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いつか帰りたい、その山は変わり果ててしまった。


1- シンボルとしての「武甲山」の存在

私が生まれたのは、緑豊かな秩父の山の近く。小学校低学年くらいまでこの付近に住んでいた。

ランドマークとして聳え立つ「武甲山」は、私たち人間に数々の恵をもたらしたが、それは、石灰石が発掘できるとか林業が発展したとか産業としての側面だけではない。近隣に住む人々の心の中に誇らしく鎮座しているような大きな役割を果たしていたように感じる。

小学校の校歌でも歌われ、美術の授業では「武甲山」の絵を描き、暖かくなると山登りに行ったり、この山の存在は大きかった。ディズニーランドにおけるシンデレラ城、日本における富士山のような立ち位置だと勝手に思っている。

2- 山の変わり果てた姿と森林破壊・生き物への影響

祖父母の墓参りの際に、秩父を訪れる度に武甲山がどんどん削れてきているように思っていたが遠くから見ているだけで、上からの姿は見た事がなかった。動画を見つけた時はショックが大きかった。だってさ、大きく抉れてない?

これが幼い頃に登った、緑豊かな山の現在の姿なのか。。。姿が変容するほど削られても沈黙しながら聳え立つその姿からは、声なき声が聞こえてくるよう。

山だけではない。近くに川もあり、浅瀬で足のふくらはぎ程まで川に浸って、石の裏にいる生物や泳いでくる魚などを興味深く観察するのが好きだった。道で動物に遭遇することもあったし、注意深く観察すると新種の虫なども発見できる。自然・生物・人間の共生がそこにはあった ...と信じていた。

いや、ちょっと待った。一つ疑問が浮かぶ。

森に住んでいた生き物たちはどこへ行った???

そう思って、もやもやしている時に見つけた記事を貼っておきたい。このような現象が、「武甲山」だけでなく世界規模で起こっているんだろう。好き放題自然の生態系を破壊してきたしっぺ返しが来ているのではないかと思った。

2020年、スタンフォード大学の研究チームは、森林破壊が野生動物から人間へのウイルス感染の原因になっている、という論文を発表した(リンク)。「私たち人間は、野生動物が人間にウイルスをうつしているかのように考えがちだが、実際は人間側が野生動物の領域に侵入していることが原因だ」と、同大学のランビン博士は言っている。森林破壊を引き起こしている原因は、発展途上国の人口増加、そして世界的な食糧需要の増大が主なものである。

"引用 : https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64127"

3-もののけ姫から学ぶ「合成の誤謬」

森..人間...と言ったら「もののけ姫」をなしには語れない。それぞれの立場の正義や愛が、不幸な「合成の誤謬」を生み出しているのだと思った。ざっくりいうと個人レベルでは正しい事だったとしても全体で見ると悪い結果をもたらしてしまうことを表す。

↓冒頭のメッセージ

「むかしこの国は深い森におおわれそこには太古からの神々がすんでいた」

映画「もののけ姫」の舞台の参考場所として、スタジオジブリが公表しているのは「屋久島」と「白神山地」。舞台となった時代の中世日本(室町時代)は、照葉樹林で形成された森が広がっていたとされる。まだ、神聖な森があり、少しずつ人口が増えてきた人間たちは、その森を切り開き、繁栄のために人間の世界を作ろうとしていた時期なのだろう。

「太古からの神々」とあるが、森羅万象への親近感を持ち続けていた我々の祖先は、動物への敬意をもっており人間が神とされる場合も、動物が神とされる場合もあった。この件は、日本文学や民俗学の研究に人生を捧げた谷川健一著 [神・人間・動物-伝承を生きる世界-]を参考にしたい。紹介文を下に引用する。

"古代人は狐や鳥の鳴き声に予兆を探り、それはまた、天上界の神が動物となって人間に幸福をもたらすという考え方とも通じた。本書は、白鳥、蛇、鹿、鵜、狐、鮭、熊などの野生動物の生態を通して、神と人間と動物の三者が織りなす親和力の世界を克明に描き出したものである。山林の伐採などにより、山野に住む生き物たちとの共存の場を失ってしまった神を畏れぬ現代人への鋭い警鐘をともなう、谷川民俗学の新しい境地を拓いた意欲作。”

さて、本題に戻る。​

もののけ姫の物語の中で対立する2つの勢力が願うものや正義は、それぞれの視点で見ると一見正しいように思える。(実際は猪vs山犬など細かい対立もあるがここでは割愛)

