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202.

7:00。

枕元に置いたスマートフォンのアラームを手探りで止め、昨夜の酒が残った体を横たえたまま、彼は考える。カーテンの開けられた部屋には暖かな秋の陽光が差し込み、控えめな音量でスムース・ジャズが流されている。と、いうことは?
8畳のワンルームに置かれたシングルベッドの中で寝返りを打ち、何とか瞼を抉じ開けると、ラブソファの前に敷かれた楕円形のラグの上で胡坐をかき、BOSEのBluetoothスピーカーを置いたローテーブルに向かい、問題集とノートを広げて黙々と勉強をしている奏の横顔が目に入った。恋人の視線に気付いた奏はぴたりと手を止め、深いグリーンの瞳を向け、微笑んでくる。

「 ──── おはよ」
「おはよう」哲郎はそう言うと、もう一度枕に突っ伏した。「いいの?」
「何が?」
「出掛けなくても」
「何処に?」
「芝浦」
「ああ、言わなかったっけ?金曜と土曜はバイト免除にして貰ったんだよ」
「そうなの?」
「そうだよ」左手に持ったシャープペンシルをくるくる回してノートの上に置き、立ち上がる。「銘さんが、週末ぐらいテツさんの傍にいてやれって」
「マジかよ?」彼は溜め息をつき、がりがりと頭を掻く。「この前の件で、気を遣わせちゃったかな?」
「つうか、新婚のうちから夫夫ふうふが擦れ違うのはよくないって ──── コーヒー飲む?」
「ああ、うん。っていうかその言葉、銘くんにそのまま返したいけどね?俺は」
「ほんとだよ」レインボーカラーのビキニに白いTシャツという格好で、奏はキッチンに立つ。「祥さんも薫さんも呆れてたけど、変なとこひねくれてんだから」
「昨日宗治ママさんが言ってたけど、ジョシュさんって今、ツアーで日本にいるんだろ?ちらっとでも会ってくればいいのに」
「ついでにジャルダンの楽屋かどっかで一発ヤってくりゃいいんだよ」てきぱきと支度をしながら、奏は欠伸を噛み殺す。「溜まってていいことひとつもねえし」
「ちょ、ルカ!言い方!」哲郎は鋭く咎め、ベッドを抜け出す。「 ──── あれ、俺のは?」
「洗濯機に放り込んどいた。どうせまたするからそのままでいいっしょ?」
「まあ、するだろうけど」彼は全裸のまま、大きく伸びをする。「勉強の邪魔するのも悪いなと思って」
「別に。志望校のレベルがっと下げたから余裕だよ」
「ルカは頭いいからなぁ、俺と違って」彼は背後から、奏を抱き締める。「相変わらず、物件探しもしてんだろ?」
「うん。あ、そうそう。いいとこ見付けたよ」
「へえ?芝浦で?」
「そ」丁寧にハンドドリップをしながら、奏は頷く。「しかも、Riotのすぐ近く」
「マジで?凄いな?」
「今日明日って話じゃないけどね。After Darkのオーナーが店継いでくれる人探してるって言うから。今度一緒に話聞きに行こう」
「うん?アフター・ダークって、何処かで聞いたことあるような ──── 」彼の左肩に顎を乗せ、哲郎は考える。「あ、わかった、箕面みのおさんだっけ?あの近辺でも超有名なジャズバーだろ?」
「そうなんだけど、息子さんも娘さんも水商売は嫌だって、さっさとメーカーに就職しちゃったそうだから」
「そういうの、老舗あるあるらしいな。青野さんとこはいざとなったら、凌太りょうたくんが継ぐらしいけど」
「青野さんはまだまだ元気っしょ?要さんもいるし」
「そうなんだよな。あの子典型的な陽キャで、頭の回転も速いし、話題も豊富だし、お客さんにもバリ人気あって。ホストよりバーテンダーに向いてるって、みんな褒めてるよ」
「わかる。俺もそう思う ──── ね、そろそろカップ用意して」
「あっ、ごめん!」哲郎は慌てて腕を離し、水切りかごからマグカップを取り出す。「ルカのは向こう?」
