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「天使の腕」【短編】

 人を殺した。
 いや、正確には「殺してやった」のだ。目の前に転がってる女の死体は、つい先程まで俺に向かって笑顔を見せていた生きた肉の塊だった。自分で殺したくせに、俺の腰はすっかり抜けてしまったようだ。呼吸は浅く、心臓は早い脈を打っている。その音は耳のすぐ近くで鳴っているかのようで、彼女を殺した俺の両手は手汗でびっしょりと濡れて、小刻みにぶるぶる震えている。手相の溝で汗がキラキラ光るのが無駄に綺麗だ。

「は、ははっ。殺しちまった。あいつが望んだんだ……俺は、悪くない。悪くない」
「そうだね」
「誰だ!」

 バッと顔を上げ、足元に落ちていたナイフを声のする方に向けると、そこに一人の天使がいた。所謂、あの天使の輪っかを頭上に浮かべて、白い服に白い羽を生やした、誰もが天使と聞いて思い浮かべるあのフォルムだ。

 天使は震えながらナイフを向ける物騒な俺に見向きもせず、彼女の死体の傍らに座っている。シルクのように長く美しい天使の髪の毛が、死体にベールのようにかかかっているその光景は、例えミケランジェロでも、このように綺麗な構図は到底思い浮かばないだろうという息を呑む美しさだった。

「あーあ、この子もハズレかあ。ごめんねっと」

 さらっとした平謝りをすると、天使は彼女の左腕を肩からスパンと、それはもう気持ちのいいくらいに綺麗に切り離した。一瞬の出来事だ。少量の血が天使の手や白い服、羽に赤く飛び散った。俺は目の前に広がるその光景を、ただ見ていることしかできなかった。天使だなんて空想上の生物が現れ、なおかつ、神の使者であるという天使が全くの躊躇なく、その身体を血で染めるとは到底理解が追いつかなかった。

「そら。これ君にあげるよ。私はこの子を天国に連れて行かなきゃならないのだけれど、天国には綺麗なものしか持っていけないんだ」

 天使は今し方切り離した左腕を、いかにも汚さそうに俺に放った。それは放物線を描いて俺の腕に収まった。まだほんのりと温もりの残るその左腕を、俺はナイフと共に反射的に跳ね除ける。自分でその腕の持ち主を殺したくせに。腕なんかよりも、もっと大きいものを奪ったくせに。

「それは汚いからさ。人殺しの君にはお似合いなんじゃないかな」
「汚いって、何が……」

 天使は死体の側から立ち上がって、ため息を吐き、放られた左腕を引きずりながら俺の眼前に持ってきた。その腕の後ろからひょこっと俺を覗き込んでいる。子供くらいの背丈の天使は、未だ腰を抜かしている俺にほんの少し屈んで目線を合わせてきた。その目は綺麗で、まんまるで、真っ直ぐ俺を見ていた。とても澄んだ、宝石のようなキラキラした目だった。その目を見るなり、そこに映る人殺しの俺は確かに汚いだろうと、納得してしまった。

「腕の傷、見えるでしょ。この子が自分で傷つけた跡だね。死にたかったのかなあ?」
「え? ああ。口癖のように言ってたよ。死にたい、って」

 彼女はよく死にたがった。あまりによく「死にたい」と口にするので、俺はずっと、人生に対する愚痴のような彼女の口癖なんだと思っていた。確かにそれは嘘ではなかったが、ただ、俺が思っていたよりもずっと彼女は本気だったのだ。

「よく思うんだ。私、もっと汚れたかった」

 ある日彼女がそう言って、敵も味方も、今日も明日も、過去も未来もないと言いたさげにいつもより温度のない目で言った。その冷たい目に渋谷の夜のうるさい街頭が映る。どこか諦めを含みながら言葉を吐き捨てたその口は半開きのままで、その空白すらもまるで台詞のようだった。

 梅雨入り直後の雨上がり、妙に纏わりつくような湿度と気温の夜、水溜りには暗闇ではなく色とりどりの夜景の切れ端を映していた。この深夜の時間帯でも人通りの多い渋谷のセンター街の水溜りは人々に踏まれて、波紋を描き、写った夜景を揺らしている。そんな渋谷の端っこの端っこ、錆ついたアパートのこの屋上は彼女が「死にたいモード」の時にいつも黄昏にくる場所だ。それに大体、俺はなぜか付き合わされるのだった。

