわたしてほしいと頼まれた(世はガラケー時代、手紙の交換が流行っていた!)。わたしは可愛らしく折りたたまれたそれをしっかりと制服のポケットにしまい、まじめに伝書鳩をつとめた。

K先輩とわたしは図書委員だった。K先輩は不良で、よく委員会をサボった。そのことをわたしが注意すると、K先輩はごめんごめんとへらへら笑った。たまに来ると図書室で、一緒に図書新聞を作った。本とかマンガの話をして、部活行きたくないよなあとだらだらだべった(委員会は、部活を公的にサボる手段のひとつだった)。K先輩は、よくしゃべってよく笑っていつもへらへらしていた。わたしはへらへらしているひとに弱くて、そして陰キャを極めていたためにとにかく話しかけてくれる男子というのがもう珍しく目新しく、気づいたらK先輩のことをちょっと好きになってしまっていた。

でも、自分がK先輩と付き合うとか付き合いたいとかは1ミクロンも考えていなかった。というか、付き合うという発想がそもそもまだなかった。そんなことは少女マンガの中にしかない出来事で、さもなくばS先輩のようにかわいい女の子だけがヒロインになる資格を与えられるのだと本気で思っていた。だから素直に、あるいは自然にS先輩のことを応援していた。実際、K先輩に話しかけに行くS先輩の表情は端から見ても日に日に乙女らしくなっていて、なんだかきらきらしたオーラをまとっていた。かわいくてまぶしかった。だからわたしはまじめに伝書鳩をつとめ続けた。

そしてとうとうその日が来た。またいつもの帰り道で、S先輩が「そろそろKに告白しようと思うんだよね」と言った。そしてわたしの前に、可愛らしく折りたたまれた手紙が差し出された。「これ、渡してくれるかな」

この手紙には何が書いてあるのだろう?わたしは考えた。告白、てきなことが書いてあるのだろうか。それとも、告白するための呼び出し?もしくは、この手紙はまだ告白にはなんの関わりなく、ただのステップなんだろうか。わからなかった。でも、この手紙を渡しさえすれば、S先輩とK先輩の関係は、着実に、確実に、縮まり、そして何か大きく展開するのだろうという気が、直感で、した。一瞬、もしこれを渡さなかったら?という考えがよぎった。でも、「まじめ」でレギュラー入りするようないたいけな13歳の女の子に、そんなわるいことをする勇気も度胸もなかった。

だからわたしは、いつものように「S先輩からお手紙ですよ。へへ」と冷やかし笑いしながらK先輩にそれを渡した。「なんだよ、おまえ」とK先輩はへらへら笑ったけど、ちょっと照れているようにも見えた。

しばらくしてからふたりは付き合った。そのことをわたしはS先輩から、またいつものように、いつもの帰り道で聞いた。おめでとうございます。よかったですね。わりと自然に言えた。S先輩はすごくうれしそうで、やっぱりかわいかった。

付き合うってどんな感じなのかな。そして、どんなことをするんだろう。いつかわたしも誰かと付き合うんだろうか。ていうか、わたしのこと好きになってくれるひとなんてこの世に存在するのか?

夏になった。近所の神社ではお祭りがあって、わたしはS先輩からそのお祭りに誘われた。断る理由はなかったけれど、あとから「Kも呼んでいい?」と言われ、わたしは、それ確実にわたし邪魔になるじゃん、と察して辞退を申し出た。「あっ、だったら、わたしはいいので、K先輩とふたりで行って来てください!」「いやいや、○○ちゃんも来てよ」「なんでですかー。わたしはいいですよ」「いいからいいから、お願い!」中学生の女子って本当に難しいし、今でもよくわからない。押し負けたわたしは仕方なくカップルふたりのデートについていき、でもふたりを残してさっさと先に帰ろうときめた。

神社のお祭りはお祭りといえど本当にしょぼくて小さくて、ちびっこかあるいはじじばばしか楽しくないタイプのお祭りだった。特にすることもないのでわたしたちは盆踊りの音を聞きながらだべっていた。曲がりなりにもK先輩に好意を抱いていたわたしは、曲がりなりにもK先輩を見ることができたので満足した。頃合いを見計らって、じゃ、わたしは先に帰りますんであとは若いおふたりでどうぞヨロシクと立ち去ろうとした。「えー帰るの」とS先輩が言った。「帰ります!」わたしはまた冷やかし笑いをした。「じゃ、暗いから途中まで送ってくよ」「ええっ、いいですよ」「いいからいいから」「本当にいいです」「女の子なんだからだめ」わたしはいつもS先輩に逆らえなかった。