「うん」彼はドリッパーを外してシンクの中に置き、サーバーに蓋をしてテーブルへ向かう。「白湯さゆ飲んでたから」
「白湯って、女子か?」彼に続いて部屋に戻った哲郎は、ラブソファの左側に腰を下ろす。「最近随分意識高くない?」
「俺もこの前過労で倒れたから気を遣ってんだって、一応」カップにコーヒーを注ぎながら、奏は横目で彼を睨む。「そのせいで、みんなに迷惑かけたしさ?」
「あ、そういうことか。ごめん」
「銘さんの方も何とか小康状態になったから、こうしてサボってられんだけど」
「小康状態って?」
「瞬さんのこと、覚えてる?」
「ああ、勿論」哲郎は、コーヒーを啜りながら頷いた。「十河そごうくんだろ?凄腕のカメラマンで、天才ギタリストの息子で、西村ヨシさんの弟子やってる ──── 」
「そそ。あの人が銘さんとこに入り浸ってくれてっから、そっちに任せてるんだ」
「入り浸ってるって?何でまた?」
「銘さんがNEMESISに行かないように」
「えっ?」彼は驚いて、身を乗り出す。「ママさんもちらっと仰ってたけど。あれって、ガチな話だったのか?」
「ガチどころじゃないって。お陰で先月ほんとに大変だったんだ」
「だよなぁ。俺の知り合いもそこハマって、億単位で溶かしたって言ってたから」
「知り合いって?カール?ロック?」
「そんなのもいたな。違う違う、アブの常連で、 ──── お前知ってるかな?ジェって奴」
「はいはい、首までびっしりタトゥー入れまくってるDJ!」奏は、子供のように顔をしかめて彼を見る。「てかあの人、富裕層だったんだ?」
「親父さんがタイ有数の実業家っぽいよ」
「へえ。数億あったら、大番会館永遠通えるじゃん?」
「通うより、丸ごと買い取った方が早くね?」哲郎は笑いつつ、奏のノートを手に取る。「ていうか、相変わらず何書いてるかわかんないな?」
「医学部は数Ⅲ必須だからね。健人けんとさんに教えて貰ってるんだ」
「はあ?まだあいつと付き合ってんの?」
「付き合ってねえし。つうかあの人、ゼカさんの元カレだよ?」
「あ、そうだった。元々はゼカくんの幼馴染みだったって?」
「うん。あの通り、他人を秒で苛つかせる才能持ってるけど、悪い人じゃないんだ。アスペだけど、サイコじゃないし」
「見るからに変わり者だけどな?」哲郎はマグカップをテーブルに起き、奏の耳に口づける。「あの・・青野さんにタメ口利く奴、俺、生まれて初めて見たぞ?」
「あれはさすがに俺もビビったけど、本人は何とも思ってないんだよ」
「そういうの、サイコパスって言うんじゃなかったか?」
「サイコは平然と嘘つくけど、健人さんはああ見えて嘘はつかないんだよ。どちゃくそ頭切れる人だから、自分の言動が結果的に嘘にならないように、きっちり計算して動いてるんだ」
「中卒の俺にはよくわかんないよ。頭のいい奴のすることは」哲郎は、いぶかしげに首を傾げる。「ていうか、随分と詳しいんだな?」
「健人さんと銘さんって、対極だからね。ある意味わかりやすいんだよ」
「ああ、確かに。そんな感じはするな」その言葉に、哲郎は同意する。「同じ切れ者でも、健人くんは誰からも煙たがられるタイプで、銘くんは誰からも好かれるタイプだからな」
「そういうこと。健人さんは完璧に自分の感情や情報をコントロール出来るけど、銘さんは基本だだ漏れっていうか、垂れ流しなんだ」奏は左手の指先で目を擦り、彼の右肩に寄り掛かる。「そこがまあ、銘さんの魅力でもあるんだけど。同じ紙の表と裏みたいだよ」
「それは、わかる気がする ──── そういや、天才にはまんべんないのと欠落してるのがいるって、前に國原さんが仰ってたな?」
「そう。ジョシュさんや健人さんはまんべんない組で、ゼカさんや銘さんは欠落組なんだ」
「ルカも典型的な前者だもんな。ちな、俺は?」
「テツさん、天才だったっけ?」

