こだわりについて

「こだわり」という概念について。

元来こだわりとは、気にしなくてもいいことを気にするという若干ネガティブな言い回しの言葉と聞いたことがあります。
一般的にはこだわりの味、こだわりの伝統、こだわりの逸品など、
他とは違うことの明示、自身の思想や価値観を込めたものとして称されることも多々ありますね。
今回は後者のように広義に捉えて話していきます。

私自身はこだわりが強いほうだと自覚しています。
というのも、自分が納得できないことは最大限パフォーマンスを発揮できないだとか、疑問や葛藤を抱えたまま放置はできないだとか、自我と理念に強いこだわりがあるように思います。
これらはそのまま裏を返せば、社会性の欠如とも言えるでしょう。
納得できないことを我慢していたり、疑問や葛藤を飲み込んだり、そういったことは誰しもが抱えていることであり、円滑な社会生活には必要なことだからです。

まず前提として、私はこだわりが強いとは言いましたが、不特定多数の人間を取り巻く社会生活において、主張すべき自我のラインと、そのフラストレーションを他者に背負わせないことには最低限気を遣えるとも言っておきます。
精神的に社会性が欠如していても、自他の差異を慮って、それにある程度自覚を持つという想像力までは欠如していないと思っています。

強いこだわりを持つ人に社会は非常に厳しいと思います。
世の中には納得できないもの、こちらが折れるしかないもの、自分のわがままに過ぎない思想、他者との折り合わせと我慢であふれています。
私は「そんなものクソくらえ!」と思うままに生きることができる人をかっこいいと思いますし、魅力があると思いますし、羨ましいとも思います。
強い思想や絶対的な芯を持つ人は人を惹きつけるのです。

とは言え、誰もがわがままを通して欲望のままに生きると社会は回りません。
自分には我慢できないからと学校や仕事、人間関係から逃げ続けていると、よっぽどのバイタリティと知恵がない限り、人生は緩やかに詰んでいくことでしょう。
だから仕方なく我慢して社会の一員であり続けるのです。

ただこれは、とてもすごい事でもあります。
社会の一員であり続けることは時には面白くなく、空虚でむなしいと感じるかもしれません。こだわりの薄い生き方に見えるかもしれません。しかし、事を荒立てることなく目の前のことに責任をもってコツコツ積み上げていける人間はゆっくりとステータスを築き上げます。

結局はそのステータスは何よりも堅固なのです。

そしてこだわりの強い過去の自分はこのような人々に対してつまらないと思っていました。自分を殺して何の主張も持たず、行動も起こさず、愚痴を酒で流し込んでひとつの組織の中で老いていく。こうはなりたくないと。

正直今でも少しは思っています。ただ変化したのは、そういった人が何の主張も持たないとは限らず、行動を起こさない理由があるのかもしれず、ひとつの組織の中で一度も仕事を放り出さず努力しているのかもしれないと、そう想像することができるようになっただけです。
事あるごとに放り出してきた結果、面白いと言える人生を歩めていない私の方がつまらない人間だと思い知ったことがひとつのきっかけです。

うだうだと卑屈な話になりましたが、私はやはり、強いこだわりと美学を永遠に持ち続けたいと思います。

自分と自分の身の回りの人を幸福にするというこだわり。
これに携わっている自分が好きだというこだわり。
自分の人生と行動を誇りたいというこだわり。

仕事でそれを体現する必要があると頑なに考えていましたが、仕事は自分の人生を面白くする手段のひとつに過ぎないと感じるようになりました。
衣食住や趣味にかけるお金、安定から得られる精神的な余裕、社会貢献性や他者とのつながりによる充足感などそういったものを得るための手段。だから職業に貴賤はないのです。
人生は公と私のブレンドです。公の比重が大きくなりがちで惑わされそうになりますが、こだわるべきは何か、を今一度見つめなおすのは意外と悪くないことかもしれません。

結論です。
己の絶対的な価値観を持ち、納得を目指して奔走することは尊い事です。
人はできる限り自分の生き方にこだわり、強い思想を持ち、大小問わず何かを成し遂げようとすることで生まれるエネルギーを持っていると思います。
これからも自分の楽しいを追求し、そこに人生の基盤を築いている人は私にとってまぶしく映り続けることでしょう。

いつかはそうなれたらいい、と夢想しながらも一歩ずつ足場を築いて歩いていくしかないのです。

少しずつ丸くなって年老いていくのでしょうが、
社会や他者と触れ合う中で、ひとつだけでもこの尖りを研ぎ澄ませていきたいものです。





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