「愛なんて馬鹿みたい。私には何よりも鋭利で卑怯なものにしか見えないよ。人を殺してもそれが愛だって言うなら、私、そのくらい愛されて見たかった。純白な愛んてものより、泥だらけの愛の方がよっぽど綺麗」

 そう言って左手首にある古傷をさすった。自傷癖のある彼女の腕には、彼女の死にたい跡がたくさん残っている。痛々しい新しい傷もあれば、年季の入った傷もある。例えば、頭を撫でるだけでさえ傷をつけてしまいそうな彼女に、俺が与えられるような言葉はどうやら、彼女の言う純白な何かに成り下がってしまいそうでどうしたって何も言えなかった。触れられなかった。

 あまりに長い間、俺たちは無言でいた。夜はどんどん更けていく。夜明けまでおそらくあと数分といったところだろう。今日がどんどん西に沈んで、明日が東から顔を出し始めている。それは彼女にとって、どれだけ耐え難いものなのだろうか。ふとそんなことを考えたら、無言で居るのが急に窮屈になった。俺はあくまでも平然を装って、真一文字に結んで渇ききった口をひと舐めしてから言葉を口にした。

「死にたいってさ、生きたいってことの裏返しみたいだと思う。だって、いつだって死ぬことの対は生きることではないと思うし、生きることの対は死ぬことじゃないと、俺は思ってる」
「どういうこと?」
「あ……だから、自分を傷つけるほどの何かから逃れたいが故に、お嬢さんはよく『死にたい』って言うんだろう? それって、それほどまでにする要因なくして生きられたらいいのにって。お嬢さんの言う愚痴はいつもなんだかそんな感じがする」
「そう……そうかもしれない。じゃあさ、お兄さん。私を殺してよ」

 彼女は口の端だけ笑って呟いてフェンスに寄り掛かり、渋谷の夜の海に背を向けてズルズルと座り込んだ。言葉を探すふりをして、傷つけるのが怖いからとまた何も言わないでいると、くいっと服の裾を引っ張られる感覚があった。

「私が死にたいのは、他のなんでもない、私自身が私自身を殺してしまいたいほどに嫌いだからよ」
「……じゃあそこから飛び降りでもすればいいだろ」

 断っておこう。俺は彼女がどうなろうと別に構いやしないのだ。ただの友達、いやそれにも満たないような関係で、特別恋人だとかそんな関係はもっていない。もともとこの場所は俺が家に帰りたくないが故に、一服しながら時間を潰すための場所だったのだ。それがいつからかこうして彼女も居座るようになったのだ。故に彼女の名前も、年齢も、何もかも知らないのだ。

「自殺なんかじゃダメだよ。自殺なんてしたら、なんかこう……誰かの安い歌に成り下がりそう。それは結末としてつまらない。誰かに命を奪われた方が、なんだか小説の一本でも書けそうじゃない」

 彼女を一瞥すると、無機質な人形のように力なく座ったままだった。こんな自分の死に方なんていうものを淡々と語れるものなのだろうかと思ったが、そんな話を俺は平然と聞いていた。俺は彼女よりも幾らか大きな身体を折り曲げて、彼女の隣へ腰を下ろした。しかしやっぱり、彼女には触れることはできない。そのわずかな隙間は見かけよりも遥かな距離であった。生暖かく、重たい風が俺たち二人の髪を揺らした。俯いていて髪で窺えなかった彼女の表情が見える。

「お嬢さんは嘘つきだね。こんなにも、生きているのに」

すると君は「バレちゃった」と乾いた笑いを短く吐いた。それは今日一番の笑顔だった。無理やり作ったようなものではなく、正真正銘の彼女の笑顔だった。その横顔には小さな宝石のような涙が伝っている。あまりに美しく涙が彼女の頬を優しく伝うから、思わず彼女のことが欲しいと思ってしまった。

「ダメだね、汚れたかったなんて思って腕をいくら傷つけても、私はこの傷が愛おしい。美しいと思ってしまう。身体を売る勇気があれば、汚いって思えたかな?」
「美しいものは、いつだって儚い。美しいというのはその瞬間のことなんだと思う。すぐに過ぎ行くからその命は短いんだ」
「うん?」
「あっという間だから、儚いから、短いから、それが本当に素晴らしく尊いものだったと理解するんだ。だったら、美しいその瞬間で時間を止めておかなきゃ」

