#055 「偏差値は高いが美意識は低い」という困った人たち

なぜエリートには美意識が欠如してる人が多いのか?この論点について考察する際、好適な題材があります。オウム真理教です。というのも、これほどまでに「偏差値は高いが美意識は低い」という、今日の日本のエリート組織が抱えやすい「闇」をわかりやすい形で示している例はないと思うからです。

オウム真理教という宗教集団の特徴の一つとして、幹部が極めて高学歴の人間によって占められていた点が挙げられます。有罪判決を受けたオウム真理教幹部のリストをならべてみると、東大医学部を筆頭に、おそらく平均の偏差値が70を超えるのではないかというくらい、高学歴の人物を幹部に据えていたことがわかります。

地下鉄サリン事件が世間を震撼させたとき、これら名だたる有名大学を卒業したエリートたちが、なぜあのように邪悪で愚かな営みに手を染めたのか、ということがしきりにワイドショーなどで騒がれました。しかし私は、当初からこの問いの立て方はポイントを外していると思っていました。

ワイドショーのコメンテーターに言わせれば、オウムの幹部連中は、受験エリートである「にも関わらず」、愚かで邪悪な宗教に帰依した、つまり二つの事実を整合の取れないものとして逆接でつないだわけですが、私は逆に、彼らがまさに受験エリートである「からこそ」、オウム真理教に帰依していったのだろうと思っていました。

その理由はオウム真理教が提唱していた奇妙な位階システムにあります。オウム真理教では、修行のステージが、小乗から大乗、大乗から金剛乗へとあがっていくという非常に単純でわかりやすい階層を提示した上で、教祖の主張する修行を行えば、あっという間に階層を登りきって解脱することができる、と語られていました。

これはまさに、オウム真理教に帰依していった受験エリートたちが、かつて塾で言われていたのと同じことです。オウム真理教幹部の多くが、事件の後に何らかの手記や回想記を著しています。これらを読むと、彼らのほとんどが、大学を出た後に社会に出たものの、世の中の理不尽さや不条理さに傷つき、憤り、絶望して、オウム真理教に傾斜していったことがわかります。おそらく彼らにとって、受験というのは決して一般に言われるような辛くて苦しいものではなかったのでしょう。なにをすれば偏差値が上がり、偏差値によって階層が決まるというわかりやすいシステムは、彼らにとってとても心地いいものだったはずです。

ところが、そういう「わかりやすさ」「見通しの良さ」は、実際の社会にはありません。努力しても報われない人がいる一方、単に運が良かったというだけで大きな富と名声を手にする人も少なくない。それどころか、道徳的にはギリギリのところを歩きながら、半ば詐欺のようなビジネスをやって享楽的な生活を送っている人もすくなくない。彼らの多くは、こういった日本社会の現状に幻滅し、そこから半ば逃避するようなかたちで、かつて彼らが心地よいと感じたわかりやすい位階システムの社会として、オウム真理教へと傾斜していったと思われます。

このようなわかりやすい位階システム、つまり強く「サイエンス」が支配している組織において、どのように「アート」が取り扱われていたのか。オウム真理教における「アート」について、小説家の宮内勝典氏は著書「善悪の彼岸へ」の中で、次のように指摘しています。

オウム・シスターズの舞を見たとき、あまりの下手さに驚いた。素人以下のレベルだった。呆気にとられながら、これは笑って見過ごせない大切なことだ、という気がしてならなかった。オウムの記者会見のとき、背後に映し出されるマンダラがあまりにも稚拙すぎることが、無意識のままずっと心にひっかかっていたからだ。(中略)
麻原彰晃の著作、オウム真理教のメディア表現に通底している特徴を端的に言えば「美」がないということに尽きるだろう。出家者たちの集う僧院であるはずのサティアンが、美意識などかけらもない工場のような建物であったことを思い出して欲しい。

宮内勝典「善悪の彼岸へ」より 

宮内氏は、極端な「美意識の欠如」と並んで、オウム真理教という組織が持つもう一つの特徴として「極端なシステム志向」を指摘します。

小乗、大乗、金剛乗といった階層性が強調されるばかりで、アンダーラインを引いて受験勉強でもするような、極めてシステマティックな教義である。その通りに修行すれば、高みへ行ける、一種の超人になれるという、通信教育のハウツーブックのようだ。(中略)
偏差値教育しか受けてこなかった世代は、あれほど美意識や心性の欠如した麻原の本を読んで、なんら違和感もなく、階層性ばかりを強調する一見論理的な教義に同調してしまったのだ。彼らは「美」を知らない。仏教の中に鳴り響いている音色を聴きとることができない。言葉の微妙なニュアンスを汲みとり、真贋を見ぬいていく能力も、洞察力もなかった。後にオウムの信者たちと語りあって、かれらがまったくと言っていいほど文学書に親しんでいなかったことに気づかされた。

宮内勝典「善悪の彼岸へ」より

宮内氏のこれらの指摘をまとめれば、オウム真理教という組織の特徴は、「極端な美意識の欠如」と「極端な階層性」ということになります。これを本書の枠組みで説明すれば、アートとサイエンスのバランスが、極端にサイエンス側に触れた組織であったと言い換えることができます。

情緒や感性を育む機会を与えられず、受験勉強に勝ち残った偏差値エリートたち。彼らは、いわば「極端に単純化された階層性への適応者」でした。極端に単純化されたシステムのなかであれば、安心して輝いていられる人たち。しかし、実際の社会は不条理と不合理に満ちており、そこでは「清濁併せ呑む」バランス感覚が必要になります。彼らはそのような社会にうまく適応できず、オウム真理教へと傾斜し、やがて外界をマーヤー(幻)として消去させようとしました。

なぜエリートは「オウム的システム」を好むのか?

さて、ここまで、オウム真理教という、かつて日本を震撼させた新興宗教集団の特徴について考察してきましたが、読者の皆さんは、なぜビジネスとは全く関係のないカルト教団の話をしているんだろう?と思われたかもしれません。

しかし、私は、宮内氏が指摘した「美意識の欠如」と「極端なシステム志向」というオウム真理教という組織の特徴が、ある種の組織と非常に類似している点に以前から引っかかっていました。「業界の特性」ということで引っ括められると迷惑だという反論もあるかと思いますが、あえて名指しで、オウム真理教と類似しているなと筆者が感じる二つの業界を挙げるとすれば、それは戦略コンサルティング業界と新興ベンチャー業界ということになります。

私が電通を退職して米国の戦略系コンサルティングの会社に転職したのは2002年のことです。オウム真理教が地下鉄サリン事件を起こしたのは1995年のことで、私はこの事件をきっかけにしてカルト教団に興味を持ち、研究をするようになったのですが、2002年に戦略コンサルティングの会社に転職し、昇進や評価のシステムに関する説明を入社時研修で受けた際に、すぐに「この組織はオウムの仕組みとそっくりだな」と感じたことを、よく覚えています。

いくつかの具体例を挙げて説明してみましょう。

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