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203.

奥の個室に通され、座椅子に腰を下ろした頃合いを見計らって、先程の若い女性が湯呑みとおしぼり、割り箸とグラスを2つずつ、盆に乗せて運んでくる。明るい茶髪をおだんごに結った、涼やかな目元の小柄な美人だ。

「リンちゃん、最初は1本でいい?」
「いや、2本出していいよ」琳花リンカはさらっと答え、窓を背にして座っている瞬を見る。「どうせ飲むだろ?」
「えっ?」
「おビールです」彼女は、にっこりした。「リンさんはいつも飲まれるので。お連れ様は如何なさいます?」
「あっ、いえ」瞬は、慌てて右手を振る。「俺は、午後も仕事なんで ──── 」
「しょうがねえな。じゃ、とりあえずこれで!」リンカは、右手の指を1本立てる。「足りなかったらまた頼むわ!」
「絶対足りないと思うけど?」彼女はくすくす笑い、襖の外側へ出る。「では、ごゆっくり」

彼女が出て行ったあと、瞬はあらためて個室を見回す。墨絵の掛け軸と見事な生け花が飾られた床の間と、竹垣に面した窓のある、小ぢんまりとしながらも落ち着く部屋だ。一般客が通されるテーブル席は片側がベンチ式になっていて、その上に手製の座布団がずらりと並んでいたり、壁には切り絵や刺し子、こけしや色紙が飾られていたりと幾分カジュアルな印象だったから、ここは上客用なのかもしれないな?と、静かに流れるギタートリオを聴きながら、彼はそう推測した。テーブルの左端に立てかけてあるメニューを手に取ろうとすると、リンカは茶を啜りながら、さりげなく制止する。

「あ、いいよ。お任せで頼んでおいたから」
「そうなんですか?」彼は、途端に不安になる。「あの ──── 鰻って、かなり高いですよね?」
「そうでもねえよ」彼女は、素っ気なく答える。「国際通りのあっち側は観光客向けの値段だけど、ここはほぼほぼ地元の人間しか来ねえから。割とリーズナブルなんだ」
「なるほど。穴場なんですね」
「そゆこと」

熱いおしぼりで丁寧に手を拭き、きっちり畳んで右手に置くと、そのタイミングで再び、若い店員がやって来た。

「 ──── 失礼しまーす。おビールとお通しと、いろいろでーす」
「おっ、サンキュ!」

出された幾つかの小鉢と共に、ナプキンに包まれたフォークとスプーンが置かれた。それを見た瞬は不思議に思って顔を上げたが、彼女はそれに気付いて微笑んだ。

「リンちゃんから言われてたんで。食べ辛かったら使ってください」
「あ、そうでしたか。びっくりしました」瞬は恐縮し、それを受け取る。「お気遣いありがとうございます」
「こいつ、右手がちょっと不自由だからさ。箸だけだときついんだ」瓶ビールを手にしたリンカは、グラスを引き寄せる。「たまに外国人の客も連れて来るから、言えば用意してくれんだよ」
「なるほど ──── 」瞬ははっとして、両手を差し伸べる。「あ、リンカさん。手酌は駄目です!」
「だって、お前は飲まねえんだろ?」
「いや、あの。じゃあ、1杯だけお付き合いしますよ」
「沖縄DNA持ちで酒つええんだから。1杯と言わず付き合え!」
「ああ、はい」瞬は瓶を受け取り、苦笑する。「そうします」
「あれ、お客さん、沖縄出身ですか?」
「いえ。俺は東京生まれなんですけど、父がそうで ──── 」
「こいつ、魚前うおまえさんの次男坊だぜ?」酌を返しながら、リンカは付け加える。「かっぱ橋本通り、松が谷3丁目の蝋燭屋の隣にあった魚屋。知らねえ?」
「うおまえ、さん?」彼女は、首を傾げる。「じーちゃんばーちゃんなら知ってるかも!」
「あ、そっか。れいが生まれる前になくなってたからな」
「そそ。あ、ちょっと訊いてみますね!」
「いや、すみません。お忙しいのに ──── 」

再び襖が閉ざされて程なく、ばたばたと足音が聞こえた。失礼します、という声の次に、女将と麗が揃って顔を出す。

「何だい、あんた、瞬ちゃんかい!宮前さんとこの!」
「ああ、はい」瞬は動揺しつつ、頭を下げる。「生後半年ぐらいで引っ越したらしいんで、全然記憶はないんですけど ──── 」
「うちのお父さんと娘が一誠くんと良ちゃんの大ファンでね!よくMimosaに通ってたのよ!」
「えっ?そうなんですか?」
「そうそう!娘なんかそれで、ジャズギター始めたくらいなんだから!」女将は興奮した様子で、手に持っていた色紙と写真を差し出す。「ほら!」
「へえ、すげえ!」リンカは、思わず身を乗り出した。「これが瞬の父ちゃん?かっけえ!」
「あ、そうです。凄く字の綺麗な人だったって、マスターが ──── 」