それを聞いた哲郎は目を細めて彼を見、その表情を見た奏は思わず噴き出した。

「ちょ、お前!そのタイミングで笑うかぁ?」
「ごめんごめん、根が正直なもんで!」
「悪かったな、凡人で!」哲郎は軽々と彼を抱き上げ、ベッドへ放り出す。「この野郎、思い知らせてやる!」
「うおっ?ちょっと、テツさん!俺まだ勉強終わってないんだけど?」
「うるさい!お仕置きだ!」
「あーあ、毎回これだよ!」奏は笑いつつ、Tシャツを脱ぐ。「自宅だと、全っ然進まねえ!」











10:45。

大勢の観光客を掻き分け、予定より早めに集合場所に行くと、陽光にブルーの髪を靡かせ、レイバンのサングラスをかけた琳花リンカが交差点の向こう側に立っているのが見えた。酷く不機嫌そうな表情にやや不安を覚えつつ、信号が変わるのを落ち着かない気分で待っていると、案の定数人の外国人が彼女に群がって、素っ気なく断られたのか、苦笑いしつつバイバイと手を振っている。ですよね、と、瞬は状況を即座に把握し、青信号と共に駆け足で横断歩道を渡る。すれ違った外国人達はちらりと彼を一瞥したが、彼がリンカの元へ真っ直ぐに向かうと、やれやれと言った感じに肩を竦め、六区通りの方へ去っていく。大きなカメラバッグを背負った瞬を見たリンカは、サングラスを外して目を細め、少しだけ口角を上げた。

「 ──── よお、久し振り」
「お久し振りです」瞬は立ち止まり、息を整えながら、きっちりと一礼する。「お帰りなさい」
「ただいま」彼女は彼の姿を、上から下まで眺め回す。「つうか、珍しくカジュアルだな?午後も仕事じゃねえの?」
「そうなんですけど」黒のフーディーに細身のジーンズ、黒のレースアップスニーカーという格好の瞬は、恥ずかしそうに答える。「今日の現場は小さい子が多いから、こういう方がいいかなーと思って ──── 」
「小さい子って?」
「地域密着型の子供服ブランドのイメージフォトで。プロのモデルじゃなく、地元のお子さん達を撮らせていただいたんです」
「へえ?泣かれなかったか?」
「いえ、俺は幸い、子供と動物には好かれる方なので。めっちゃ懐いて貰いました」
「そりゃよかった」彼女は無表情に答え、くるりときびすを返す。「じゃ、ちょっとはええけど、行くぞ!」
「はい」
「腹減らしてきたか?」
「あ、はい。 ──── ていうかリンカさんさっき、ナンパされてませんでした?」
「されてるなんてもんじゃねーよ。たまに明るいとこに出るとすぐアレだ!」彼女は吐き捨てるように言い、ヒールをかつかつ鳴らして大股で歩く。「外人は人のツラ見りゃhow much?って訊いてきやがるし、芸能事務所だの風俗だののスカウトも入れ食い状態だし、くっそ失礼だよな?あたしを誰だと思ってやがる?」
「ああ、そりゃムカつきますね。ていうかその、リンカさんも普段より幾分カジュアルな格好されてるから、マジシャンだってわからないのかも ──── 」
「あのな?幾らあたしでも、公共の場であんなエロい衣裳着られっかよ!」
「ですよね、すみません」

色褪せたデニムジャケットにオレンジ色のタンクトップ、裾のほつれたエスニック柄のミニスカートから、形のいいすらりとした脚が覗く。ほんとに綺麗な人だな?と瞬はあらためて思い、やや距離を取りつつ、その背後を慎ましく歩いていたのだが、それが却って目立つようだった。

「ちょっと、瞬?並んで歩けよ!」
「えっ?」
「あたしが1人で歩ってたら、またウゼえのにロックオンされっから!」
「ああ、なるほど。確かに」彼はあたふたと駆け寄り、リンカの左隣に並ぶ。「これでいいです?」
「男は車道側だ、馬鹿!」
「あ、そういうものなんですね?了解しました!」