 俺は立ち上がってポケットの中に手を突っ込み、ナイフの背中を撫でた。少し冷たくなった金属部分が、指からひんやりとした感覚を身体中に伝える。心の奥までものが冷えていくのがわかる。くるりと彼女に向き直って、ゆっくりとそれを出す。

「これは俺のエゴかもしれないけれど、美しいままの君で奪わせて」

 彼女は一瞬目を見開いた。でもすぐにいつもの冷たい目に直って、軽蔑するような声色でゆらりと立ち上がって俺に近づいてきた。

「お兄さんはそうやって、時を止めようとして美しいものたちの花首を手折るのね。そんなのごめんだわ。ちゃんと汚い小説を書いてね」

そういうと彼女は俺の手を掴んで自らの首にナイフを当てた。


「なあ、天使はどうしてその傷をそんなに汚がるんだ」
「生まれ変わった時に、いずれ傷のつくような腕じゃ嫌だからだよ。当たり前だろう?」

 天使は持っていた腕をポイ捨て煙草と同じくらいの軽さでポイっと投げた。彼女の腕が転がって、傷がこちらを向いて止まった。彼女との記憶が脳裏に反芻される。あの傷を愛おしいと泣きながら笑った彼女の顔を、あの美しい涙を。

 天使の話によると死んだものは皆、死んだその段階から今度は赤子に戻っていくそうだ。再び誰かの腹に宿るまでに、自分の死因となったものを取り戻すことで、完全体となって生まれ変われるのだという。

「取り戻すものは、死んだ人からいただくのさ。死んでいれば、目をくり抜こうが、腕を切り離そうが、何をしようが、それはその人の死因にならないからね。その人は後々、わざわざ天使にとられたものを補填する必要はないのさ」
「一旦赤子……腹の中に還るんだろう? 腕の傷なんて消えるじゃないか。生まれつきそんななんてことはないだろ」
「いただいた身体の部位なんかは、生まれ変わって現世に戻って成長した頃、同じことを繰り返すことになるのさ。だから私がこの腕を持っていけば、私は成長したら左腕を傷つける運命を背負って生まれる事になるのさ」
「何を贅沢な」
「あはははっ、君に言われたくはないね。だけど、まだまだ面白いルールがあるんだよ」

 天使は天使あるまじき不敵な笑みをたたえて俺のことを見た。ゆっくり俺に近づいてきて、俺は後退りをする。天使の髪を引きずる音が、不気味にずるずると自分の心音に絡みつくようだった。やがて逃げ場がなくなると、天使は俺の左腕に触れ、先ほど彼女にしたみたいにスパンと俺の左腕を切り離した。

「ううっ、ぐああああああああっ!」

 俺の苦しみが全身を駆け巡る。電流のように走って、汗も拍動も呼吸も何もかも、先ほど彼女を殺めたその瞬間の何倍もの苦しみが俺から溢れ出て、辺りの空間を満たした。のたうち回る俺の身体は泥や埃でどんどん汚れていく。そのうちに水溜りに腕の断面が浸かって痛みが増した。

「くそっ……この堕天使め! 何しやがる!」
「だから言ったでしょ、まだ面白いルールがあるって」
「そんなこと、俺には関係ないだろう! さっきから彼女の傷を汚いと言ったり、腕をすっ飛ばしたり……話を聞いてりゃ俺の腕を飛ばしたのだって、きっと全部、お前の都合だろうが!」

 天使は俺の腕を大事そうに抱えて、足軽々彼女の死体の周りをスキップして回っている。まるで、欲しかったおもちゃを買ってもらえた子供のようだ。キャハハと声を出して笑って舞う天使なんて、さぞ美しいんだろうが、さっきとは打って変わって地獄絵図に思える。悲劇が面白いのは、それが他人の人生だからだというのがよくわかった。

「なんでお前なんかが天使なんだ。極楽浄土が聞いて呆れる」
「ええ、知らないの? 神様ってのは、聖書の中じゃあ一番人を殺してるんだよ。そもそも『天国も地獄も生きている間に見るものだ』って架空の宇宙飛行士が言ってた。想い人が旅立てばあんな綺麗な世界に、憎い人が旅立てばあんな苦しい世界に。単純明快、ただの自己中心夢物語に過ぎないよね。だけど実際にそれは歴史になって、極楽浄土も閻魔も誰かの安らぎになってる。事実じゃないか」