写真は店内で撮られたもののようで、若き日の大将と高校生らしき娘を前に並ばせ、その後方でアコースティックギターを構え、仲良く肩を組んでいる一誠と良の姿があった。皆が言うようにその面立ちは自分に生き写しで、瞬は何となく落ち着かない気持ちになる。

「さっき入ってきた時、何だか一誠くんに似てるなぁってお父さんと話してたけど、まさか瞬ちゃんだとは思わなかったわよ!」
「ですよね。ていうか、俺のことご存知でした?」
「勿論!一誠くんはほんとに子煩悩で、よくあんたを抱っこしてうちにご飯食べに来てたのよ!」
「お母さんも言ってましたよ?一誠さんめっちゃかっこよくて、ずうっとタゲってたのに、お水のねーちゃんに取られちゃったって ──── 」
「こら、麗!」女将は、慌てて窘める。「失礼でしょ!」
「あっ、すいません!」彼女はあたふたと、頭を下げる。「実のお母さんでしたよね!」
「そうですけど、ろくでもない人なんで」瞬は、穏やかな声で答える。「こちらの娘さんと結婚した方が幸せだったと思います」
「まあねぇ」事情を知る女将は、複雑そうな顔をする。「2人目も男の子だったよーって、あんなに喜んでたのに、まさかあんなことになるなんて。あたしもお父さんも娘もニュース見て、腰抜かしちゃったよ!」
「そうなんですか ──── 」

瞬は何処かふわふわとした心地で、父の話を聞いていた。そうか。俺は全然覚えてないけど、良さんも近藤さんも、父は俺のことを凄く可愛がってたと仰ってたし。何より、ミュージシャンだった頃の父や、赤ん坊だった頃の俺を覚えてくれている人達が、ここにはいるんだ ──── 


「 ──── はいよ、白焼きお待ち!」2人の背後から、今度は大将が顔を出す。「あー、おいおい!あらためて見たら、一誠にクリソツじゃねえの!」
「でしょー?お父さんの目もまだまだ衰えてないなぁって!」
「そらそうよ!こんだけ似てたら、戸籍見なくても子供だってわからあ!」
「ああ、どうも。初めまして」瞬は少し迷ってから立ち上がり、財布から名刺を取り出す。「ちょっといろいろあって、名字が変わったんですが」
「おう、ありがとよ! ──── なんだお前、そんななりしてっから、てっきりミュージシャンかと思ったら。カメラマンなのか?」
「実は、そうなんです」彼は長い黒髪を後ろへ払い、顔を赤らめる。「すみません、紛らわしくて」
「あら?槙野瞬になってる!」女将はそれを見て、すぐに気付いたようだ。「宮前から改姓したのかい?」
「はい。中野に越してから母が再婚して、また別の名字になって。俺は実家から完全に独立したので、先月沖縄へ父の墓参りに行った際、伯父と養子縁組して貰ったんです」
「伯父って、一騎いっきくんだろ?」大将は名刺をしまいながら、豪快に笑った。「あいつはロックミュージシャンだったけど、歌がべらぼうに上手くてな!」
「はっ?そうなんですか?」
「そうそう!今はなくなっちゃったけど、下北沢のSONIC BOOMっていう店にしょっちゅう出演しててねぇ!」女将は、懐かしそうに目を細める。「あたしはそっちに通ってたのよ」
「ああ、言われてみれば ──── 」瞬は、一騎の風貌を思い出す。「今も面影ありますね」
「いやぁでもよかった!夜逃げしてからぱったり消息が途絶えちまったもんだから、どうしてんだと思ってたよ ──── あ、らっしぇ、毎度さま!どうぞ、お好きなお席へ!」
「やだ、お客さん来ちゃった!」女将は舌を出し、にこやかに右手を振る。「またあとでね!」
「あ、はい」瞬は立ち上がり、丁寧に一礼する。「ありがとうございます」
「こちら、お塩となま山葵わさびです」麗は皿を置いて説明し、襖を閉める。「お好みでお醤油つけても美味しいですよ!」
「はいよ、あざっす!」彼女を見送ったリンカは、そこで気付いた。「あっ、ごめん。まだ乾杯してなかったな?」
「リンカさん、いきなり飲み始めてましたからね」瞬は、思わず笑ってしまう。「では、乾杯」
「かんぱーい! ──── じゃ、熱いうちに食うか!」
「はい」瞬は、フォークを右手に持つ。「これも鰻なんですか?」
「そそ」白焼きを取り分けたリンカは、皿を瞬へ手渡す。「ほら。最初は塩だけで食ってみろ」
「ああ、はい。いただきます」