瞬は慌ててその右側に並び直し、真横にいる彼女の凛とした横顔を、恐る恐る覗き見る。リンカはちらりと瞬を眺め、小さく頷いた。

「うん。それでよし」
「男は車道側、男は車道側」彼は正面を見据えたまま、復唱する。「覚えておきます」
「ていうかさ、お前、想像以上に世間知らずだな?」リンカは、呆れたように言う。「そこから教えなきゃ駄目か?」
「すみません」瞬は、申し訳なさそうに頭を下げる。「前にも言いましたが、彼女いない歴イコール年齢なものですから」
「何度も訊くけど、そのビジュアルでか?」
「はい」
「交際経験ゼロって流想ルソウから聞いて、冗談だと思ってたのに。そりゃ出来ねえよな?」
「ですよね。俺もそう思います」
「つうかそもそも、欲しいとも思ってねえだろ?」
「それもありますね。女性は勿論、同性でも友達殆どいないんで。どう接していいのかわからないっていうか ──── 」
「ああそうだ、例の彼氏はどうしたんだよ?風雅と同じ名字のスーパースターは?」
「いや、そんな!彼氏、じゃないですけど ──── 」瞬は一度咳き込み、ハンカチで口元を拭う。「 ──── すみません。銘さんとは、今朝まで一緒にいました」
「今朝まで?」彼女は驚いて、素っ頓狂な声を出す。「何だよお前、ついにセイコウしたのかよ?」
「ちょ、リンカさん!」瞬はぎょっとして、周囲を見回す。「昼間ですって!」
「いいって別に、二度と会う連中じゃねえし!」彼女は彼の左肩を平手でばんばん叩き、声を潜める。「で、ついにヤったのか?」
「ヤってません!」瞬はやむなく、嘘をついた。「お店に泊めて貰って、健全に寝ただけです」
「なーんだよ、つまんね!でも一気に進展したみたいだな?」
「そうなんですが。その分逆に、悶々としてしまって ──── 」
白百合リス・ブランのママもよく言ってんだけどさ、女同士って性欲だけじゃ結びつかねえし、過程を端折れねえから割とめんどくせえんだよ。男同士はその点話はええから、割とすんなりカップル成立するらしいけどな?」
「どうなんでしょうね?その辺は。人によると思うんですけど ──── 」瞬は曖昧に答え、さりげなく話題を変える。「それよりリンカさん、背ぇ高いですよね?俺と同じぐらいじゃないです?」
「167cmしかねえよ」彼女は歩きながら、地面を指差す。「今日は5cmヒール履いてっからじゃね?」
「あっ、そうか。それで!」
「つうかお前大丈夫か?憧れの人と寝たもんだから、寝不足で頭ん中ふわふわしてねえ?」
「いや、それが。あんまりあったかくて、気持ち良くて。朝まで爆睡してしまって ──── 」
「マジかよ?大物だな?」
「すみません」瞬は、顔を赤らめる。「最初の頃は緊張して、眠れなかったのに」
「最初の頃?」
「何でもないです、聞き流してください」瞬はさっと視線を逸らし、通りを指差す。「あ、ここを左ですよね?」
「そそ。来たことあんのか?」
「いえ、初めてです。Google Mapのストリートビューで下見しただけで」
「なるほどな。そういうとこはちゃんとしてんだ」

赤煉瓦タイルを外壁に施した古びたマンションの1階、入居者用のエントランスの右手に鰻屋の入り口があった。まだ開店前らしく暖簾は出ていなかったが、リンカは勝手知ったるという足取りで、真っ直ぐにそこへ向かい、引き戸に手をかける。

「たいしょー!ちょっと早いけどいい?」
「おう、らっしぇー、リンちゃん!ばたばたしてっけど、いいよ!入んな入んな!」

見事な巻き舌にやや気圧けおされながら、瞬はその後ろから店内を覗き込む。左手の厨房の中には年配の店主と女将らしき夫婦がいて、感じのいい笑顔を向けてくる。

「あら、いらっしゃい!」女将は、店の奥に向かって叫ぶ。「れい!リンカちゃんいらしたわよー!」
「はーい!」

元気な声に次いで、ぱたぱたと足音が聞こえた。小走りで出て来た若い女性は、にっこりと微笑んで一礼する。

「いらっしゃいませ、2名様ですね!」藍染めの作務衣にデニムの前掛けを着けた彼女は、左掌を廊下の突き当たりへ向ける。「お座敷、用意しておきました!」




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