【神聖な森を守っていたシシ神やその他の動物達】

侵略されている森守りたい。人間への恨みを晴らしたい。

イノシシ「われらは人間を殺し森を守るために来た…なぜここに人間がいる?!」

モロ「穴に戻れ、小僧。お前には聞こえまい。猪どもに食い荒らされる森の悲鳴が。私はここで朽ちていく体と森の悲鳴に耳を傾けながら、あの女を待っている。あいつの頭を噛み砕く瞬間を夢見ながら」

【鉄を精製するタタラ場を守るエボシや村人達】

社会的弱者を救済してタタラ場を拡大させたい。不自由なく生きたい。

エボシ「森に光が入り、山犬どもが沈まれば ここは豊かな国になる」

甲六「おっ!はじめやがった。エボシさまときたら売(う)られた娘を見るとみんなひきとっちまうんだ。そのくせ掟もタタリもヘッチャラなコワイ人だよ」

はたらく人「長(おさ)!お若いかた、わたしも呪われた身ゆえ。あなたの怒りや悲しみはよくわかる。わかるが、どうかその人を殺さないでおくれ。その人はわしらを人としてあつかってくださったたったひとりの人だ。わしらの病(やまい)をおそれずわしのくさった肉を洗い布(ぬの)をまいてくれた。生きることはまことに苦しくつらい…世(よ)を呪い人を呪いそれでも生きたい…どうかおろかなわしにめんじて…」

それぞれの正義のため、それぞれの愛ゆえに、対立し論争を巻き起こす構造は昨今の社会問題などにも共有すると感じる。

大切なのは、自分が正しいと信じている事でも相手サイドからの目線、遠く離れて上から見た目線によっては物事の捉え方は変わってくるという意識をもつ事かもしれない。

4-「自滅しないために」それも人間のエゴなのか

愛や正義のために、自滅することは避けたいものだ。「自滅しないために」それも人間のエゴなのか。

"いっぱいあった幸福も 誓い合った恋人達も いったいなんでこうなったの わたしは人類 滅んじゃった バイバイ" ( やくしまるえつこ 「私は人類」より)

しかしながら、まだ現状を嘆くのは早いと思う。戦争を繰り返し、資源を使いまくり、その代償ともいえる自然災害に見舞われながらもまだ人類史は続いているからだ。滅びてしまった先人達の歴史から、私たちにできる対策や危険な兆候が見えてくる。

巨石文化を築いたイースター島を紹介したい。

イースター島と聞けば、荒れ果てて森林すらない島に、石造がたくさん立っているイメージを思い浮かべるであろう。

今は、何もない辺鄙な島のように見えるイースター島だが、そこには確かに高度な文明があったのだ。

祭礼に明け暮れ、洗練された祭祀と記念碑の建設にふけっていたようだが、家畜をもたなかったために石を移動させるために丸太を使用して人力で引きずるしかなった。何もないように思えるこの場所だが、花粉分析などの研究によると、高木を含む豊かな植生に覆われていたことが明らかになっている。しかし社会発展と人工増加のために自然環境を破壊し続け、その代償に耐えられなくなり資源は乏しくなる。子供を育てられなくなり一気に人口が急減する。そして枯渇していく一方の資源をめぐって覇権争いは日ましに激しくなり。戦乱状態になる。蛋白質が少なくなるにおよんで喰人が始まる。争いの痕跡が、石像や周辺の祭祀場に残されている。過去1000年にわたり築きあげられてきた社会はそうして、滅びてしまった。

クライブ・ポンティング著 緑の世界史〈上〉より

実際に、資源の限界がはっきり見えてきたその時でさえ、氏族の特権と地位を誇示するために、人々は次から次へと石像を彫り、島の反対側まで運んだ。残された木材をめぐる氏族間の争いは明らかに激しくなっていった。

イースター島がたどった運命を、なぞるように歩かないために私たちは考えなければならない。

そして、国レベルでは何をしようとしているのか?を知ることも重要だと思った。

現在、内閣府の公式WEBサイトに公開されている「ムーンショット目標」

「ムーンショット目標1 2050年までに、人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現」という謳い文句で、急進的イノベーションで少子高齢化時代を切り拓くとか書かれているが、

一番気になったのは少子化 少子化というわりに、出生数を増やそうとする項目は無いというところである。

先日、あるClubhouseで 本来であれば国が動かなければいけない少子化対策のサポートがなされていない。国を滅ぼそうとしているのでは?という話があった。その真相はさておき、待機児童問題や、出生へのサポートなどあらゆる問題が放置されている現状を見ると 経済活動も人の動きも縮小させたいのかなと思ってしまってしまう。

自然と人間

双方、生きる道はないのか。

そんな事を考えながら、日が沈んでしまった日曜日☕️🌃