恐る恐る口を付けた瞬の様子を、彼女はビールのグラス越しに眺めている。最初真顔だった彼は、やがて何度も小さく頷き、大きな目を丸くする。

「 ──── うわっ!滅茶苦茶美味しいです!全然臭みがなくて、ふわっとしてて!」
「だろ?見た目に寄らず、ここの大将は本物なんだよ」リンカはにやりと笑い、箸を割る。「肝焼きも美味うめえから食ってみ!」
「肝焼きって、これですか?」
「そそ」
「いただきます ──── あっ、これも美味しい!ちょっとほろ苦くて、香ばしくて!」
「口に合ってよかったよ」リンカは彼のグラスにビールを注ぎながら、視線を合わせてくる。「ていうかお前、仮にも魚屋の倅だろ?食わず嫌いはいけねえな?」
「よく言われますけど。魚屋時代のこと、俺、全く知らないんですよ。中野では総菜屋の倅でしたし」テーブルに置かれたままの色紙と写真を見ながら、彼は首を傾げる。「だからさっきみたいに、生前の父のお話聞かせて貰えると、ほんとに嬉しいんです」
「そう思ってここに連れて来たんだよ」
「そうなんですか?」
「そうだよ。ここの娘さんも元プロのギタリストで、今は田町駅の近くで店やってるし。あんたも三田住みだろ?」

その言葉にはっとした瞬間、またもや失礼しますと声がかかり、女将と麗がやってくる。瞬は反射的に正座し、リンカは胡坐のまま振り返り、左手を伸ばして襖を開けるのを手伝ってやる。

「はいよ、鰻重の梅お2つ!うざくはサービスだよ!」
「やった、いつもあざまっす!」
「ありがとうございます。いただきます」
「やだよ瞬ちゃん、あんた足長いからきついでしょ?」女将は、眉をひそめて言う。「個室なんだし、膝崩しなさい?」
「ああ、はい。では、遠慮なく」

目の前に置かれた半月盆の上には、年季の入った重箱と吸い物腕、小鉢が2つと漬け物の盛られた小皿が乗せられている。重箱の蓋を開けると、飴色のたれを纏った肉厚な鰻がきっちりと並んでいて、香ばしい匂いがふわりと漂ってくる。

「どうだ、鰻初心者?いけそうか?」
「あ、勿論!全然大丈夫 ──── っていうか」と、女将を見上げ。「白焼きも肝焼きも、めっちゃ美味しいです!」
「そうかい、よかったよ!」もう1つの盆をリンカの前に置くと、女将はやや声を潜める。「ていうか瞬ちゃん、あんた今、慶應大学の近くに住んでるのかい?」
「そうなんです。それで、あの ──── 」瞬は頷きながら、小声で尋ねる。「こちらの娘さんってひょっとして、天草あまくささえさんですか?」
「そう!芝5丁目でクラフトビールの店やってるの!」
「ああ、やっぱり!俺の師匠の行きつけです!」瞬は、即座に納得する。「っていうことは、こちらは冴さんのご実家ですか?」
「ですです!」2本目の瓶ビールをテーブルに置きながら、麗はにっこり笑った。「ちな、わたしの母ですよー!」












13:30。

ランチタイムのラストオーダーを過ぎ、満員の客席を見回して、銘はほっと胸を撫で下ろす。水色のトレーナーの上に黒いエプロンを着けた優は、カウンターの内側の丸椅子に腰を下ろし、がっくりと項垂うなだれる。

「ふひー、きっつ!毎回だけど、立ちっ放しのバイトきっつ!父さんも銘ちゃんもよくやってるよ!」
「あはは、お疲れ!助かったよ!」銘は笑いながら、彼の肩をぽんぽん叩く。「昼飯、何にする?」
「どうしよっかなー?カレーってまだあったっけ?」
「あ、1人分はあるよ」
「じゃ、それで!銘ちゃんは?」
「俺はいいや。サンドイッチの余りの耳食ってたら、お腹いっぱいになっちゃって ──── 」
「またそれだ!祥ちゃんに怒られるよ?」
「そうなんだけどね。入らないものは入らないし ──── 」
「僕、コブサラダ作りますよ」ウォーターピッチャーを手にラウンドから戻ってきた和哉は、にこやかに言う。「奏くんがある程度仕込みしていってくれたんで」
「ああ、何か作っておくって言ってたな?」
「今日の出演者がヴィーガンらしいからって」和哉は丁寧に手を洗い、タオルで拭く。「ほんとに気が利く人なんですよ」
「えっ、そうなの?イシャーンが?」
「へえ、知らなかった!」優は立ち上がり、厨房へ向かう。「インド系なのは知ってたけど!」
「今日のライブって、ギターとヴォーカルのデュオですよね?」
「 ──── って、薫さんからは聞いてるけど」銘は不安な表情でフライヤーを手に取り、何度も首を傾げる。「このspecial guestってのが、誰だか気になるんだよなぁ?」
「確かに。当日のお楽しみだそうですけど」和哉は笑いつつ、それを覗き込む。「その組み合わせだと、ベースじゃないです?」
「それか、ピアノか、管か」銘は、肩を竦めた。「だとしても。オーナーの俺にぐらい、教えてくれてもよくない?」




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