 彼女の死体の上に仰向けで寝転がって、俺をおちょくるように言ってきた。「そんなに泥だらけで汚いね、どうしたの?」なんて俺を嗤う天使には、汚い俺が逆さまに見えているのだろう。当たり前ながら、たとえ世界をひっくり返しても、俺は綺麗にはなれないらしい。

「ああそうそう! もう一つのルールは、人を殺した人間からは好きなパーツを奪っていいってルールさ」
「な……それでお前は、俺の左腕を?」
「ああ。この子が自殺じゃなくって、君が刺し殺してくれて良かったよ。それも右手で」

 天使がニコッと笑うと、渋谷の街は今日が明けて、明日がやってきた。街に靉靆な光が優しく降り注ぐ。天使に後光が差し、天使が片腕を持っているというシルエットが浮かび上がってくる。

「それじゃあ私はこれで。腕ありがとう」

 天使はわざわざ俺の腕で俺に手を振って見せた。ふっとその姿は消えて俺に思い切り陽光が当たり、ぐっと思わず目を瞑る。長いようで短かった、人生であまりに美しく、そして残酷だった「昨日」を反芻した。

「ふっ、あははっ、あはははは!」

 俺は笑いが止まらなくなった。
それも無理はない。だって俺は彼女を刺し殺しちゃいないからだ


「お兄さんはそうやって、時を止めようとして美しいものたちの花首を手折るのね。そんなのごめんだわ。ちゃんと汚い小説を書いてね」

 そう言って彼女は自分の首にナイフを当てたが、俺は退けようとした。しかし彼女は俺のナイフを持った手を離そうとしなかった。俺たちは揉み合いになって屋上を転がった。

「どうしてよ! 殺してよ! 私から奪ってよ!」
「だめだ! 刺しちゃいけない!」
「なんでよ……早く殺してよ。もう明日が来てるじゃない!」
「あっ!」

 ナイフが肉を切った感覚が伝わってくる。彼女は唸って、蹲っている。それでもなお、血だらけの手で俺にナイフを握らせ、トドメをさせようとする。

「うあああああっ! 早く……早くもう、殺してよ、お兄さん……なんで?」
「お嬢さんの身体に傷をつけるのは、お嬢さんだけでいい。だって、俺は『花首で手折る』んだろう?」

 そう言って俺はナイフを捨てて、両手で彼女の首を絞めた。呻き声ひとつ出せない彼女は俺に少し笑って見せた。そして俺の手の中で死んだ。彼女の目から落ちた涙が、頬を伝って首を絞めたままの俺の手に溶けていく。

「そんなに綺麗に泣くなよ。嗤ってくれよ。君があまりに美しく泣くから、俺は美しいものには目がないから。お嬢さんのそれを奪いたかった。だけどそんなものよりももっと、大事なもの、お嬢さん自身を奪わせてくれてありがとう」

 本当はそんなことに浸っていた。殺してしまったという感覚がなかったのだ。欲しいものが手に入ったと愉悦に浸っていた。側に膝をついて、血のついた汚い右手で彼女の頬を優しく撫でた。抜け殻のように、暫く、もう二度と三十六度の涙を流さない彼女のことを暫くずっと撫でていた。

 しかし、彼女の命を奪ったからとはいえ、欲しかった美しいものは手の内になかった。彼女の時間を止めても、美しいものの時間は止まらずに過ぎ去っていってしまった。彼女のどこを探しても、あの美しさを見つけられなかった。彼女はもう泣かないし、あの冷たい視線を向けてはくれない。殺してしまったら、それは全部、宝物だと思って宝箱に入れたら溶けてしまった雪だるまのようだった。そうやって焦っているうちに、殺してしまったという動揺が現れたのだった。

「残念だったな……俺は彼女を両手で殺したんだ。つまり、お前の持って行った左手はお前が生まれ変わって育ったら、誰かを殺すだろうなあ……ふふふふっ、あははは! あっはははははははは!」

 俺の高笑いが渋谷の端っこの端っこから響き渡る。暫く聞こえたそれは、やがて嗚咽に変わり、静かになって渋谷には明日の時間が流れた。

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