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その喜びや悲しみは、有形か無形か、あるいは人生かマイムか?マイム芸術と文化について。

形ある文化、あるいは形のない文化について。

僕たち人間は、地球上の他の全ての動物と同じく一生物でありながら、逆に他の動物の、たった一つの種族も成し得なかったものを生み出した。

それが「文化」である。

僕は、有形の文化も無形の文化も、同様に好きです。
無形の文化には、ちょっと大袈裟に言うと、まるで宇宙の摂理を全て素直に受け入れたかの様な風情を感じることがあります。対して有形の文化には、どこかにまだ一抹の人間らしい煩悩がちょっとくすぶっている、そんな感じがします。
どちらの文化も、それはそれで魅力的だという上で、その理由や違いについて考え込んでしまったのです。もちろん、これは後に僕のマイムの話に繋がります。

人間の存在は驚くほど儚く、宇宙的な規模から俯瞰で眺めれば、人の人生に大した意味がないことを人は受け入れざるを得ないでしょう。人の営みは、なぜ動くのか未だに解明されていない遺伝子を親から子へ受け渡していくだけで、他の生物たちと全く変わらないからです。
そんな中、人は理想というものを持つようになりました。文化とは人間の理想を実現していく精神の活動が形になったものなのです。なので、文化を有していることが、言い方は悪いですが、ただ生まれて種を繋いで死んでいく他の生物たちと異なる証であり、人間らしさそのものだとも言えるのです。

文化には大きく2つの成り立ち方があると言えると思います。一つは人類の理想を実現していく精神活動が生み出した結果が、何らかの様式や習慣として形式化したもの。宗教や哲学、芸術はこれに属すると思います。
もう一つは生活などを便利にするために生み出した技術を使って、それが次々と繋がって生活の様式や生活の特徴を表す表現となったもの。古くは巨石像や大掛かりな装置、現代ではテクノロジーなどがそれに当たると思います。

そう考えると、「有形の文化と無形の文化」とはよく言ったものだなと、先人の知恵に感心します。この2つにはたしかに微妙な品格の違いがあります。もちろん、それぞれの中にレベルの違いもありますが、それは一旦置いておいて、平均的な観点から、無形・有形の文化について考えてみましょう。

文化の有形・無形について考えてみる

自己の存在に対するレジスタンスー月に旗を立てるということ。

有形の文化は、一般的に実利的であり、わかりやすいものだと考えられます。そして、有形物を創造することの目的そのものは、先程言った”大した意味がない自己”の存在に対するある種の抵抗と言えます。形を具現化することで、何かを誇示したい、主張したい、他者と感情や概念のコミュニケーションを取りたい、儚さを認めたくない、永遠に生きたい、それが叶わぬなら生きた痕跡を残したい、といったモチベーションの源となる、あらゆる種の欲望があらわになります。また、有形の物を享受する側にも、大部分に具体的で実利的な目的が存在します。そこから何かを理解したい、利用したい、役立てたい、維持したい、所有することで何かを誇示したい、といった動機が生まれます。したがって、自らの人生の何らかの価値を見出したいという欲求は、実利的な側面から文化を生み出す傾向があります。

とても単純な例として、月面に初めてアメリカ国旗を立てたアームストロング船長を考えてみました。想像もしなかった人類の未踏の地についに到達した、人類の知恵を結集して新たな領域に到達した感動や努力の達成感のようなもの自体は無形の文化で終わるはずだったことが、星条旗を月に立てた行為によって、瞬く間に自らの国の栄光や技術力の誇示、世界の列強への牽制的な意味合いなどの実利的な目的へと変貌し、その瞬間に対しても、未来に対しても、さまざまな欲求を持っていたことが読み取れるようになりました。

今を楽しみ、今を受け入れる。

それに対して無形の文化は、保存の概念を持たずに始まっています。物を物体化する以外のクリエーションのモチベーションはシンプルです。それは「今を楽しみたい」という欲求です。それを生み出す側も受け入れる側も、100%今を楽しむ為にそれを生み出しています。

無形の文化という大きな括りを、そんなにバッサリ決めつけてしまっていいの?という声が聞こえてきそうですが、それでいいのです。無形文化は、時間を越えようとはせず、誇示したり、不可能な永続性を追求したりしません。言い換えれば、人はやがて消えてなくなることに抵抗しない潔さを持っているのです。

「お笑い」「音楽」「舞台芸術」「お祭り」「ダンス」など、これらすべては、人々が現在を楽しむために生み出され、結果的に受け継がれ育まれてきました。そして、それらは楽しむ瞬間に存在し、楽しんだ後は楽しんだ人々の脳内に僅かな記憶のシナプスの繋がりをもたらす以外に何も残りません。まるで上質の和三盆を口の中に溶かしたように、跡形もなく終わります。その存在を失われることを惜しむ人が、ささやかな抵抗としてどこかに書き残さない限り、それが何だったのかさえ分からずに消えていきます。そして、個々の経験の中にあるそれは、あとの人生には決して繰り越さないものです。

「楽しむ」という文化ー茶の湯に見る無形の文化

ここで、「楽しむ」ことよりもう一歩踏み込んだ、無形の文化が果たす役割の本質は一体何なのか、という点に辿り着きます。それは、「時間の濃度を高めること」です。これがほぼ全ての無形の文化の本質です。言い換えればそれは、何らかの理由でその瞬間だけを非常に重要視する(あるいは重要視したい)ことなのではないかと思います。

分かりやすい例を一つ挙げたいと思います。「茶の湯」です。人間がそこらへんに自生している葉っぱを乾燥させて飲んでみたら美味しかったので、常飲し始めたのがお茶です。これも自然発生的に生まれた無作為な文化ではありますし、お茶を飲む時間は多少の楽しみであり、時間の濃さも感じますが、決定的に高濃度に文化を引き上げられたのが「茶の湯」です。まるで時を止めたかのように無作為に見せたその瞬間に作為的な全てを詰め込んできます。そして受け取る方はその時間を深く心に刻みます。人だけが味わえる至高の時間です。

最後になりましたが

僭越ながら我がマイムについて触れさせていただきます。

近代マイムに端を発する「マイム芸術」は、ある種時間を凝縮することで人生に奥深さを出す芸術だと、僕は信じています。劇場で同じ時間を過ごしている間に、皆さんが生きていることが幸せだと感じたり、日常の何かをきっかけにふと作品の一場面を思い出し、「この作品を見てたことで、その瞬間の人生が楽しめた」と、喜びを見出すきっかけになることを目指しています。

舞台で起きていることと言えば、一人の人間が身体を使っていろいろと動いているだけに過ぎません。しかし、そのほどんど無に近い状態から、皆さんの想像力と僕の創造力を掛け合わせることで、どこまでも楽しく濃くできちゃうところに、果てしない面白さが生まれます。先ほど無形文化は刹那を楽しむためのものという趣旨のことを書きましたが。マイムの魅力は、舞台上での時間を楽しむ他に、観て下さった方の日常の様々な瞬間を楽しむためのレシピにもなっていることだと自負しております。
これこそがマイムの真骨頂であり、無形の文化の一つだと思ってください。

ここまで読んでくださった方々は、最初からずっと心に抱いていたであろう疑問があるかもしれません。「現代では映像技術が進化しているから、無形文化も、極めて有形文化に近い形に、既にできているよね」と。
この疑問は、僕の公演を見ていただければ、すぐに払拭されるでしょう。その点も含めて、ぜひ劇場に遊びに来てくださいね。


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