わたしの家は大きな街道のそばにあって、その街道沿いを3人で歩いた。夜で、静かで、人も車通りもまばらで、虫の声だけがしていた。街道の途中でふたりと別れた。わたしはまっすぐ歩き続け、ふたりは来た道を戻るような格好で、わたしと真逆の方角に歩き始めた。

なんとなく振り返ると、遠くに見えるふたりが、手をつないでいた。鼓動がどきどきして、胸がぎゅっとなった。わたしはあの光景をいまでも鮮明に覚えている。わたしはK先輩のことが好きなんだな、と思った。そうか、そうなんだ。わたしは、好きだったんだな。

そのころは夏休みだったので、部活もたいてい午後には終わった。それでいつものS先輩との帰り道にも、K先輩がついて来るようになった。K先輩の家はまるで違う方面だったので、彼は単純に回り道をしていたことになるが、それだけS先輩と一緒にいたかったのだと思う。わたしは自分の気持ちにはぎゅっとふたをしていたけれど、曲がりなりにも長いことK先輩を見ていられるのでそれはそれで満足していた。

そのあとS先輩は引退した。S先輩が部活に来なくなったら、K先輩と一緒に帰ることもなくなるのかな、とぼんやり思っていたけれど、なぜかK先輩は依然回り道をしながら帰った。S先輩がいなくなった空間で、わたしはK先輩とどうすればいいのかわからなかった。でもK先輩は相変わらずよく笑って、よく笑わせてくれて、わたしはいつも楽しかった。でも、どこかほんのり後ろめたい気持ちもした。

秋になった。ある日突然、S先輩に呼び出されて行くと、「実はKと別れようと思うんだよね」と言われた。「なんでですか」素直にそう思ったので言った。「うーん、なんか冷めちゃったかな」わたしの前に、また手紙が差し出された。

今度はいよいよ迷った。曲がりなりにもK先輩に好意を抱いていたわたしだけれど、S先輩とK先輩が別れたらうれしいかと言われるとそうでもなかった。何せ、ふたりが別れたからと言ってじゃあ自分が付き合えるとも思っていなかったので、どちらにせよ自分の状況としてはK先輩を見ているだけで同じだった。だからそれよりは、S先輩の冷めちゃったというコメントに対する何というかやるせなさや、この手紙を受け取ったらK先輩が傷つくのではないか、という不安がまさった。好きなひとが傷つくことを想像すると悲しかった。でも、渡さないということもできないことはわかっていた。わたしはいつだって「まじめ」だった。

わたしは伝書鳩としての役割をまっとうした。

K先輩は何か悟ったような雰囲気で、でもやっぱりへらりと笑ってそれを受けとった。あとから何かの折に「別れたよ」とだけ聞いた。

それからも生活は続いた。部活も続いた。委員会も続いた。K先輩は回り道をし続けた。くだらない話をたくさんした。わたしとK先輩は、どんどん仲良くなっていた。一方で、わたしはS先輩のことが心配だった。なんとなくメールも返って来ないことが増えた。

ある日、部活帰りにK先輩と、他にも部活のなかま何人かとあの街道沿いを歩いていると、隣を小型のトラックが走った。ふと見るとトラックの窓が開いて、S先輩が顔を出した。いつかS先輩の家は運送業をしていると聞いた。「おーい」S先輩が助手席の窓から手をふった。相変わらず、美人で、まぶしかった。

わたしも手を振ろうとした。S先輩と目が合った。すると、S先輩の顔から、さっと笑顔が消え、あのきれいな薄い色の瞳の奥が、すっと冷たくなるのがわかった。それは一瞬の出来事だった。でも、その瞬間を、わたしは、見逃さなかった。たしかに捉えていた。

それきり、S先輩と会うことはなかった。S先輩は高校へ進学するのと同時に、遠くの町へ引っ越して行った。わたしは心にひとつ傷をつけたまま大人になった。今ではわかる、あのときS先輩も、まだたった15歳の、ただの女の子だったんだ。

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